29章 ペトロの姑の癒し
マルコ1章29~39節/ルカ4章38~44節/
マタイ8章14~17節/同4章23節

【聖句】

マルコ1章
29すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。
ヤコブとヨハネも一緒であった。
30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、
人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、
熱は去り、彼女は一同をもてなした。
32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、
イエスのもとに連れて来た。
33町中の人が、戸口に集まった。
34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、
また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。
悪霊はイエスを知っていたからである。
35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、
人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36シモンとその仲間はイエスの後を追い、
37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。
そのためにわたしは出て来たのである。」
39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪魔を追い出された。

ルカ4章
38イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。
シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
39イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、
彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
40日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、
病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
41悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。
イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。
悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
42朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。
群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、
自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
43しかし、イエスは言われた。
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。
わたしはそのために遣わされたのだ。」
44そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

マタイ8章
14イエスはペトロの家に行き、
そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
15イエスがその手に触れられると、熱は去り、
しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。
イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

マタイ4章

23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

【注釈】

【講話】

■病める者を癒し悪霊を追い出す
 先の回にありましたように、イエス様は「神の国の福音」を伝えることで、その伝道を開始されました。今回のところは、その伝道がどのようなものかを語ってくれます。マルコとルカを併せますと、それは「病める者を癒し悪霊を追い出す」伝道です。マタイは、これにイエス様の「教え」を加えています。その「教え」がどのようなものかは、共観福音書講話の「イエス様の教え」にあるいろいろな項目をご覧ください。イエス様は、この「神の国」をできるだけ多くの場所で、できるだけ多くの人たちに伝えたいという熱意に動かされて、町々村々を巡回なさいました。「病の癒し」と「悪霊追放」と「御国の教え」と「宣教への熱意」、この四つが、イエス様の伝道活動を支えていたのが分かります。
 今から50年ほど前、1956年(昭和31年)に、アメリカからある宣教師ご夫妻が日本へ来て、名古屋から始めて、京都と四国の松山で伝道しました。T・L・オズボーンとデイジー・オズボーンご夫妻です。当時わたしは、フィンランドの宣教師さんたちのもとで伝道していた関係で、ご夫妻の通訳として、名古屋、京都、四国をまわりました。今から思えば、オズボーンさんは当時33歳くらいで、わたしは25歳くらいでした。ご夫妻の伝道は、野外の広場で、質素な木造の壇の上から、立っている人たちに説教するというやり方でした。それは、まさに「病める者を癒し悪霊を追い出す」伝道で、壇上から火のようなメッセージを語り、その後で、立っている全員に向かって、病気の癒しと悪霊追放の祈りをするのです。すると耳の聞こえなかった人や目の見えなかった人や松葉杖をついてきていた人などが、癒されて、壇の上で癒しを証しするのです。壇の上方に張ってある裸電球の電線に、癒された人が残していった杖がぶら下がっているというわけです。
 彼の書いた『キリストの癒し』(Healing from Christ.)を訳し、また彼の著書『病める者を癒し悪霊を追い出す』、 Healing the Sick and Casting out Devils.(Oklahoma; Tulsa. 1955.)を熱心に読んだのもその頃です。彼は、今回マタイが引用しているイザヤ書53章4節に基づいて、徹底してキリストによる病の癒しを宣べ伝えました。日本へ来る前に、すでに南米やインドネシアなどへ出かけて、同じようなやり方で、何万人もの集会を持ってきました。今から49年ほど前のことです。ところが今年(2005年)の9月に、オズボーンさんが東京の郊外川口市の川口文化会館で、セミナー集会を開くのを知って、わたしたち夫婦は、そのセミナーの始めのほうに参加しました。すると、50年前の通訳が来たということで、思いがけなく聴衆に紹介されることになりました。
 ただしここで、オズボーンさんの癒しの伝道で強調しておきたいことが二つあります。ひとつは、彼の癒しは、今回マタイが引用している「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(イザヤ書53章)に基づくもので、癒しと救いは、イエス・キリストが、「わたしたちの病」を十字架の贖いによって完全に取り除いてくださったからこそ生じることを徹底して教えることです。だから彼に言わせるなら、病の癒しは罪の赦しと全く同じで、これは、イエス様の贖いの結果としてすべての人に例外なく与えられるのです。つまり彼は、癒しは、聖書の御言葉それ自体を信じるところから起こるので、決して彼だけに与えられた「霊能」ではないことをはっきりと伝えたのです。マタイが「<お言葉によって>悪霊を追い出した」と言っているとおりです。
 もうひとつの点は、今述べたことから自然に導き出されます。このように聖書の御言葉に基づく癒しですから、イザヤ書の聖句を信じて祈るならば、だれにでも癒しが与えられるだけでなく、だれでもが彼と同じに癒しの伝道ができるはずだというのが彼の信念でした。だから彼は、癒しは罪の赦しにほかならず、それは聖書の証言に基づいてイエス・キリストの贖いから来るものであり、人が聖書の御言葉を信じるなら、だれでもが、例外なく、この癒しを受けるだけでなく、癒しと救いを宣べ伝えることもまたできると言うのです。この徹底的に「民主的な」信仰とその伝道のやり方にこそ、インドやインドネシアや世界中の人たちが、彼のメッセージに引きつけられ、彼のメッセージを「実行する」人たちが、その中から現われてきた理由です。
 先生はこの50年間、一貫して神癒を宣べ伝え、南米、アジア、アフリカ、ヨーロッパ(特に東ヨーロッパ)、ロシアなど、文字通り世界中を巡回して、病める者を癒し悪霊を追い出す万人単位の集会をしてきて、今や伝説的な人物になっていました。彼のメッセージは、50年前と全く変わらず、人々にイエス・キリストを説き続けていました。83歳の彼のメッセージは、文字通り火のようで、会場いっぱいの聴衆は、ただ圧倒されて聞き入ったのです。ただし、そのメッセージは、さすがに深みを帯びて、人々にキリストご自身を受け容れるように説くとともに、また神の「創造の働き」を重視するようになったという印象を受けました。わたしは、彼のメッセージを聴きながら、この50年間の自分の歩みを振り返って、自分の50年の歩みの意味を改めて反省させられたのです。

