3章 後期の遣唐使
『日本書紀』の遣唐使の記事は、女帝の持統天皇の在位時代で終わっています。遣唐使はこれ以後も続きますから、ここからは、「大宝の遣唐使」(702年)と「養老の遣唐使」(717年)と「天平の遣唐使」(754年)の三つについて述べたいと思います。
■大宝の遣唐使
文武天皇(在位697〜707年)は、天武天皇と持統天皇の孫にあたり、父は草壁皇子(くさかべのみこ)です。文武天皇の幼名は「軽皇子」です。軽皇子は、祖母の持統天皇のもとで成長し、皇太子となり、697年に持統天皇の譲位によって即位して文武天皇となりました。文武天皇は、刑部(おさかべ)親王、藤原不比等(ふじわらのふひと)らをして大宝律令(701年完成)を完成させ、同年に、33年ぶりに遣唐使を派遣しました〔平凡社『世界百科大事典』直木孝次郎〕。律令の完成を待っていたかのように、大宝元年(701年)の正月に、大宝の遣唐使が任命されます。しかし、大宝の遣唐使の前に、大和朝廷では、「壬申(じんしん)の乱」(672年)と呼ばれ、国を二分する内乱が起こっています(「壬申の乱」の項を参照)。
大津透氏の『律令国家と隋唐文明』(59〜62頁)によれば、大宝の遣唐使では、粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)が大使でした。『続日本紀』が伝えるところによれば、唐の役人から「どこからの使者か?」と問われて、真人は「日本国の使人なり」と、ここで初めて「日本国」という国名を用いています。ところが、唐の側では、従来の「倭国」と「日本国」とを別のものだと判断して、倭国が日本国に併合された、あるいは、「日本国」は「倭国」に隣接する国だと誤解したようです〔大津前掲書60頁〕。『続日本紀』によれば、唐から帰朝した真人は、朝廷への報告として次のように述べています。唐の役人は使者たちを評して「しばしば聞く、海東に大倭国有り、これを君子国と謂(い)ふ。人民豊楽にして礼儀敦(あつ)く行なわる、と。今使人を看(み)るに、儀容大(はなは)だ浄(きよ)し。あに信(まこと)ならずや」と。
これで見ると、大宝の遣唐使は、「日本国」という称号を国際的に認めてもらうのがその使命であったことが分かります〔大津前掲書62頁〕。最初の遣唐使以来、大和朝廷は、大陸と半島の文化を採り入れて、律令国家の形成に努めてきました。その努力がようやく実って、「日の出る辺りに、日本という国があって、そこの民は君子にふさわしい品格を具えている」という印象を大陸に伝えることができたのです。しかし、ここに至るまでに、大和朝廷は、蘇我入鹿の刺殺に始まり、大化の改新と壬申の乱という大きな試練を経過しなければなりませんでした。大和朝廷は、これによって、道教と儒教と仏教が習合した大陸の宗教を朝鮮半島を経由して受け容れ、大和朝廷の伝統的な祖霊信仰と「仏教」とを習合させることで、「日本」という君主国の名誉ある地位を国際的に獲得することができたのです。
ただし、「日本」という称号は、最初の遣唐使が用いた「日出(ひいづ)る処(ところ)」を「日本」と言い換えたものです。したがって、「日本」は、「大陸あるいは半島から」見た用語であっって、日本列島から見れば、太陽は東の海から昇りますから、「日本から」太陽は昇りません。だから「日本国」は、大陸から見て、その周辺にある国への称号だったのです〔大津前掲書63頁〕。実は、平安時代の貴族も「日本」については同じ疑問を抱いていたようです〔大津前掲書60〜61頁〕。
■養老の遣唐使
天武天皇の治世(673〜86年)から女帝の持統天皇の治世(称制を含め686〜97年)へ、さらに文武天皇の治世(697〜707年)を経て、女帝の元明天皇の治世(707〜715年)における平城京遷都(710年)までに、大宝律令が発布され(701年)施行されます。平城京遷都の勅令(708年)が出た和銅年間から「養老の遣唐使」の派遣命令(716年)までの間に『古事記』が完成します。元明天皇から女帝の元正天皇の治世(715〜24年)の養老年間に、養老の遣唐使が派遣され(716〜17年)、『日本書紀』が完成します(720年)。これをもって初めて、本格的な日本という国家が成立したことになります〔週刊朝日百科『日本の歴史』(48)98頁〕。
