シルクロードの仏教

■シルクロードから来た仏像
 5世紀の世界は、西方では、パレスチナからギリシアとエジプトにかけて、キリスト教を国教とするビザンティン帝国の最盛期であり、パレスチナの東には、広大なササン朝ペルシア帝国があり、そこでは、ゾロアスター教と、ゾロアスターとキリスト教が融合したマニ教が広く信奉されていた。さらに、注目すべきは、ササン朝ペルシアの南部、チグリスとユーフラテス川の流域には、ネストリオス派のキリスト教が広く流布していた。この地域は、インドのグプタ朝に近く、ゾロアスター教とマニ教とキリスト教のササン朝と、グプタ朝の仏教圏とが重なり合うところにガンダーラが位置していたのである〔『世界史図録』ヒストリカ(山川出版)14頁〕〔週刊朝日百科『日本の歴史』44号336〜37頁を参照〕。インドの北半分は仏教の盛んなグプタ王朝の時代で、中国では、北魏と宋がそれぞれ北と南を支配しており、朝鮮半島は、高句麗と百済と新羅と加羅の時代である。日本へは、秦氏の先祖弓月(ゆづき)が渡来していたから、何らかの形の「キリスト教」が伝えられたという説もある。
 釈迦の像は、その没後(前5世紀末?/前4世紀初頭?)も、釈迦の教えに基づいていたから、仏像が作られることがなく、釈迦自身の像(仏像)は、後5世紀に、ササン朝帝国とグプタ王朝との間にあたるガンダーラ地域で本格的に彫刻された。この地域は、アレクサンドロス大王の支配以後も続くギリシアとビザンツ帝国の影響を受けていて、ササン朝ペルシアの影響も強く、同時に、北インドのグプタ朝の仏教(とヒンズー教)とも重なる地域である。また、マニ教の影響もあったであろう。マニ教は、イラン人マーニ (216年〜76/77年)によって3世紀に唱導された二元論的宗教で、当時のゾロアスター教を教義の母体として、これにキリスト教とメソポタミアのグノーシス主義と伝統的土着信仰、さらには仏教までを摂取し融合した世界宗教である〔平凡社『世界大百科事典』〕。
 ササン朝には、エフェソ公会議(431年)で異端とされ、東方に伝わったネストリオス派のキリスト教が広まっており、これが唐代の中国(8世紀)で景教(光の教え)と呼ばれて一時広く普及した。今に遺る唐の長安を描いた絵には、当時東ローマ帝国の宮廷で流行していた女官の髪型を真似た女官が描かれている。空海は、唐の都長安で景教に出逢い、その経典を持ち帰っている。だから、日本に伝わった仏像の仏教は、すでに、ギリシア系のキリスト教やペルシアのゾロアスター教の影響を受けたインド北部の仏教を受け継いでいて、5世紀の北魏の西端にあって栄えた敦煌(とんこう)の仏像と同じ系統を継いでいる。
 当時日本に伝わった文化も宗教も、「その同時期」の世界情勢を驚くほど敏感に反映していたから、5〜6世紀に倭国に伝わった仏像仏教も、ビザンツ帝国(コンスタンティノープル/エデッサ)→ササン朝(アルメニア/ニシャプール/バクトラ)→エフタルに支配されたグプタ朝(バーミヤン/ガンダーラ)→敦煌→北魏→百済と新羅→倭国という経路を想定できると思う〔『世界史図録』ヒストリカ(山川出版)14〜15頁〕。
■法隆寺の仏像とシルクロード
 以下の記事は、2020年3月10日(?)のNHK:BS「シルクロード:SILK ROAD」(表題に漢字も使用)を参照している。これは、女優の有森也実が、法隆寺金堂の壁画や仏像の源流を求めて、シルクロードを遙か西方まで旅する番組で、「日本が、国を外へ向かって開いていった時代の仏教美術」の源流を探る旅である。1949年1月に、法隆寺金堂で火災が起こり、壁画が焼ける事件があった。番組は、東京芸術大学が、コンピューターによるクローン文化財復元の技術を使って、その壁画の再現を試みたところから始まる。これによって、焼ける前の金堂のすべての壁画が復元された。その中の代表的な壁画、左右に菩薩を配した釈迦三尊像を見ると、針金を曲げたような独特の線描(「屈鉄線」と呼ばれる)の技術、菩薩の腰布に描かれた小さな正方形の独特の縞模様、さらに仏像の姿勢など、壁画全体の構図と線描と模様のどれもが、シルクロードを西にたどり、7世紀の唐の都である長安から、さらに西方の敦煌へ、その西方で栄えた仏教の亀爾(きじ)王国の首都クチャへ、その南方にあるガンダーラと呼ばれる地域のホータンへ、そこからバーミヤンへ、さらに南下してインド北部のアジャンタへいたる仏教美術の蹟(あと)を留めている。
