皇室と平和憲法
   
                 
学友との神学的談話会(2020年11月4日)
 
                 1章 平和憲法の宗教性
■象徴する天皇
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
                   〔第1条〕
 私がここで現在の日本国憲法を採りあげるのは、そこに含まれている宗教的な性格に注目したいからです。憲法は、国の政治に関係するから、宗教とは関係がない。こう思う人は、今の日本の憲法のほんとうの性格を正しく理解していないと言うべきです。
 「日本国を象徴する」ものと言えば、私などは、すぐに日の丸を想起します。日本人でも中国人でもアメリカ人でも、「日の丸」を見れば、すぐ日本を「連想する」からです。しかし、日の丸はそれ以上「何も語りません」。なぜなら日の丸は物ですから、それが象徴する「日本国」は言葉を発しないのです。日の丸が象徴する日本の「価値」そのものは、「それを見る人」のほうに一方的に委ねられるのです。善くも悪くも、これが日の丸が「象徴」であることの意味です。
 ところが、天皇陛下が「日本国の象徴」(the symbol of the state)だという場合は、日の丸とは異なります。なぜなら天皇は「一人の人間」だからです。だから、この象徴は、発言し、行動する「人格」(person)です。そこには、当然、その人の人格に具わる「善い・悪い」などの価値観を伴います。だから、その価値観は、「天皇のほうから」世界に向けて発信されるのです。憲法では、天皇は「日本国民統合の象徴」(the symbol of the unity of people)だとあります。この憲法は「日本国民は」で始まります。私の記憶に間違いがなければ、ここは、英文で"We the Japanese" (私たち日本人は)です。イギリス人が「英国は」というとき、通常、"We English(men)"と言います。ですから、天皇は日本という国の象徴だけでなく、日本人が統合されて一体とされるときの象徴なのです。
 「主権の存する日本国民の総意に基く」とあるのは、憲法の「主権者」である日本の国民と皇室とが深く関係していることを表わしています。国家の「主権」を構成する要因は、通常、大きく三つにまとめることができます。それは、国防のための軍事力と、経済力の源である税と、国家理念の三つです。だから、どこの国の国民もなんらかの兵役と納税と国の理念に従うことが求められることになります。皇室と国民とが直接関係するのは、この中の国家理念の分野においてです。だから、天皇は日本の国(くに)だけでなく、日本人全体の「理念」を象徴するのです。
 日本と日本人の全体を一人の人間が象徴することを「擬人化する」(personify)と言います。物や抽象概念を擬人化するとは、アポロン(太陽)やアプロディーテー(恋愛)などのように、「神話化する」ことにつながります。実は、この「神話化」に、人類の宗教の始まりを見いだすことができます。日本の皇室は、『古事記』と『日本書紀』の記紀に由来する宗教的な祭儀を執り行なう家柄ですから、大嘗祭の例をあげるまでもなく、皇室は、様々な祭儀を行ないます。だから、天皇が象徴するのは、日本と日本人全体の「理念」であり、しかも、その理念は、神話的で宗教的な性格を帯びていることになります。皇室に具わる祭儀性と日本の国家理念とを切り離すことはできません。それは、イギリスの王室が、英国聖公会の首長として、イギリスの国家理念であるキリスト教と切り離すことができないのと同じです。言うまでもなく、憲法は「国家の政治」に関わるものです。しかし、「皇室と憲法」との関係を考える場合に、そこに、「宗教的な」理念が含まれてくることに注目しなければなりません。  
■個人の自由
 「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」                                 〔第十一条〕
「すべて国民は、個人として尊重される。」〔十三条〕
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」〔第十九条〕
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」〔第二十条〕
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」
                           〔第二十一条〕
 ここに掲げられている「個人の権利と自由」は、もしこれらを字義どおり<まともに>受け取れば、どんなに驚くべきことか、皆さんは想像がつくでしょうか?その国の個人個人の全員が、完全に自由に発言し、集まり、出版し、結婚し、自己の「幸福追求」を行なうことができて、しかも、個人個人の行為が、ことごとく「公共の福祉」にかなう。そんな国が、今の世界で想像できるでしょうか?