大津透氏の前掲書によれば、養老の遣唐使は以下の通りです。大使として阿倍安麻呂(あべのやすまろ)、副使として藤原馬養(ふじわらのうまかい)、これに留学生として吉備真備(きびのまきび)が加わっていました。一行は総勢557人で、四艘の船に乗り、養老元年(717年)に唐の玄宗に朝貢しています。真備は、おそらく「儒士」(孔子の道を学ぶ儒学者)となるために、趙玄黙(ちょうげんもく)を師として儒学の経典から「礼(れい)」を学んだと考えられます〔大津前掲書131〜32頁〕。また、留学僧として玄ム(げんほう)がいました〔大津前掲書142〜43頁〕。
吉備真備(きびのまきび)は、曲阜(きょくふ)まで赴いて孔子の霊廟を拝謁したり、寺院を観たりしています。しかし、養老の遣唐使の主な目的は、典籍を持ち帰ることにあったようです。吉備真備は、主として儒教に関する典籍を、玄ムは、仏典を主に持ち帰ったのでしょう。一行に加わっていた大和長岡(やまとのながおか)は、唐で律令を学び、帰国して養老律令の作成に携わっています〔大津前掲書134頁〕。
「礼(らい/れい)」については、周の時代の国家の官制を記した『周礼(しゅらい)』と、周末から秦・漢の時代の「礼」について記した『礼記(らいき)』(「大学」・「中庸」など)があります。また、唐朝の国家儀礼について記した『唐礼』があり、これには、吉礼(きつれい)〔神を祭る儀式〕、賓礼(ひんれい)〔客をもてなす儀礼〕、軍令(ぐんれい)〔武器と軍隊に関する〕、嘉礼(かれい)〔めでたい儀式〕、凶礼(きょうれい)〔葬儀などに関するもの?〕などがあります。「礼」はまた、君子が身につけるべき心得としての「六藝(りくげい)」〔周代に始まる〕とも対応し、礼・楽(楽曲を奏する・射(弓矢)・御(馬を扱う)・書(書くこと)・数に対応します〔大津前掲書133〜34頁〕。
古代中国の王権思想は、「天道」に基づいていました。「王」は、天から民を治める権威を授かる者として「天子」と呼ばれました。したがって、天の道に背く王は廃(はい)されて、天道に従う新たな天子が立てられることになります。天道と王とのこの関係は、古来、人類の豊穣神話と深く関わっています。豊穣が与えられればその王は民に敬われますが、ひとたび豊穣が危機に曝されると、その王権は危うくなります。『日本書紀』に、星の動き、太陽と月の満ち欠け、地震や火事や病に関する記事が至る所に表われるのはこのためです。ただし、天子としての王と王室は、祖霊信仰とも深く結びついていました。孔子は、「天の道」を王室の祖霊信仰から切り離して、王が天道を民に行なう具体的な方策として「礼(らい)」を教えました。孔子は、国政の道徳面を重んじるあまり、宗教を軽視していると言うのは誤解です。孔子は、王権を支配する天道を深く意識して「礼」を教えたからです。「律令」の「律」とは、天子たる王の支配に背く皇位に対する罰則(反乱罪など)であり、「令」とは、王の支配を実行する「美徳」を教えることです〔大津前掲書137頁〕。国を治める者にかかわるこの教えは、古代のオリエントでは、宮廷人の「知恵」として発達し、旧約聖書では、箴言がこれにあたります。大陸で発達したこの「儒教道徳」は、朝鮮半島において受容され、百済や新羅の王室では、儒教は仏教と習合して伝えられました。しかし、百済や新羅の王室は、仏教と儒教の習合を王室に伝わる祖霊信仰と結びつけたのです。このために王室は、祖霊を異にする部族的な争いに巻き込まれることになります。
日本でも、半島の場合と同様に、大陸の「礼」がそのまま受容されることがなく、日本では律令さえも、唐のそれを全面的に受け容れながらも、大和朝廷の言わば「統治技法」として、国状に適応されました。吉備真備たちは、唐の天道思想を受容して、これを皇室の祖霊信仰にも適応させる「律令制」を成立させることによって、従来の祖霊信仰に基づく皇室に新たな根拠を提示したのです〔大津138〜39頁〕。
■天平の遣唐使
