中国への仏教伝来
             
大和朝廷時代との対応
■はじめに
 釈迦が教えを説いたのは、主としてインドの東部で、ガンジス河中流の地域である。その後、釈迦の教えは、仏(ほとけ)の教え「仏教」として、西方インドにも広まった。ちょうど、アレクサンドロス大王の征服が、インダス河の流域にまで及んだ頃のことで、これと境を接して、インドでは、マウリヤ朝(前4世紀〜前2世紀)が、全インドを統一していた。マウリヤ朝3代目のアショーカ王/阿育王(あいくおう)(在位前268年〜前232年)の支配領域の西方は、現在のアフガニスタン全域にまで及んでいた。彼は、征服戦争の悲惨を体験して、仏教に帰依したと伝えられている(前260年頃)。仏教は、マウリヤ王朝の国教となり、以後、クシャーナ朝(ほぼ後1世紀〜3世紀)、グプタ朝(ほぼ4世紀〜6世紀)へと、インドでは仏教王国が続くことになる。
 だから、後1世紀頃からは、当時ギリシア文化の影響を受けたパルティア王国と、仏教国クシャーナ朝との境界にあるガンダーラ(現在のアフガニスタン北部の都市)を中心とする地域で、ギリシア文化と仏教とが融合したガンダーラの仏像が造られることになった。仏像仏教の始まりである。ちなみに、クシャーナ朝の頃の仏教は、仏(ほとけ)の教えを乗り物にたとえて、できるだけ多くの人を乗せることができるという意味で、「大乗(だいじょう)仏教」と呼ばれている。
 インドから中国への仏教伝来の歴史は長く、数多(あまた)の仏僧たちが、ヒマラヤ西部を通過して交流している。しかし、筆写(私市)は、紀元3世紀から8世紀頃までの大和朝廷への仏教伝来を念頭においているから、この時代に中国へ伝来した仏教に関わる僧たちを採り上げてみたい。以下の記述は、インドと中国との仏教伝来に関わる長い歴史のほんの一端を垣間見る程度に過ぎない。
■龍樹
  この時代を代表するインドの仏教僧はナーガールジュナで、彼の漢語名は「龍樹」 (りゅうじゅ)(後150年頃〜250年頃)である。 龍樹 (りゅうじゅ)は、インドの大乗仏教の学者で、そのサンスクリット名が「ナーガールジュナ」である。彼のことは、中国の仏典でしか知ることができない。中国の『竜樹菩醍伝』によれば、彼は、南インドのバラモン階級の出身で、若くしてバラモンの学問に通じ、「隠れ身の術」を利用して王宮の女性たちの居る後宮に入って快楽を尽くした。しかし、欲望は苦の原因であると悟って、仏教に転じて出家したと伝えられている。彼は、北インドへ移り、修行を積み、多くの経典を学び、大乗仏教の経典である『般若経』(はんにゃきょう)で説かれている「空(くう)」の思想を哲学的に基礎づけた。これが、後世の仏教思想に決定的な影響を与えたと言われる。晩年には、故郷の南インドへ戻ったと伝えられている。ナーガールジュナ(竜樹)の著作は中国へもたらされた。彼の真作とされるものに、『廻諍論』(えじょうろん)、『空七十論』、『広破論』などがあるが、これらは漢訳でのみ現存している。また、彼の『十二門論』と『大智度論』(だいちどろん)と『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)は、中国と日本に大きな影響を与えた。龍樹の説によれば、すべてのものは、有と無のどちらにも真実は存在しない。彼のこの説を受け継いで成立したのが「中観派」と言われる学派である。
 龍樹は、日本でも「竜樹菩醍」として知られている。竜樹菩醍は、樹下で生まれ、竜宮で成道したので竜樹と称したと伝えられる。『今昔物語集』巻四(24)に「竜樹、俗ノ時、隠形(おんぎよう)ノ薬ヲ作リタルコト」と題する説話がある。説話では、竜樹が使った隠形の薬は、異教の経典にあった術で、寄生木(やどりぎ)を五寸くらいに切り、100日間、陰干しにしたもの。髪に挿していると隠蓑(かくれみの)と同じように姿を隠すことができると信じられていたらしい。また、養生書には『竜樹菩醍養性方』があり、『竜樹菩醍印法』『竜樹呪法』など、龍樹に帰せられる秘法の文献があった〔平凡社『世界百科大事典』〕槙 佐知子をも参照〕。
