30章 夕方に大勢を癒す
マルコ1章32~34節/マタイ8章16~17節/ルカ4章40~41節
【聖句】
マルコ 1章
32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
33町中の人が、戸口に集まった。
34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
マタイ8章
16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」
ルカ4章
40日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
41悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
【講話】
■メシアの秘密
福音書には癒しと悪霊追放の記事が幾度も出てきます。今回は、まずマルコ福音書から始めたいと思います。マルコ福音書1章34節に、イエス様は「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」とあります。マルコ福音書では、イエス様は、三度、悪霊に沈黙を命じています(1章25節/同34節/3章11節)。また病人を癒した後でも、「誰にも話さないように」と四度も沈黙を命じています(1章44節/5章43節/7章36節/8章26節)。
さらにペトロが、イエス様は「メシア」であると告白した時にも、ご自分のことを誰にも話すなと弟子たちに命じます(8章30節)。またペトロとヨハネとヤコブが、山の上でイエス様の変貌する姿を観た時にも、「今見たことを誰にも話すな」と命じています(9章9節)。さらにイエス様は、弟子たちだけに「神の国の秘密」を解き明かします(4章10~12節)。またご自分の受難について、十二弟子だけに三度も密かに予告しています(8章31節/9章31節/10章33節)。イエス様は、なぜこのようにご自分のことを「秘密」にしようとしたのでしょうか?
皮肉なことに、イエス様が口止めすればするほど、イエス様の噂はますます広まるのです(1章45節/5章20節/7章24節/7章節36節)。悪霊どもまでが、イエス様は「神の聖者」だ「神の子」だと言い出します(1章24節/同34節/3章11節/5章7節)。人間のほうは、その霊的な力に接して、いったいこの人は「何者なのか?」と不思議がったり(1章27節)、イエス様は神を冒涜すると非難したり(2章7節)、「この方はどういう人なのか?」と恐れたり(4章41節)、イエス様の知恵に感心したりしているのに(6章2節)、悪霊どものほうは、イエス様が「何者であるか」をはっきりと告げているのです。いったいマルコはイエス様のことをどう思っているのだろう? 人間が分からないことを悪霊が答えているというこの現象はいったい何だろうというわけです。だからマルコ福音書では、イエス様は、その生前においては、ご自分のほんとうのお姿を顕わされないで秘密にしておられた。イエス様に働く聖霊のほんとうの意味はイエス様が地上におられた間は隠されていた。イエス様のメシアとしてのほんとうの姿は、地上で伝道していた間は、弟子たちを含めて誰にも明かされることがなかった。マルコはこういう描き方をしているわけで、これを「メシアの秘密」と言います。
けれども、この「メシアの秘密」は、大きな誤解を招くことがありますから注意してください。
(1)それはイエス様ご自身が、自分のメシア性を自覚しなかったことではありません。イエス様はご自分の内に神の御霊が働いておられることをはっきりと自覚していました。イエス様の受洗にあたって「あなたはわたしの愛する子」という声と共に聖霊が鳩のように降ったと証しされています(1章10節)。イエス様は「人の子がこの地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせる」と告げて中風の人を立たせています(2章10節)。また「人の子は安息日の主である」と言われて、ご自分を安息日制度の上に置いています(2章28節)。「人の子」「メシア」「神の子」、これらの言葉は当時いろいろな意味で用いられていました。わたしは、イエス様が自分のことを「人の子」と呼んだと考えています。しかし自分を「メシア」あるいは「神の子」とは言わなかったでしょう。けれどもイエス様が地上におられる間、ご自分のメシア性を自覚していたこと、また特別な意味で、ご自分と「父なる神」との結びつきを自覚していたのは確かだと考えています。このこと、イエス様がご自分がメシアであることを知っておられたことが大事なのは、もしもこれがなかったならば、次に述べることは起こりえないからです。
(2)「メシアの秘密」には、イエス様がこの地上におられた間は、メシアとしてのイエス様の御霊の働きが顕われなかったという誤解があります。しかし、イエス様が「地上におられる間」、そのメシア的な力が顕わされなかったという意味でもありません。イエス様は「今までにない霊的な威力のある」語り方をしました(マルコ1章27節)。人びとはイエス様の行なう癒しの業にびっくりしました。弟子たちも、イエス様に「畏れと驚き」を覚えています。イエス様は、「メシア」と名乗ることも、また自分を「神の子」と呼ぶこともなかったと考えられますが、周囲の人たちは、イエス様が「メシア」であり「神の子」であり「神の聖者」であり「偉大な預言者」であり「ダビデの子」ではないかと信じたのです。だから、イエス様に聖霊の力が宿っていたことは、秘密でもなんでもありません。周りの人は誰でもそれを感じて、ある人は信じ、ある人は畏れ、ある人は非難したのです。このことが大事なのは、もしもこれがなかったら、イエス様の十字架と復活の後で、わたしたちにイエス様の御霊である聖霊が働かないからです。死の彼岸から、今のこの世界へと働く御霊の働き、すなわち、ナザレのイエスが今この時に御臨在くださること、このことが起こらないからです。ではいったい、イエス様の何が「秘密」だったのでしょうか?