 「個人個人」が勝手に自分の権利と自由を主張したら、国は大混乱に陥って収拾がつかなくなるだろう。こう考える為政者が少なからずいるようです。こういう意見は、公共の益のための「個人」と、自己勝手な振舞いをする「私人」と、この二つの区別がつかないために、「個人」を「私人」のことだと取り違えるところに生じるものです。ところが、他方で、憲法に定められた個人の自由とは、政府の権力を制限し、権力者による暴政を防ぐためのものである。こういう主張もあります。これらは、どちらも「政治的な」視点に立つ見解であって、憲法を「宗教的な」視野から読み解くなら、どちらも正しくありません。「私人」と「個人」とは異なるものです。「私人」が自分勝手な振舞いをすれば、国も社会も成り立ちません。しかし、個人個人がその個性を発揮するなら、それは国と社会を形成する力となります。例えば、棟方志功のような津軽育ちの個人が描く「個性溢れる」画像は、世界に共通する普遍的な価値を帯びています。野球やサッカーの選手たちが、「私心」を捨てて、その「個性」を発揮するなら、チームはその力を発揮できるのです。
 では「個人」とはなにか? 日本国憲法が言う信仰の自由、言論の自由、結婚と離婚の自由など、議会制民主主義の根幹となる「個人の自由」は、17世紀のイングランドのピューリタン神学に由来するものです。したがって、憲法の「個人」を宗教的な視野からたどると、そのモデルとなるある宗教的な原型が見えてきます。それは、「ナザレのイエス」という「個人」です。ナザレのイエスは、前4年頃から後30年頃まで、現在のイスラエル国家があるパレスチナで生まれ、生涯をパレスチナから離れることなく、最後に十字架刑の苦難を受けてその地上での生涯を終えた人です。だから、ナザレのイエスは、「現実に存在した一人の人間」です。ところが、このナザレのイエス様を通じて、天地を創造された神ご自身が啓示されました。正真正銘の「一人の人」の生涯を通じて、神ご自身が人類に語られた。これが、キリスト教神学の核となる出来事です。このナザレのイエス様こそ「個人」の宗教的な原型です。だから、憲法で言う「個人」は、「ナザレのイエス」という宗教的な「特定の個人」をその背景に潜ませています。 
 法治国家は宗教団体ではないという理屈はよく分かります。しかし、それは、国家が法を破る者を処罰し、国民一人一人が、国家の法に背かないように監視し束縛するという「政治的な」意図から出た国家観です。民の一人一人が、自ら進んで「公共の利益のために」働き、国家の平和と繁栄を願って自分に与えられた使命に向かって「内面的に」動かされ、その才能を「自信を持って」発揮する。これが、ここで憲法が求めている「個人の自由」の真の意図です。
 イエス様は、「一人の個人」でありながら、単なる見本としての「モデル」ではありません。イエス様は、十字架の苦難を経て、人間の弱さと罪深さを深く体験することで、人間の犯すあらゆる罪に打ち勝って、罪を赦してこれに勝つ力を与えられ、神の御子として復活されました。これは、イエス様個人に宿る聖霊が、イエス様を知る「すべての人に」も宿ることができるためです。十字架と復活を経過することで、イエス様は、全人類が、「ナザレのイエス」という「個人に成る」ことができる道を拓(ひら)かれたのです。イエス様個人の霊性が、これを受け容れるすべての人に宿ることで初めて、すべての人が、神から授かった「個性」を発揮することができる道が拓かれたのです。こういう個性が発揮されるところでは、人と人とが交わりを保つまことの共同体が形成され、その共同体が、世界の平和を創り出すことのできる国を造るのです。
 真のイエス・キリストの教会であれば、聖霊の働きに燃えて、各自に与えられた聖霊の賜を自由に発揮できることを喜ぶ牧師は居ても、それを妨げる牧師はいません。この憲法は、国民一人一人に、そういう自由を発揮する個人となるように「法的に」励まし促しているのです。国家の法律に縛られて、嫌々ながら仕事をするような「国民」になれと指示しているのではありません。私利私欲を捨てて、「公共の利益のために」自ら進んで自己に与えられた使命を全うしようと勤める。そんな役人を持った国の国民は何と幸せでしょう。この憲法はそういうことを言おうとしているのです。私が「驚くべき」憲法だというのはこの意味です。私に言わせれば、この憲法は、イエス・キリストの聖霊憲法です。
 ナザレのイエス様こそ、その霊的な個性を発揮することを通じて、全人類に共通するまことの「個人」の有り様を啓示してくださいます。イエス・キリストの聖霊が働くところに発揮される「個人の自由」、これこそ、日本国憲法が言う「個人の自由」がほんらい指し示している意味なのです。
「あなたがたが私に宿る聖霊からの語りかけを受け容れ宿すなら、真理を悟る。その真理が、あなたを自由にする」(ヨハネ8章31節)。
「主イエスは霊である。主の霊があるところ、そこに自由がある」(第二コリント3章17節)。
 これが、日本の憲法が定める「個人の人権と自由」の宗教的な意味であり、それゆえに、「侵すことのできない永久の権利」なのです。
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