4章 日本のクリスチャンへ
■世界の中の日本
 日本の憲法は、ピューリタン神学をその核に秘めています。この憲法は、アメリカ憲法を含め、世界でも類を見ない宗教的な理想を掲げるものです。これの実現を目指すことは、人類に共通する目標であり、これからの世界の国々で、この理想を目指す運動へのモデルとなり、希望となるものです。この意味で、現在の日本国憲法は、「聖なる」憲法です。モーセの十戒と同じく、神聖にして犯すことのできない「不磨(ふま)の大典」です。だから、こういう憲法を守ろうとする皇室と日本は、今、世界を指導するのにふさわしい国家理念を有する国なのです。それなのに、現在の日本の民は、この指導的な地位を占める用意ができているでしょうか。日本のクリスチャンたちは、今こそ、日本とその皇室のために真剣に祈らなければなりません。「愛国」とは、そういうことです。世界中のクリスチャンたちがしているように、自分の国を心から愛することを「しない」クリスチャンは、まことのクリスチャンとは言えません。
忠信愛国
 キリスト教国であれ、仏教国であれ、イスラム教国であれ、「宗教する」人が人間である限り、罪を犯すのは避けられません。天地を創造し、人類を導いてくださっている神ご自身は、その御子であるイエス様を通じてご自身を啓示されました。ところが、その御子が、こともあろうに、神の不思議なお計らいによって、十字架にかけられるという出来事が起こりました。この出来事は、イエス様の十字架の死を通して、人間の犯す過ちや罪を赦し、赦すだけでなく、人誰でもが犯す謬りとその罪性に「負けることなく」、逆にそれを幸いへと転じる神の力が顕現するためです。国とその民を含む人の罪業を<逆転させる>驚くべき父なる神の恩恵のお働き、これこそ、イエス様の十字架が啓示する宗教的な意義です。イエス様の十字架は、その国と民の犯した一切の罪を担い赦すことができる力を具えているからです。
 日本は、明治維新以降、「富国強兵」の名の下に、武力による世界制覇を目指しました。しかし、敗戦後は、昭和天皇と平和憲法の下に、経済によって、世界の大国になりました。そして今、私たちは、この憲法の国家理念の下で、世界の平和を造り出す指導的な地位に立たされています。歴史を導く神の不思議なお計らいによって、今の日本人には、こういう使命が与えられているのです。大国と言われている国々が、次々と国家の理想を失いつつあるこの時期に、国家理念の思い切った「習合」が成し遂げられなければなりません。大和朝廷の古代から、危機に際して、日本は、このやり方で、外国からの脅威に立ち向かい、国難を乗り越えてきました。皇室の「万世一系」は、この方法で保たれてきました。今の日本もそうです。
 言うまでもないことですが、現在の日本で、平和憲法を守ろうと真剣に考えているのは、日本の皇室だけではありません。クリスチャンを始め、多くの日本人がいます。これら言わず語らずの総力が、これまで、憲法を変更しようとする勢力から、平和憲法の「変更」を防いできました。現在の皇室は、「憲法の変更」をめぐって、改憲を目指す政府とも、戦前へ戻ろうとする極右の勢力とも対立していると見られています。ところが、残念なことに、こういう皇室を積極的に援護しようとする人が、正統派と言われる日本のクリスチャンの間にほとんど見当たらないのです。
 かつてのイスラエルがそうであり、かつてのアテネがそうであったように、たとえ小国と言えども、今の日本は、世界を指導することができる国家理念と資質と能力を具えています。ナザレのイエス様が私たちに啓示しておられるのは、「このこと」だと知ってほしいのです。私が皇室と平和憲法について書くのは、この国を心から愛するクリスチャンを育てたいからです。現在の日本は、イエス・キリストの恩恵によって、すばらしい可能性を秘めています。このことを読み取ってくだされば、私の喜びこれに過ぎるものなしです。だから、日本のクリスチャンは、迷うことなく、御子イエス様とその御霊のお働きを信じて歩んでほしいのです。「この信仰」にどこまでも忠実に従ってください。今クリスチャンの歩むべきは、こういう「忠信愛国」の道です。どうぞ、日本の国のために祈ってください。
■追悼の辞
 私が語っていることをどれほどの人たちが理解してくれるのか?私にも分かりません。現在この国には、「クリスチャン」と呼ばれる人たち、仏教徒たち、神道の信者たちが居ます。ほんらいなら、「国を愛する」ことをこの人たちに説く必要はありません。いかなる意味においても「宗教する人」なら、自分が所属する共同体を心から愛するからです。「啓示を受ける」ことは共同体的な出来事だからです。啓示は、その共同体の過去も現在も未来をも含む霊的な「お示し」だからです。
 しかし、私には、それよりももっと覚えておきたい人たちが居ます。かつての太平洋戦争で、無残にも殺されて死んでいった人たちです。これらの兵隊さんたちの多くは、「天皇陛下万歳」を宣言しながらも、その死の間際には、母の名を呼び、妻の名を口にし、子供たちへ呼びかけて逝った人たちです。彼らは、自分がどうしてこのような悲惨な目に遭わなければならないのかを最後まで知らされず、分からずじまいでした。確かなのは、今の自分の死が、これからの祖国において、きっと何らかの姿で活かされて、家族が幸せになる日が来る、そういう幸いが、いつか祖国に訪れる日が来る。この事を想い、その事のために今自分は死ぬのだと言い聞かせて、息を引き取ったことです。私が、今一番覚えておきたいのは、この人たちです。祖国の平和と家族の平安への想いに希望を見いだし、これを念じて逝ったこの人たちです。
 私は今、これらの人たちのことを想いながら書いています。彼らが、人知れず祈り求めて逝ったその願いと想いが、戦後70年にして、ようやく実を結んで、この国の未来を照らしてくれている。そういう想いに駆られるからです。私は、今、自分がこのように語ることができることをこの上なく喜び、かつ誇りに思います。たとえ人に理解されなくても、「彼ら」が分かってくれている。喜んでくれている。自分が死に際に求めていたのは、これだったのか。自分は「このことのために」逝ったのかと分かってくれている。こういう想いと喜びを私は彼らと分かち合いたいのです。それにしても、今、私が悟っていることを彼らも悟るでしょうか? 彼らの無残な死に様(ざま)の背後には、あの十字架の死を遂げたナザレのイエス様の姿が重なっていることをです。
               皇室と平和憲法へ