平城京時代(710年〜784年)の半ば、孝謙天皇(女帝)が即位し(749年)、年号を「天平勝宝」と改めた4年(752年)に、「天平の遣唐使」が派遣されます。この年は、東大寺の大仏殿が完成し大仏開眼供養が行なわれる年にあたります。派遣されたのは、参議の藤原清河(ふじわらのせいか)を大使とし、副使として大伴古麻呂(おおとものこまろ)と、これに養老の遣唐使として派遣された吉備真備(きびのまび)が「遣唐副使」という肩書きで加わりました。派遣の目的は、当時唐の宮廷で高官として仕えていた阿倍仲麻呂を帰国させることでした(これは船の遭難のために叶いませんでした)〔大津前掲書145〜46頁〕。目的の背景には、従来のように、半島を経由するのではなく、直接唐の最新の文人を招くこと、とりわけ唐仏教の高僧であった鑑真(がんじん)を招聘して、大仏開眼に併せて、天皇と朝廷が、鑑真によって「受戒する」(仏門に入る者がホトケの戒律を受ける)ことでした。「受戒」とは、正式に仏法を授けることができる資格を有する「戒和上」によって、ホトケの戒律を授かることです。孝謙天皇(女帝)は、大仏開眼の儀式に際して、中国風の冠をかむりながら、大和朝廷伝統の白色の衣を纏っていました。天皇が大和朝廷の伝統的な祖霊信仰を保ちながらも、鑑真からの受戒によって、唐の皇帝に近づこうとしている天平の皇室の有り様を示すものです〔大津前掲書140〜41頁〕。
ところで、入唐した吉備真備は、玄宗皇帝によって優遇され、皇帝は、阿倍仲麻呂に命じて、真備を皇室の書庫に案内させ、真備は、儒教・道教・仏教の経典を見学することが許されました。真備は、『大唐開元礼』や『後漢書』などを持ち帰っています。ところが、真備は、帰国するとすぐに、怡土城(いとじょう)〔福岡県糸島〕の造営を命じられています。これは、当時半島を統一していた新羅(と唐?)からの侵入に備えるためで、吉備は軍事の技術も習得していたのです〔大津前掲書141頁/148頁〕。
天平の遣唐使は、出発して2年後の天平勝宝6年(754年)に鑑真を伴って帰朝します。鑑真は、唐の僧侶14人と尼3人を伴っていました〔大津前掲書154頁〕。実は、これに先立つ天平5年(733年)に、日本からの留学僧であった栄叡(ようえい)が、鑑真を訪れて、来日を要請しています。日本の仏教の僧と尼の多くが、正式に受戒を受けていなかったからです。このために、国の内外から批判されたのでしょうか、養老の遣唐使の一人であった道慈(どうじ)は、このことを嘆いたと記録されています。栄叡(ようえい)の招きを受けた鑑真は、「これ法のための事なり、何ぞ身命を惜しまんや。諸民行かざれば、我即ち去(い)くのみ」と宣したあります。しかし、鑑真の渡航は容易でなく、743年から5回も失敗した後に、ようやく6度目に成功しました〔大津前掲書155〜156頁〕。
来日した鑑真は、完成したばかりの 東大寺の大仏の前に戒壇を設置して、すでに上皇であった聖武天皇と、同じく上皇の光明皇后と、その王女(阿倍内親王)であった孝謙天皇とが、鑑真から「菩薩戒」を受けました。これは、隋の煬帝と唐の則天武后に倣(なら)ったと思われます。続いて沙弥(しゃみ)〔出家しても、まだ正式の僧になっていない(比較的年少の)僧の侍者〕440人が受戒したとあり、鑑真の一行は、さらに、東大寺の戒壇院で、80名以上に具足戒を授けたとあります〔大津前掲書157〜158頁〕。「具足戒」とは、出家した僧(比丘)と尼(比丘尼)が、仏法を真に身に宿す(具足する)ために受ける戒のことで、比丘には250戒、比丘尼には348戒あるとされています。この戒を受けるためには、戒和上(かいわじょう)一人だけでなく、他に3人の仏師と、さらに7人の証人となる僧、併せて「三師七証」の立ち合いが必要とされています〔岩波『仏教辞典』〕。鑑真は、釈迦の骨片を表わす「如来舎利(にょらいしゃり)」三千粒をもたらしたと言われています〔大津前掲書161頁〕。日本は、名実ともに、大陸に並ぶ「仏教王国」になったのです。
日本に仏教王国をもたらした「仏教」とは、道教と儒教と仏教とが大陸で習合した「仏教」のことです。しかも、その「仏教」は、遠いギリシアからペルシアを経由して東方に伝わった芸術と、インド北西部の仏教王国の「仏教」とが出逢い、それらが、中国王朝の北辺の民族から出た大月氏の支配によって統一される処に生まれたガンダーラ仏像という顔を持つ「仏教」のことです。このような仏教が、大和朝廷伝来の祖霊信仰を祀る皇室において、宗教的に習合したのです。
遣隋使と遣唐使へ