3章 皇室と宗教的習合
■倭(やまと)の皇室
 では、皇室は、この平和憲法をいやいやながら受け容れたのでしょうか? そうではありません。なぜなら、昭和天皇から平成天皇へ、そして令和天皇へと、皇室は、この憲法を守ろうと「積極的に」努めておられるからです。しかもそれは、皇室が、神道という「宗教的な国家理念」を体現し、かつこれを代々受け継いできたことと切り離すことができません。
 ここで私たちの目を古代の日本の皇室の有り様に向けてみましょう。『古事記』が語るように、神武天皇に始まる倭(わ)の皇室は、およそ4世紀頃まで、「まつろわぬ者ども」を流血と武力で征服する「撃ちてし止まむ」の精神で貫かれていました。しかし、5世紀の初め頃、朝鮮半島と中国大陸からの渡来人によって、老子をその始祖とする道教が倭国の朝廷にもたらされると、「道教」と習合した大和朝廷の宗教は「神道」(しんとう)と称されることになります。だから、『古事記』の仁徳天皇の美徳の記事には道教の教えが反映しています。
 さらに、『日本書紀』が伝えているように、7世紀の初め、最初の女帝推古天皇の御代に、聖徳太子によって仏教が朝廷に導入されます。「習合する」(duplicate)とは、互いに「習い合う」ことですから、「混交する」(amalgamate)ことではありません。日本の神道と仏教とは、「習合」はしていても「融合」はしていません。仏教と習合した大和朝廷の神道によって、日本の皇室は、ようやく、朝鮮半島や中国大陸の王室に勝るとも劣らない国家理念を内外に誇る朝廷に成長することができました。こうして、飛鳥、奈良、平安の時代を通じて、7世紀の半ばから11世紀末まで、およそ450年間に及んで、他国との戦争がない「平和な日本」を実現することができたのです。
■明治の国粋神道
 ところが、皇室が再び国家の実権を握る明治維新になると、皇室は京都から東京へ移され、廃仏毀釈と地方の神社の国教化による「国家神道」が成立することになります。それは、神武天皇の征服神話に基づく国粋主義に陥った神道であり、仏教をも、さらには地方の民間信仰をも排除するものでしたから、国際的な視野に立つ飛鳥から平安に及ぶ皇室の有り様とは似て非なるものです。250年にわたる徳川幕府の鎖国平和が、ここに来て裏目に出て、国際的な視野を完全に見失う国粋神道に陥ったのです。「外国からの脅威」の実態と、これに対処する方策を見誤った日本の指導者たちは、「アメリカとの戦争」へ突き進んでいきます。ともかくも民の命を大事に扱う国と、民の命を「鴻毛(こうもう)の軽きに置く」国とが戦った結果、民の命を軽んじる国のほうが、無残な敗北を喫することになりました。戦争は、300万を超える日本兵の犠牲と、これをも超えるおびただしい民間の犠牲者を国の内外に出して、昭和20年8月15日に終わりました。
 敗戦から70年以上を経過して、アメリカ側の資料から分かったことは、もしも、8月15日の天皇の決断が、もう1ヵ月遅れていたら、アメリカは、3発目の原爆を東京に落とし、アメリカ軍は九州に上陸していたでしょう。アメリカは、東京に原発を落としても、まだ6発の原爆を所有していました。当時の日本の陸軍は、沖縄戦の経験を踏まえて、軍人と民間人の区別無く総動員することで60万の軍隊を組織して九州で戦う準備を進めていました。これを知ったアメリカは、残り6発の原爆を用いて、九州の軍人と民間人の区別無く、全員を焼き殺す計画を立てていたのです。昭和天皇の決断は、この惨劇を間一髪のところで食い止めたことになります。
■戦後日本の皇室
 終戦後、昭和天皇は、いわゆる「人間宣言」によって、自分は「神ではない」と、内外に向かって、「現人神」(あらひとがみ)としての天皇の神格化を否定する宣言を発布なさいました。皇室は、新嘗祭など、数々の祭儀を通じて、大自然に宿る千万(ちよろず)の神々を祀ることに変わりありません。それらは、神話的な意義を帯びてはいますが、天皇は、決して「現人神(あらひとがみ)」ではないのです。だから、現在の日本は、「神話の国」ではあっても、「神の国」ではありません。日本の皇室は、長らく道教と仏教との習合による神道(しんとう)によって成り立ってきました。
 記紀の神話を受け継ぐ大和朝廷は、常に国際的な視野を見失うことがなく、新たな宗教を受容し、これと習合することによって「万世一系」を保持することができたのです。今の日本の皇室も、かつての大和朝廷が行なったように、戦後の「平和憲法」を、皇室の伝統的な神道に習合させることで、新たな平和日本の建国理念を生み出し、これによって、国際的な視野に立つ新しい日本を建国しようと志しているのです。日本の平和を守り、日本と敵対する朝鮮半島と中国との平和を維持し、世界の平和に貢献する国家理念、これこそ、現在の日本の皇室が目指している「大和」(やまと)日本の姿です。
■国を愛するキリスト者
 終戦後、皇室は、災害に出逢った民と「同じ目線で」向き合って、民の命を守るために、全国の被災地を訪問されています。私たち日本のキリスト教徒は、こういう皇室を頂(いただ)く日本が、世界平和を創り出す指導的な力を発揮するよう祈り求めるよう促されています。これこそ、今、イエス様から私たち日本人に求められていることです。現在の日本は、私たちの主であるナザレイエス様から、こういう希望を与えられています。
 自分の国を愛さないキリスト者は、よその国のキリスト者をも愛することができません。他国の民の気持ちを理解することもできません。真のキリスト者は、自分の国が主様に愛され護られていることを実感することで初めて、他国とそこのキリスト者を心から思いやることができるからです。「キリスト教徒は無国籍な国際人だ」などとうそぶく批評家気取りの人たちは、どの国の民の心情も、どこの国のキリスト者の心をも読み取ることのできない愚か者にすぎません。驚くべきは、カトリック教会です。カトリック教会は、キリスト教が、その国の民にとってどんなに大事な意味を持っているか、これを熟知しています。長い伝統に支えられた御霊の智慧の賜でしょう。だからこそ、全世界に普遍するキリスト教を広げることができるのです。昭和天皇が、戦争を終わらせるために、カトリックの力に頼ろうとされたのもこの理由からです。
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