 敦煌から東南に25キロの所に、莫高屈(ばっこうくつ)と呼ばれる遺跡がある。そこには、366年から始まり、敦煌が安定期を迎える7世紀の唐の時代にいたるまでに描かれた洞窟の壁画が、現在分かっているだけで492ある。法隆寺の釈迦三尊像に最も近いのは、第332洞窟の壁画である。入り口を入ると、三体の仏像が立っている塑像がいくつもある。その奥に、阿弥陀仏の両脇に、観音菩薩と勢至菩薩が並び、周囲に多数の童子菩薩が描かれている。
 さらに第220洞窟では、多数の仏像や人のいる極楽浄土の絵が色鮮やかに描かれた壁画が発見された。その中央には、法隆寺金堂の壁画と同じく、蓮の花の上に座る阿弥陀仏と両脇に菩薩が立っている。釈迦の手と指の複雑な組み合わせの屈鉄線と、指の組み合わせ方とに、法隆寺の壁画の源流が亀茲国の壁画にあることを見いだしたのは、画家の平山郁夫である。
 しかし、屈鉄線の源流は、これよりもさらに西方からでている。492の洞窟の中で最も古いとされている第275洞窟では、足を交差した菩薩があり、遙か西の亀茲国の壁画や、その南方のガンダーラ美術の影響を強く感じさせる。220洞窟や275洞窟の模様は、格子縞で描かれていて、模様も法隆寺のものと酷似している。220洞窟や275洞窟の壁画とその紋様の源流は、遙か西方のギリシアにつながるガンダーラ美術からである。
 亀茲国(きじこく)は、前2世紀頃〜後9世紀頃、中国の前漢から唐の末期まで、千年も続いた仏教王国である。東西の貿易によって栄えた亀茲国は、クチャの北西地域に、七カ所もの仏像の石窟を作った。その中のキジル千仏洞窟には、349もの洞窟の壁画がある。4世紀頃から500年ほどの間、ここに壁画が描かれ続けてきた。その第38屈には、ラピスラズリを用いた美しい青色をバックにした壁画を見ることができる(7世紀頃のもの)。これは天の星座をもとにした天象図である。ここの第17洞窟には、法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)の側面にも、我が身を虎に食べさせる捨身飼虎が、同じ図柄で描かれている。  
 キジル千仏像洞窟の207窟には、5〜6世紀に描かれた壁画がある。こちらは青系統でなく、それよりも以前の赤系統がバックになっている。この初期の様式はガンダーラ美術の影響を表わしている。ここには、ほんらい、釈迦涅槃図を真ん中に、左右に拡がる弟子たちの絵があったのだが、ドイツの探検隊によって削り取られて、現在はその半分だけが、ベルリン国立博物館に残っている(残りの半分は大戦中に爆撃で焼失)。ここに描かれている縞模様は、亀茲国の織物に多く用いられていて、これが法隆寺金堂の模様となって伝わっているのである。
 キジル千仏洞窟から南へ70キロの所に、4世紀頃に描かれたシムシム洞窟の壁画が50カ所以上ある。その中の第40窟には、法隆寺の壁画と同じ屈鉄線が美しく描かれていて、ここが屈鉄線の源流であったことを物語っている。しかし、この屈鉄線も、さらに南方のホータン(ガンダーラ地域にある)からのものである。唐代の書には、「于テン国」(ホータン王国を指す)の慰遅乙僧(ウッチオッソ)が、「鉄を屈するごとき」線を描いたとある。ホータン王国の壁画は、新疆ウイグル自治区の考古学博物館に保存されていて、そこにある「彩色如来図」には、仏の顔が美しい屈鉄線で描かれている。
 これらの壁画の起源は長安で、そこから、東は日本へ、西は敦煌へ伝わったというのが、案内の中国の研究員の説である。しかし、そうではなく、起源は、敦煌からさらに西方で、かつて仏教王国として栄えた亀爾(きじ)国にあるようだ。そうだとすれば、ホータンから長安を経て百済を経由して日本に驚くべき速さで伝わっていたことが分かりる。6世紀の終わり頃の朝鮮半島は、高句麗と新羅と百済の三国時代であった。中でも、百済は倭国との交流が盛んであった。百済は、4世紀中頃に起こった国であるが、すでに大陸(宋→斉→梁→陳→隋)の進んだ文化を採り入れており、仏教もガンダーラと東晋を経て百済へ伝わっていた。しかし、百済の国内の事情は、同時代の倭国とそれほど違わず、王権は地方豪族の連合によって支配されていて、隣国の新羅の王室と婚姻関係を保っていた。だから、大陸の文明と仏教を除くなら、国内政治の実態は、同時代の倭国とそれほど違わなかった。大和朝廷が、百済を通じて大陸の文明を採り入れ、仏教を受け容れたのは、両国に共通するこのような事情があったからである。
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