■吉蔵
 龍樹(りゅうじゅ)の弟子は「アールヤデーヴァ」で、中国では聖提婆(しょうだいば)(170年?〜270年頃?)と呼ばれる。聖提婆の『百論』は、隋時代の中国で、吉蔵(きちぞう)に受け継がれた。吉蔵(549年〜623年)は、隋から唐にかけての名僧で、その先祖は、パレスチナに隣接していたパルティア(中国では安息国)の人である。彼は、少年の頃に出家し、21歳で具足戒を受け、随時代の嘉祥寺で教えを広めた。彼は、龍樹の『中論』と『十二門論』と聖提婆の『百論』とを併せた「三論」の教えを大成した〔中村元・他編『岩波仏教辞典』(1995年)による〕。
■仏図澄
 紀元4世紀の五胡十六国と言われる時代に、中国の西域にあたるクチャ(亀茲)の出であった仏図澄(ぶっとちょう)(?〜348年)は、中国での仏教宣教に尽くした人物である。彼は呪術にも通じて「神異の僧」と称された。その頃、北方の遊牧民から出た匈奴(きょうど)の豪族によって「後趙」(こうちょう)と呼ばれる国が中国の北部に成立し、その国の王であった石勒と石虎の二人は、彼の説く仏教へ帰依した。彼の30余年の仏教の宣教で、仏寺の建立893箇所、弟子は一万人近くに及んだと言われている。弟子の中では、中国仏教の基礎を築いた道安が最も著名である。仏図澄(ぶっとちょう)には、訳経や著述がないにもかかわらず、外来の仏教が中国に根づき発展したのは、彼の功績によるところが大きい〔平凡社『世界百科大事典』を参照〕。
 このように、五胡の時代の文化として特記すべきは、仏教である。胡族の君主は中国固有の儒教よりも西方伝来の仏教を好む傾向があったので、西域僧は諸政権と結びついて伝道や訳経事業を推し進めた。石勒・石虎の加護を受けて後趙の国で布教した仏図澄、後秦治下で訳経に不朽の業績を立てたクマーラジーバ(鳩摩羅什)などがその著名な例で、これら西域僧の活動は、中国社会に仏教を根づかせた。道安や法顕(ほっけん)などの漢人高僧が生まれ、また漢訳仏典によって教義の理解が容易となり、中国仏教は本格的な段階を迎えた。このような西域仏教の華北伝来を可能にしたのは、シルクロードの経路に当たる涼王国(敦煌から長安にいたるシルクロードの中間地点)の各政権の仏教であった。
■鳩摩羅什
 龍樹/竜樹の思想を中国に伝えたのは、クマーラジーバで、その中国名は鳩摩羅什(くまらじゅう)(344年〜413年 )である。彼の系統から「三論宗」が成立した。なお8世紀以降のインド密教においても、竜樹を「著者」だと称する『五次第』など、多数の文献が著わされた。クマーラジーバは、中国で「五胡十六国」と呼ばれる混沌時代の仏典翻訳家である。漢名の鳩摩羅什(くまらじゅう)はサンスクリット名「クマーラジーバ」の音写である。「羅什(らじゅう)」とも言う。インド人僧を父に、西域の亀茲(きじ/くちゃ)国王の妹を母として生まれた。七歳で出家し、九歳で、折賓(けいびん)(カシミール)の沙勒(しゃろく)(カシュガル)におもむき、インド仏教を学んだ。初めは小乗仏教を、後には須利耶蘇摩(しゅりやそま)について大乗仏教、特に竜樹系統の中観派仏教を学んだ。その後、亀茲(くちゃ)に帰り、もっぱら大乗を宣教したので、その名声は西域から中国にまで及んだ。
 当時の中国は、いわゆる「五胡」の時代で、華北には、匈奴(きようど)、羯(けつ=匈奴の一種)、鮮卑(せんぴ=東胡系)、校(てい=チベット系)、羌(きよう=チベット系)などの非漢民族の国があったから、これまでの漢族による中国統治の流れを大きく変えた時代である〔平凡社『日本百科大事典』より〕。
 「五胡」はさらに「十六国」に分かれて、その一つが前秦である。前秦の王苻堅(ふけん)は、鳩摩羅什を中国に招こうとした。鳩摩羅什は、苻堅(ふけん)の命によって亀茲(くちゃ)城を攻略した呂光(りょこう)に捕らえられたが(384年)、前秦が滅んだため、涼州にとどめられること10余年、結局後秦の姚興(ようこう)によって国師として長安に迎えられて(401年)、大規模な仏典翻訳と講説に従事した。その訳業は、35部294巻とも言われ、その流麗達意の訳文は中国人に親しまれた。その中には、般若(はんにゃ)、法華(ほっけ)、維摩(ゆいま)などの経典と、竜樹の『中論』などの三論があり、弟子の僧肇(そうじょう)、道生(どうせい)、僧叡(そうえい)、僧導(そうどう)らを通じて、三論宗、成実宗が成立する基礎が築かれた〔主として平凡社『世界百科大事典』による〕。
