共観福音書講話と注釈を語るに際して、イエスの生涯あるいはイエスの伝道活動の期間とそこで行なわれた業をどのよう枠づけるかという問題があります。すなわちイエスの業についての「年代順配列」(chronology)です。わたしが、共観福音書講話を始めようと思い立ったのは、『四福音書対観表』(日本基督教団出版局、2000年)がでたことが一つのきっかけでした。これにはギリシア語原典と日本語新共同訳聖書とが併記してあります。ギリシア語原典のほうは、もともとドイツで出版された『四福音書対観表』の英語版(1971年)に基づいています。英語で新たに出たものでは、
Arthur J. Dewey & Robert J. Miller. The Complete
Gospel Parallels. Oregon: Polebridge Press(2012)があります。これのほかに、スロックモートンの『共観福音書並行表』(Burton H. Throckmorton: Gospel Parallels: A Comparison of the Synoptic Gospels. Thomas Nelson,1992.)もあります。こちらはthe New Revised Standard Versionに基づく共観福音書が中心です。また『新共同訳新約聖書注解』T(日本基督教団出版局、1991年)の巻末にも年代表があります。これも共観福音書が中心で、ヨハネ福音書は参考程度です。このほかに、インターネットから得たKenneh
F. Doig New Testament Chronology. New York: Edwin Mellen Press,1990.の抜粋があります。また、佐藤研編訳『福音書共観表』岩波書店(2005年)は、共観福音書のそれぞれの書の共通点を色分けしてあります。そのほかに、塚本虎二の『イエス伝研究』シリーズなども参考になります。共観福音書の研究に欠かせないもので、もうひとつは、イエス様語録(Q文書)があります。これの復元版としては、ギリシア語原典を綿密に対照させたJames M.
Robinson et.als.
The Critical Edition of Q. Hermeneia ( Fortress Press, 2000.)がありますから、これに基づいています。
■イエス様語録(Q)について
共観福音書とイエス様語録との関係はとても複雑です。詳しく説明するとかえって混乱を生じますので、できるだけまとめて説明します。従来までの通説では、先ずマルコ福音書が書かれて、その後でマタイ福音書とルカ福音書が書かれたことになっていました。さらに、マルコ福音書の90%がマタイ福音書に含まれていて、マルコ福音書の45%がルカ福音書にも含まれているのです。その上、マタイ福音書とルカ福音書との両方に共通するイエスの言葉で、マルコ福音書にはない部分が相当にあります。これらのことから、マタイとルカとは、それぞれ別個にマルコ福音書を参照しながら、しかも、マルコとは別に、イエス様語録(Q)を参照している。こういう仮説が生まれました。だから、共観福音書は、マルコ福音書とイエス様語録(Q)、主としてこの二つの「資料」を基本にしていることになります。おおざっぱな言い方ですが、こういう仮説を「二資料説」と言います。
上に述べたことから分かるように、イエス様語録というのは、実在する文書のことではありません。マタイ福音書とルカ福音書とを相互に照合しながら、文献的にイエス様語録を特定しようと、長い間試みられてきました。この研究の結果が、先に参考資料の所であげたThe
Critical
Edition of Q.です。だからこれは、イエス様語録説といういわば仮説に基づいて「復元された文書」です。しかし「復元された」とは言え、事実はそれほど単純ではありません。なぜなら、マタイ福音書とルカ福音書とでは、イエス様語録を用いていても、その用語や言葉遣いが異なるからです。マタイの所有するイエス様語録とルカの所有するイエス様語録とは異なっています。さらに、イエス様語録それ自体も、始めから固定された文書ではなく、イエス様語録(1)とイエス様語録(2)のように、段階的に編集されている、このように見ることができます。だから、提示されたイエス様語録も、必ずしも確定したものではなく、マタイとルカと、どちらの読みを採るか、常にこの二者択一が迫られているのです。それでもこのイエス様語録の復元は、20世紀の文献批評の一つの大きな成果を示すものだと言えましょう。
ところが、このようなQとQの人たちへの見方は、その後大きく変化することになります。最近では、Qは、イエスの復活信仰成立の<後になって>成立したのではなく、すでにイエスの生前に、イエスの口から直接聞いた弟子たちが語り広めた言葉がQの基になっているという見解が出されています〔James
D.G.Dunn, A New Perspective on Jesus.
