1章 遣隋使
■1回目の遣隋使
 遣隋使については、以下の通りです。
1回目は600年(推古8年)です。『日本書紀』には、この年、新羅と任那が戦い、大和朝廷は任那に与したために、新羅が白旗を立てて降伏したとあります。そこで朝廷は使者を新羅と任那に遣わして、「天上(あめ)に神(かみ)有(ま)します。地(つち)に天皇(すめらみこと)有(ま)します。是(こ)の二(ふたはしら)の神を除(お)きたまいて、何(いづこ)に亦(また)畏(かしこ)きこと有(あ)らむや」(前掲『日本書紀』第二十二巻)と告げたとあります。しかし、日本書紀には、この年の遣隋使のことがでていません。ただし『随書』には、その内容が出ていて、その中に「倭王、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩?弥(オホキミ/アメキミ)と号す」とあり、次いで「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」とあります。「アメタリシヒコ」が倭王の称号であったとも考えられますが〔大津透『律令国家と隋唐文化』岩波新書(2020年)5頁〕、「オホキミ」は「大王」のことで、「アメタリシヒコ」は「天下るお方」で、天孫降臨思想を背景にしているという説もあります〔森公章「天皇と名字」『天皇・天皇制をよむ』歴史科学協議会編:東京大学出版会(2019年)18頁〕。「多利思比孤(たりしひこ)」とは聖徳太子のことを指すとも受け取れます〔週刊朝日百科『日本の歴史』(55号)349頁の年表参照〕。なお、608年には、隋から裴世清(はいせいせい)が倭国へ派遣されています。しかし、倭国は、隋との冊封を受けなかったので、朝廷は隋に王名をもちいることがなかったのです〔森公章前掲書〕。
■2回目の遣隋使
 
2回目の遣隋使は607年(推古15年)で、「大礼小野妹子(だいらいおののいもこ)を大唐(もろこし)に遣わす」〔前掲『日本書紀』110頁〕とあります。「大礼」は十二階冠位の5番目にあたる官職です。「大唐」とは隋のことです。時の隋の皇帝は煬帝(ようだい)です(在位604〜618年。隋の初代皇帝文帝の次男で二代目の皇帝)。この時の国書の内容も『日本書紀』にありませんが、『随書』にでていて、そこには「その多利思比孤(たりしひこ)、使を遣はして、朝貢す。使者曰(いわ)く、『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。』・・・・・『日出(ひいづる)る処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、と云々』」とあり、これに対して煬帝は、「蕃夷(ばんい)の書、礼無き者あり」と批難したとあります。
 国書にある「重興仏法」とは、隋の皇帝が仏法を崇拝していることを指す用語ですから、皇帝に敬意を表わすものです。「日出(ひいづる)る処(ところ)の天子云々」も単に「東方」と「西方」を指す仏典からの用語ですから、しばしば言われているような「大和朝廷の対等な威厳」を示すためのものではありません〔大津前掲書9頁〕。では、なぜ煬帝が怒ったのか? その理由は大和朝廷が「天子」と名乗ったからです。「天子」とは、天に居る神(天帝)の命を受けて、地上にあって世界を統治する皇帝のことを指す用語ですから、「天子」は世界にただ一人しか居ないのです〔大津前掲書10頁〕。
 ここで、注意したいことがあります。日本の昔話には「天下/日本」という言葉がしばしばでてきます。「日本(にっぽん)一のきびだんご」「天下一の力持ち」「天下人(てんかびと)」「天下統一」などです。ところが、「世界一」という言い方は出てこないのです。だから日本人が「天下」というのは大和朝廷が支配している日本の領土全体のことで、中国や西欧のように、日本の領土の外に拡がる「全世界」のことは、その視野に入っていないのが分かります。大和朝廷が「天子」というのも、こういう日本人特有の「天下」を治める「天子」の意味です。これは「全世界」を支配する「天子」のことではありませんから、倭国と隋に「二人の天子」が居てもおかしくないのです。大和朝廷と隋の皇帝との「天子」の理解の仕方が異なることが分かります。
■3回目の遣隋使
 
