2章 絶対平和と終末
■絶対的平和主義
「(国際)平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」〔前文から〕
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」〔第二章第九条〕
いかなる場合にも決して暴力を用いず、叩かれても殴られても仕返しをしないことを「非暴力主義」(non-violence)と言い、集団でこの方針を採ることを「絶対平和主義」(pacifism)と言います。ロシアの文豪トルストイとインドの指導者ガンジーとアメリカの預言者ルーサー・キング牧師などが、絶対平和主義を唱えた人たちとして知られています。この憲法第九条も、その主旨として「絶対平和主義」を唱えていると世界では受け取られています。実は、絶対平和の思想の歴史は古く、その源をたどれば、旧約聖書のイザヤ書の11章や35章に、これの源を見ることができます。北王国イスラエルと南王国ユダが、それぞれ、アッシリアと新バビロニアによって滅ぼされて、バビロンで囚われの民とされてから、奇しくもペルシアのキュロス王によって、ユダの民だけがエルサレムのあるユダの地に帰還することを許されるという出来事がありました(前539年)。イザヤ書では、この民族絶滅の危機を辛くも免れた「解放の喜び」が預言されています。
イザヤ書は、「弱い者たちを正義によって救う裁判を行ない、国の苦しむ人たちのために正義の判決を与える」(イザヤ書11章4節)「メシア」(救い主)の到来が預言されていることで知られています。このメシアが到来する時には、「狼は小羊と共に宿り、豹が子山羊と共に休み、子牛と若いライオンが共に草を食べる」(イザヤ書11章6節)という比喩的な言い方で、戦(いくさ)のない絶対平和の世界が訪れると告げられています。その時、「人々は主の栄光を見、私たちの神の輝きを知る」(イザヤ書35章2節)のです。
■絶対平和の終末的な追求
捕囚期以後のユダヤでは、イザヤのこの預言が、メシアが到来する「終末の時に」実現すると信じられていました。ナザレのイエス様が神の御子であるという信仰は、イエス様こそ、このメシアであり、イエス様の到来によって「終末が実現した」と信じられたからです。ところがイエス様は、「(絶対平和の)神の御国は近づいた」と告げましたが、「完全に到来した」とは言いませんでした。イエス様の到来によって絶対平和の時代が「始まった」のですが、これが完全に実現する時期は、「人類の終末の時期まで」待たなくてはならない。イエス様は、このように告げ、自ら進んで十字架刑の苦難を受け、その死の中から復活されたのです。だから、人類への絶対平和の訪れは、イエス様の到来によって始まりましたが、まだ完全に成就してはいないことになります。
私たちが、憲法第九条に盛られている「絶対平和」の思想を考えるときに、このようなキリスト教の平和主義の信仰と、それが終末的な展望を抱いていることが背景にあることを知る必要があります。軍備を持たない国家など「夢物語の理想主義に過ぎない」という九条への批判は、この背景を視野に入れるなら当然だと言えます。日本を始め世界全体が、未だ終末に到らない「理想と現実との狭間」の中を歩んでいるからです。憲法九条だけではありません。「殺すな。盗むな。姦淫するな。(他人の物を)奪うな」というモーセの十戒は、今から三千年以上も前から人類に与えられている戒めですが、これが「完全に実現している」国は、世界のどこにも見当たりません。この十戒も、人類の終末を目指してその成就を待ち望んでいるからです。
当然のことながら、この憲法が目指している理想とこの世の現実との間には、大きな開きがあります。これが「終末を目指して理想を追求する」宗教の特徴だからです。しかし、どんなに開きが大きくても、現実に照らして理想を嘲(あざけ)ることをしないでください。むしろ、理想に照らして現実のほうを嘲ってください。理想から現実を見ると、そこに風刺や皮肉やお笑いが生まれます。しかし、現実にとらわれて理想を見失うと虚無(ニヒリズム)の冷笑が生じます。虚無感はモラルの崩壊をもたらし、モラルが崩壊すれば(性道徳の乱れ)、そこから必ず、独裁的なファシズムが台頭します。
このように、理想と現実との間には、大きな隔(へだ)たり(ギャップ)がありますから、両者の間に多様な選択肢が広がっています。そこには、現実に即応する選択から、理想を目指して、憲法が言う「幸福を追求する」「個人の自由」をどこまでも貫こうとする選択まで、実に様々な個人の有り様が広がっています。終末の理想と現実との間に広がるこの「個人の自由」による選択が、どれほど幅のあるものか、その多様性を例示しましょう。
政府から君が代を歌うことを強制されているとして、これに抗議して、卒業式でも君が代を歌うことを拒否する人たちが居ます。私は彼らの自由を批判もしなければ、賛同もしません。しかし、日本の皇室は、戦後一貫して平和憲法を守り、これに準じて歩んできました。だから、君が代を歌えというのなら、憲法で唱えられている平和主義と戦争放棄を奉じて、今もこの道を歩み続けている日本の皇室を讃えて、大いに賛美しようではありませんか。こういう選択もあるのです。国内だけではない、国の内外の人たちに響けとばかり、日本の平和憲法とこれを守る皇室の歩みを賛美するのです。「かつての」皇室ではない。世界平和を真剣に希求する「今の皇室」を誇りに思って歌うのです。とりわけ、朝鮮半島と中国の人たち、韓国や中国のキリスト教徒たちの耳に届くように、「私たちの」君が代を声高らかに歌うのです。相手が、「一里行け」と言うのなら、私たちは「二里行き」ましょう(マタイ福音書5章41節)。歌わない自由を主張することも、歌う自由を活用することもどちらもイエス様にある「個人の自由」です。イエス様にある聖霊の自由が、どれほどの幅と多様性を有しているのか、これでお分かりいただけたでしょうか。
■理想を追求する力
では、理想と現実との隔たりをどうすれば克服できるでしょうか? その力はどこから来るのでしょうか?憲法を国の政治を規定する法文として扱っている限り、平和を妨げようとする現実を克服する知恵も力も湧いてきません。イエス様はこう言われました。「幸いだ、平和を造り出す人たち、その人たちこそ神の子とされる」(マタイ5章9節)。人間は弱く無力で、その上、ごう慢で罪深いです。そんな人たちの間から、「平和を造り出そうとする」力が出てくることは望めません。人間の弱さと罪深さに逆らい、これを逆転させることができる不思議な力、争いと戦(いくさ)を繰り返してきた人類を「とにかく今まで導いて」、「なんとか平和を実現させようと」働きかけている「人には見えない神の力」、これがなければ、人類はとっくに滅びていたでしょう。宇宙を創造し、地上に人類を生まれさせた神は、ナザレのイエス様を遣わして、人間の弱さと罪深にも「打ち勝つ」ことのできる力を、死の力から復活された神の御子イエス・キリストを通し、そのお方から発する聖霊の働きによって、「平和を造り出していく力」を個人個人に働かせることができるのです。だから、イエス様に言わせるなら、「平和を造り出す」人は、だれであっても、「神の子」です。こういう力が働かなければ、憲法九条は、無力で実効力を持たない「ただの理想」に終わるのは当然です。驚くべきことに、現在の日本の皇室は、この平和憲法を真摯に守ろうとされています。メディアも書かないし、日本のキリスト教徒も誰も言わないから、私が言います。こういう憲法を守ろうとしている皇室をいただく日本の国家理念は世界一です。今の日本は、世界の国々の中で、人類の平和と自由という希に見る理想を掲げた国家理念を抱く世界で唯一の国です。私は、こういう日本を誇りに思い。神に感謝します。
皇室と平和憲法へ