■十字架の秘密
「メシアの秘密」は、言うまでもなくイエス様自身の内に潜んでいました。しかし同時に、それを「秘密」として描いたマルコの語り方にも潜んでいます。イエス様を「メシア」だと信じた人たちがいました。しかし、それは「どのような」メシアだったのでしょう? 悪霊はイエス様を「神の子」と呼びました。またイエス様が十字架で息絶えた時に、一部始終を見ていたローマの百人隊長は思わず「ほんとうにこの人は神の子だった」と言いました。いったいイエス様は「どういう意味で」神の子だったのでしょう? これがマルコ福音書からのわたしたちへの問いかけです。
イエス様がご自分の受難を予告した時に、ペトロを初め弟子たちは「そんなことがあってはなりません」といさめています(8章31~37節)。またイエス様がまっすぐエルサレムへ向かっている途中で、弟子たちにご自分の受難と復活を予告すると弟子たちは驚いたり怖れたりしています。このことは、イエス様の「霊能の威力」にもかかわらず、と言うよりも、まさにイエス様の霊能のゆえに、いったいイエス様がエルサレムで何をしようとしているのか? 弟子たちには、そのことが全く見えていなかったことを意味します。イエス様の霊能的なお働きは、秘密でもなんでもありませんでした。秘密は、それを行なうイエス様の心の内にありました。イエス様がメシアかどうかは秘密ではありませんでした。秘密は、イエス様の心にある「メシア」とは、いったいどんなメシアなのか? これだったのです。イエス様が「神の子」であると信じた人たちも、その「神の子」が何をしようとしているのか? これが秘密だったのです。
その答えは、「最期まで」分かりませんでした。イエス様が裏切りに逢うとはだれ一人予測しませんでした。イエス様が逮捕された時に、それまでイエス様に従っていた弟子たちは「全員、イエス様を見捨てて逃げました」(14章50節)。イエス様が十字架で処刑されるとは、思いもよらなかったからです。彼らには、「そのような」メシア、そのような「人の子」、そのような「神の子」は、想像することさえできなかったのです。だから、イエス様がどのようなメシアだったのかは、最期の十字架の死まで、いいえ、イエス様が十字架の死から復活して顕われるまで、誰にも理解できなかったのです。これが、マルコの描く「メシアの秘密」です。だからパウロは、このメシアの秘密を「神の知恵」と呼び、地上の支配者たちはだれ一人これを理解しなかったと言い、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かびもしなかったこと」だと言うのです(第一コリント1章8~9節)。
イエス様がどのような意味で「神の子」である/あったのか、このことが、十字架において初めて明らかになります。イエス様が「どういう意味で」メシア(キリスト)であったのか? このことが、イエス様の復活以後に初めて、弟子たちに啓示されます。これがマルコによる「メシアの秘密」です。
■霊能の秘密
皆さんは、もしも自分がイエス様と同時代に生きていて、イエス様のなさる業を見ていたら、決して躓くことをしないだろう、こう思いますか? 現在でも、イエス様の教えが語られ、聖書の注釈が多くあり、いろいろな霊能の伝道者が、あちらこちらで大集会をやっています。イエス様がガリラヤで行なわれたと同じように、大勢の人たちを集めて、癒しや不思議が行なわれています。人びとは、これを見たり聞いたりして、イエス様を「メシア」、すなわちキリストだと信じ、「神の子」として崇めています。イエス様は癒しや不思議のしるしを決して否定しませんでした。これを軽蔑したりなさいませんでした。これを否定し軽蔑したのは、学者やファリサイ派の人たちです。だから病気癒しや不思議によって、人びとが病や悩みから解放されるのはすばらしいです。
けれども、このことと、イエス様がほんとうはどのような「キリスト」なのか? このこととは決して同じではないのです。だから、現在でも、イエス様の存命中と全く同じ意味で、「メシアの秘密」が存在するのです。なぜなら、ほんとうのメシア性は、人の目から隠されているからです。目に見えるものは、どんなに人目を引くすばらしいことでも、「ほんもの」ではないのです。「ほんもの」は、秘密として人の目からは隠されたところにあるからです。それは十字架を通って復活されたイエス様が、十字架を通してわたしたちに働きかける御霊そのものに潜んでいるからです。だから、わたしたちの崇めるのは、大聖堂で賛美されたり、人びとから賞賛されるいわゆる「キリスト」ではありません。そこに秘密は要らないからです。わたしたちが求めるのは、地上におられた時のままの「ナザレのイエス様」です。そのナザレのイエス様が、わたしと共に御臨在してくださること、そのことなのです。