3回目は608年(推古16年)です。『日本書紀』には、この遣隋使の前後の状況が詳しく語られています。これによれば、小野妹子は、推古16年の夏に、隋から隋の宮廷の裴世清(はいせいせい)を伴って帰還する折に、隋帝からの国書を奪い取られたようです。小野妹子は「唐(もろこし・隋)の帝(きみ)、書(ふみ)を以て臣(やつがれ)に授く。然(しか)るに百済国(くだらのくに)を経過(ふ)る日に、百済人(くだらひと)、探(さぐ)りて掠(かす)み取る。是(これ)を以て上(たてまつ)ること得ず」と報告します。大和朝廷の宮廷人は「是(こ)の使(つかい)、何(いか)にぞ怠(おこた)りて、大国(もろこし)の書(ふみ)を失(うしな)うや」と批難し、小野妹子は流邇刑に処せられかけますが、天皇は、その功績を重んじて「たやすく罪すべからず」と赦したとあります。隋帝の国書が、大和朝廷の「天子」号を批難する内容だったために、妹子は、「奪い取られた」と称して、故意にその国書を見せなかったのでしょうか〔大津前掲書15〜16頁参照〕。推古天皇は、その間の事情を察して、罰しなかったのかもしれません。
 裴世清(はいせいせい)たち一行は、隋の産物を朝廷に贈り、大和朝廷に次のように言上(ごんじょう)したと『日本書紀』にあります。「皇帝(きみ)、倭皇(やまとのすめらみこと)を問(と)う。朕(われ)、宝命(たからのみこと)を欽(よろこ)び承(う)けて、・・・・・愛(めぐ)み育(やしな)ふ情(こころ)、遐(とほ)く邇(ちか)きに隔(へだて)て無し。皇(きみ)、海表(わたのほか)に介(よ)り居(ましま)して、民庶(おほみたから)を撫(な)で寧(やす)みし、境内安楽(くにのうちやすらか)にして、・・・・・遠(とほ)く朝貢(かよ)ふこと脩(かた)つといふことを知りぬ」と述べています〔前掲書『日本書紀』(4)114頁〕。
 前掲書の注(115頁)を参照すると、煬帝(ようだい)は、「皇帝問倭皇」、すなわち、自分を「皇帝」と、相手を「倭皇=倭の王」と呼んでいます。「朕欽承寶命」とは、煬帝(朕)は、自分が「寶命」、すなわち天命を受けて世界にただ一人の「天子」と呼ばれることを喜ぶという意味です。その上で、「愛育之情、無隔遐邇」と述べて、自分は、遠きも近きも同じく愛(め)で恵むと告げます。「知皇介居海表」と倭国が海の遠い国であるから、「遠脩朝貢」、すなわち隋の皇帝に朝貢するのが難しいと察するとあります。裴世清のこの言上は、大和朝廷を甚(いた)く喜ばせたようで、一行は、大歓迎を受けています。
 同に年に裴世清の一行が隋へ戻る時に、これに伴って、小野妹子たちが3回目の遣隋使として派遣されます。この時の大和朝廷の国書の内容が、『日本書紀』にでています。国書は、「東天敬白西皇帝」、すなわち「東(やまと)の天皇(すめらみこと)、敬(つつし)みて西(もろこし)の皇帝(きみ)に白(まう)す」で始まり、裴世清が渡来したことを喜ぶとあり、「秋季薄冷」「尊如何」とあり、「今遣大禮蘇因高」とあり、最後は「謹白不具」で結んでいます。「秋季」は9月を指し、「尊」とは隋の皇帝を指し、「蘇因高」は小野妹子の隋での呼び名です。「謹(つつし)みて白(まう)す。不具(つぶさならず)」は、へりくだった言い方で、当時の書簡の様式に従って、特に書簡の終わりを丁重に結んで、差出人と受取人との上下関係をはっきりさせていますから、先の国書に比べるとかなり異なっているのが読み取れます。今回の国書で、隋への姿勢を修正したと考えられます〔大津前掲書12頁〕。
 ここで注目されるのは、「東天皇」という用語です。ここで、「天皇」という言葉が初めて国書に登場するからです。『日本書紀』の「天皇」は、記紀が編纂されている天武天皇(在位673〜686年)の時代の用語を最古代へさかのぼって用いています。だから、ほんらいは「大王(おほきみ)」あるいは「天王(あめきみ)」と書かれていたものを、早ければ推古朝の時代(7世紀前半?)に、遅ければ天武朝の時代(7世紀後半?)に「天皇(すめらみこと?)」と書き換えられたと考えられます。ただし、「天皇」という言葉それ自体は、大陸の前漢の時代(前200年頃)よりも以前に、伝説の「三皇(さんこう)」から生まれた帝王の一つだと言われています。「三皇(さんこう)」は、ほんらい「三光」のことで、これは、太陽と月と星を表わします。ちなみに、この意味の「三光」は、現在でも、日本の香炉の愛好者たちの間で用いられています。最古の神話の表象を指す用語が、今に至るまで伝承されているのは驚きです。「三皇(さんこう)」は「天と地と星」という説もありますが、「天皇(てんこう)」とは、ほんらい、三光の一つで、大空の星座が巡る星座の中心に位置する北極星を指すものでしょう。北極星が国の最高権力者を指す例も古代からのものです。この「天皇」に道教の神仙思想が結びついて倭国に伝えられ、倭国では、「天皇(あめきみ)」は、地上の国を統治する「大王(おほきみ)」にふさわしいと考えられたようです〔前掲書『日本書紀』(3)第十六巻武烈天皇(補注1)370頁をも参照〕。
 おそらく、倭国の「天皇(あめきみ)」は、大陸の「天帝」思想に倭国伝来のアマテラスにさかのぼる祖霊宗教が重なり習合したものでしょう。先の遣隋使の国書には「天子」とあって、これが隋帝の不興をこうむったので、「天子」を「天皇」と書き換えることで、隋の「皇帝」よりも下位にあることを示唆しつつ、なおも「皇帝」に従属しない(冊封を受けない)ことを表わそうとしたと考えられます〔大津前掲書14〜18頁参照〕。
■4回目の遣隋使
 
4回目の遣隋使は、『日本書紀』に、推古22年(614年)の6月(みなつき)に「犬上君御田鋤(いぬかみのきみみたすき)・矢田部造(やたべのみやつこ)を大唐(もろこし)に遣わす」とありますが、それ以上のことはでていません。大陸の隋では、煬帝による広大な運河の建設などのために人民の反乱が起こり、加えて三度の高句麗征伐にも失敗します。このため隋の国内で反乱が多発して、後に唐の初代皇帝となる李淵は、軍を率いて長安に登り(617年)、翌年(618年)に煬帝が殺されると、唐朝を興して「高祖」となりました。このような混乱のために、今回の遣隋使は目的をはたすことができなかったと思われます〔大津前掲書18頁〕。
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