五胡十六国の時代
 この時代は、しばしばヨーロッパにおける民族大移動の時代になぞらえられるが、ローマ帝国に比すべき漢帝国の崩壊、異国の宗教である仏教の普及、そして胡族による政治支配等々、さまざまな点で価値の転換が起こった時代であった。しかし、それは従来の価値体系の単なる裏がえしではない。胡族の政治的優位のもとで胡漢両社会の融合をうながした時代であって、ヨーロッパのローマ風・ゲルマン風文化になぞらえて、漢族風・胡族風文化と呼ぶ学者もある。それは胡族にとって有益な時代であったと同時に、漢族にとっても自己を変容しつつ質的成長をとげた時代であった。この両世界の融合は、いわゆる東アジア世界形成の核となり、後に隋と唐の世界帝国として開花する。〔平凡社『世界百科大事典』谷川 道雄を参照〕
■道安
 道安(どうあん)(312/14年〜385年)は、中国の南北朝時代の前秦の僧で、河北省の出で、12歳で出家した。その後、噸(ぎよう)(河北省磁県)に来て、仏図澄に師事した。この時代は戦国時代であったから、戦乱を避けて各地を転々としたが、349年に、後趙の石遵に招かれて長安で過ごすことになった。一時長安を離れたが、379年に、前秦の苻堅(ふけん)王は、襄陽を攻めて、道安を長安に連れて帰り顧問とした。長安での道安は、五重寺で僧数千人に説法し、訳経事業にも参与した。当時は、老荘思想を借りて仏教を解釈するのが盛んであった。しかし、道安の注釈態度は、経文の系統的検討に基づくものであり、後漢から東晋に至る間の漢訳経典の総目録である『綜理衆経目録』(『道安録』と呼ばれる)を作成した。クマーラジーバ(鳩摩羅什)以後の訳経では、訳経者の名さえ不明のものが少なくなかったから、訳経の数が増えるとともに混乱が生じていた。このような現状に対し,訳経者を定めて整理したのが『道安録』である。前秦は384年に西域のクチャ(亀茲)を占領した。道安は、クチャの地にクマーラジーバがいることを知り,苻堅(ふけん)に彼を中国に招くことを熱心に説いた。クマーラジーバもまた道安を尊敬していたが、クマーラジーバの中国入りが実現するのは道安没後の401年のことであるから、両者が出会う機会はなかった〔『平凡社世界百科大事典』愛宕 元〕〔『岩波仏辞典』〕。
■玄奘
 玄奘(げんじょう)(602年〜664年)は、中国の唐代の僧で、孫悟空(そんごくう)で有名な「三蔵法師」とも呼ばれている。彼は、唐の洛陽に近い河南省で生まれた。13歳で出家し、兄のいた洛陽の浄土寺で経論を学んだが、まもなく兄とともに長安に入った。しかし、兵乱のために蜀(しょく)に赴いて空慧寺に入り、622年にそこで具足戒を受け、その後、再び、都の長安に戻った。彼は、釈迦の入滅(没)とその意義を説いた涅槃経(ねはんぎょう)と呼ばれる経典類や大乗仏教の教えを説く摂大乗論(しょうだいじょうろん)などを学んだ。しかし、多くの疑問を解決することができなかったので、親しく原典を学ぼうとインド留学を決意した。彼は、釈迦の悟りの法(「ダルマ」と呼ばれる)を記述した経蔵と律蔵と論蔵(併せて「三蔵」)を学んで、仏教の最高の知恵を得た弟子の資格(「アビダルマ」と呼ばれ、漢語では「阿毘達摩/あびだつま」)を得ようと志したのである。