B Baker Academic
(2005).26-28.〕。わたしもこの見方に賛同します。この説によれば、Q、すなわちイエス様語録は、イエスの十字架以後の信仰共同体が作り出したものではなく、すでにイエスの生前にイエスを信じる人たちによる共同体が存在していて、イエス様語録は、そこでこれの原型が形成されていたことになります。だとすれば、イエス様語録はほんらいアラム語で語り伝えられたもので、それがどの段階かで、おそらくヘレニスト・ユダヤ人キリスト教徒によって、ギリシア語に訳されたことになります。
ところで二資料説にも様々な問題があります。まずマタイ福音書にもルカ福音書にも、マルコ福音書とイエス様語録以外に、これらのどちらにも属さない独自の記事が含まれていることです。これらは、「マタイの特殊資料」あるいは「ルカの特殊資料」と呼ばれています。だから、おおざっぱに言えば、マタイとルカは、マルコ福音書とイエス様語録とそれぞれの特殊資料とを用いていることになります。また、マルコ福音書からの引用にしても、マタイとルカとが異なるだけでなく、引用された語句が現在のマルコ福音書とも異なるのです。このことから、マルコ福音書には、現在のマルコ福音書の以前に、「原」マルコ福音書があって、マタイの引用などはそこからではないかと言われています。さらにマルコ福音書には、原マルコ福音書のほかに、もうひとつ別の版のマルコ福音書(「第二マルコ福音書」「改訂マルコ福音書」などと呼ばれます)があったのではないかとも推定されています。
そもそも二資料説は、マタイとルカとが、相互に知らないままでマルコ福音書を引用しているという前提に基づくものです。ところが、ルカは、マタイ福音書を直接参照してルカ福音書を書いたのではないか? という説が提唱されています。こうなりますと、イエス様語録の存在を前提とする必要がなくなりますから、イエス様語録の存在それ自体が疑われることにもなります。現在、このイエス様語録否定説をとる学者は少数で、ほとんどの説は、何らかの意味で、イエス様語録の存在を認めています。しかし、これらのことから、従来考えられてきた二資料説よりも、はるかに複雑な過程が、共観福音書の成立の過程で生じていたことが分かってきました。厳密に言えば、イエス様語録さえも一つではなく、Q1とQ2のようにいくつかの段階があったと見られています。以上で分かるように、現在では、共観福音書の相互関係は、これを図式化できるほど簡単ではなく、これらに共通する伝承それ自体も流動的であり、それぞれの福音書も、流動的な形成過程を経ていると見られるようになっています。
■共観福音書講話の視点
この共観福音書講話では、イエス様語録が想定される場合には、最初にイエス様語録のテキストを提示し、これに続いて、主として、マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書の順番で、【聖句】があげられています。しかしながら、以上のことを前提として見るならば、イエス様語録のテキストは、決して固定したものではなく、マタイとルカとのどちらの読みの可能性をも秘めていますから、これは一つの目安として理解いただければ幸いです。また、現在の通説では、マルコ福音書(70年頃)、マタイ福音書(80〜90年頃)、ほぼ同じか少し遅れてルカ福音書、という見方がなされていますが、この成立年代も確定したものではありません。なによりも、それぞれの福音書に含まれているほんらいの伝承となれば、いったいどの福音書に含まれる伝承が「先」なのか「後」なのか、判定することさえ難しくなります。ヨハネ福音書は、通常共観福音書よりも遅れて成立したと見られていますが、これに含まれている伝承それ自体には、共観福音書よりもさらに以前の古い伝承が含まれていると考えられます。
わたしが共観福音書講話と注釈で意図したことは、こういう文献的な視点から、共観福音書を総合しようなどと言うことではありません。そうではなく、歴史上に実在したナザレのイエスが、わたしたちに伝えようとした福音的な霊性、これはいったい何なのか? これを探り求めるのがわたしの志したことです。福音とはなによりも歴史において現われた「出来事」であり、しかもそれは、歴史上の「ナザレのイエス」を通して啓示された「神の出来事」です。これがわたしのこの講話と注釈の前提です。さらにその出来事の意味は、通常の「歴史的な」出来事とは本質的に異なっています。なぜなら、神がナザレのイエスをお遣わしになって、このナザレのイエスを通じて、神ご自身が、「神の御言(みことば)」を啓示したからです。だから、歴史に現れたイエスの存在とその業は、啓示された神のみ言という「霊的な出来事」として観なければならないのです。共観福音書がわたしたちに伝えようとしているのは、まさに「このこと」なのです。この視点に立って共観福音書の作者たちは証言しているのです。
したがって、この共観福音書講話も、「三福音書が証しするナザレのイエスの霊性」を聴き取り読み取ろうとする信仰、「霊的な透視」に支えられています。通常の歴史的な出来事でないという意味は、これが「神の啓示の」出来事であり、「聖霊によって生起した」出来事であることを意味します。当然のことですが、このような解釈の方法は、イエスを歴史上の一人の人物と見なして、彼をその「人間的な」有り様から考察し、その人物像を解明しようと志す「学問的な」方法論に基づくものではありません。人間イエスを学問的に追究しようとするこのような仕事が、大事な意味を持つことは言うまでもありません。しかし、現在の歴史学の視点に立って、「史的人間」としてのイエスをその宗教的かつ社会的存在として考察し、その「実像」を探るという方法をわたしは採りません。神の啓示とは、霊的な出来事であり、このような出来事は、「神の言葉」の出来事ですから、文献批評や社会学などのいわゆる「学問的な」方法論で解明するのは、現在の段階ではまだ不可能だとわたしは考えています。
こういう「神の言葉」の啓示としてのナザレのイエスの霊性を最も正しく伝えているのが四福音書です。なぜなら、この意味での「ナザレのイエスの霊性」こそ、四福音書の作者たちが目指した意図そのものだからです。これが、わたしの共観福音書講話の前提であり、この視点に立って、ナザレのイエスの出来事を、ひとつひとつ、重層的に見ていくのが、この共観福音書講話の視点です。