 唐の法律で国外への旅行が禁止されていたけれども、玄奘だけは諦めず、国禁を犯し仏法を求めて長安を発った(629年)。実は、彼より先に、インドへ「求法(ぐほう)の旅」(399年〜412年)を行なった先駆者が居る。法顕(ほっけん)は、当時の北魏の都、長安を発って、敦煌から亀茲(くちゃ)へ。南下して、当時の仏教王国の于閥(ほーたん)から、疏勒(かしゅがる)へ北上して、再び南下してガンダーラへいたり、そこから、グプタ王朝の領内で、ガンジス河中流にあるバータリプトラとナーランダーへ到達している。ただし、法顕(ほっけん)は、帰路には海上を選び、ガンジスの河口付近から、海路でシンハラ(現在のスリランカ)へ降り、そこからはるばる南シナ海を経由して泰山へついている〔『世界史図録ヒストリカ』15頁地図〕。
 玄奘(げんじょう)の旅は、長安から涼州を経て敦煌へ。そこから北回りで亀茲(くちゃ)へ。そこからさらに西のサマルカンドにいたっている。サマルカンドから南下して、バクトラを経由してガンダーラ地域を訪れている。そこからは、カシミールの山岳地帯を通り、ヴァルダナ朝の北インドへ入っている。驚くべきは、そこから、ヒマラヤ山脈の南麓のネパールを経由して、釈迦が生まれたマガダ王国のナーランダーに到達した〔『世界史図録ヒストリカ』17〜18頁図録〕。ナーランダ寺は、仏教学の中心であったので、この寺で5年間、シーラバドラから教えを受けた。彼が学んだのは、あらゆる存在は人間の心が生み出す認識に過ぎず、自己の存在をヨーガなどの修行を通じて変革し再生することである(これを「唯識論」と言う)。
 彼は、そこからさらに南インドへ下り、インドの西側へ出て、そこからインダス河の河口へ出ている。そこからインダス河に沿ってガンダーラにいたり、そこから北上してカシュガルへ。そこから、今度は、行きの旅とは異なり、南のホータンを経由して敦煌へいたっている〔『世界史図録ヒストリカ』17〜18頁図録〕。出発してから17年目の645年に、今度は大歓迎されて唐の都長安に帰った。彼がインドから持ち帰ったのは、仏舎利150粒、仏像8体、経典520巻に及ぶ。これらは弘福寺に安置された。唐の太宗は、おおいに喜んで、彼を訳経の仕事に従事させた。彼が20年間に訳出した大乗と小乗の経論は、『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)600巻をはじめ、76部、1347部に達した〔『岩波仏教辞典』〕。その訳風は忠実な逐語訳で、「新訳」と称されて、鳩摩羅什の旧訳と区別されている。弟子の弁機に口述して編集させた旅行記『大唐西域記』12巻は,彼の伝記『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』10巻と共に、その正確な記述によって、7世紀の中央アジアとインドを知る貴重な文献である。これらは、後に小説『西遊記』の素材となったことでも有名である。〔『平凡社世界百科大事典』礪波 護〕
■最澄と空海の仏教へ
 中国では、(ちぎ)(538〜597年)が、天台大師として天台宗を興した。また法蔵(ほうぞう)(642〜712年)が、賢首大師として華厳宗を興し、一切の事物において「一即多/多即一」を説いた。延暦の遣唐使(804〜806年)の最澄(さいちょう)が、奈良時代の仏教を批判するために持ち帰った天台宗は、以後の華厳宗によって、批判的に受け継がれることになる。華厳宗が奈良の都で盛んになった頃、唐では、アモーガヴァジュラ(不空)(705〜774年)によって密教の経典が翻訳されていた。不空は北インド出身で、洛陽へ来て経典を訳した。長安で『金剛項経』など密教の経典を翻訳し、中国の真言密教を大成した。空海は、唐の都長安にある青竜寺で、不空の弟子である惠果(けいか)(?〜805年)から密教を学んだ。惠果は、不空に師事して密教を広め、代々の皇帝に信頼されて、祈祷法要を習得していた。最澄は、不幸にして桓武天皇の逝去により保護を失い、南都仏教と対立したが、空海のほうは、嵯峨天皇の保護を受けて、平安京に東寺を与えられた。空海は儒教も習得していたから、南都仏教とも協調して、高野山に金剛峰寺を建てた。王法と仏法との対応と調和こそ、日本仏教の根本である〔週刊朝日百科『日本の歴史』(57)39〜41頁〕。
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