悪霊と悪魔
 ここで「悪霊」について、わたしなりに思うことを述べさせていただきます。わたしは、「悪霊」について語るのをあまり好みませんが、昨今、悪霊問題が、多くのクリスチャンたちに、様々な形で影響を与えて、このために信仰的に悩んだり、迷ったりしている人たちが多いのが分かってきました。「悪霊」という言葉は、注意して遣わなければなりません。
(1)オズボーンさんの場合もそうですが、病気癒しの祈りの場合には、「霊」という言葉がよく用いられます。今回のところでイエス様は、ペトロの姑から「熱の霊」を追い出しています。これが聾唖の人たちの場合には、口をきけなくしている「霊」に対して、あるいは耳を聞こえなくしている「霊」に向かって「出て行け」と祈ります。目を見えなくしている「霊」、癌の「霊」など、いろいろな病気の「霊」に対して、主イエスのみ名によって、癒しを祈るのです。これらは「病気の霊」です。病気は「悪い」ですから、これらは「悪い霊」です。しかしわたしはこれらを「悪霊」とは呼びません。悪霊(あくれい)は悪霊(あくりょう)にも通じますから簡単に言い換えてはいけません。
(2)さらに「鬱の霊」のように、精神的な病の場合にも「霊」という言い方をします。現代の医学では「○○症候群」と言うのでしょうが、このような精神的な病やいわゆる人格障害と呼ばれる人たちの場合に、これらを「悪霊」の働きだと判断する人たちがいるようです。しかしわたしは、このような場合を「悪霊」とは呼びません。なぜなら、精神的な病も病気と同じ「病気の霊」です。もしこれらが「悪霊」なら、精神病の人たちは、「悪霊患者」にされてしまいます。これは怖いことで、よほど注意しなければなりません。
(3)また病気ではありませんが、自分自身のストレスや罪の原因となっている「霊」もあります。「恐れの霊」「傲慢の霊」「憎しみの霊」「情欲の霊」なども、祈りの際に用いる言葉です。これらもまた、「悪霊」ではありません。人間の「肉の弱さ」とか「罪の力」とパウロが言うのはこういう場合だと思います。このように「病気の霊」や鬱や人格障害のような「精神的な病の霊」、さらにわたしたちに潜む「罪や弱さから来る霊」、これらを「悪霊」と呼んではいけません。それらは「悪い霊」には違いありませんが、わたしは「悪霊」という言葉をもっと限定された意味で遣います。
(4)もっとも、このような「悪い力」が、その人の内面で進行していくうちに、その人の人格それ自体を変えてしまう場合があります。こうなりますと、これは「悪霊」に近いと言えましょう。ギリシア語の「ダイモニオン」という言葉は、人間を超えた「力」、あるいは人間のコントロールを超えたところで人を操る力のことですが、これが「悪霊」と訳されています。ほんらいのギリシア語では、「ダイモニオン」は、善霊と悪霊の両方の意味に用いられました。
(5)このように、悪の力が「全人格的な」性質を帯びた場合に初めて、わたしはこれを「悪魔」あるいは「悪霊ども」と呼んでいます。「サタン」というのは、これら悪霊どもの頭だと言われています。この「悪魔」は、決して「病人」ではありません。ずる賢くて、知力があって、人を欺くことに巧みで、上辺は謙遜で、巧みに人を操ります。彼らはある意味できわめて正常です。わたしたちが一般に想像する「悪霊」とか「悪魔」というイメージから、およそかけ離れた人たちです。ナチスの高官たちの秘書を勤めて、彼らと一緒に暮らしたドイツ人の女性は、彼らが知的でユーモアがあって、立派な紳士たちだったと書いています。「悪魔」や「サタン」は、人格ですから、神性のペルソナを持つ「キリスト」と対立します。
 こういう「悪い霊」は、聖霊を宿す人を「見わける」ことがあります。昨年の夏、わたしたちコイノニア会の夏期集会へ来る途中で、ある姉妹がJRの嵯峨野線で体験したのもこの場合です。人間が、権力を握ると、「弱い人」ほど、自分に与えられた権力の味に溺れて、これに「取り憑かれる」ことがあります。こうなりますと彼は、恐ろしい圧制者や専制君主に変貌します。これも「悪霊」の働きでしょうが、ここまで来ると「悪魔」と呼んでもいいと思います。「悪魔」は、もはや人の力ではコントロールできない力、この意味で、人間の力を超えたある種の超人的な力です。通常の人には見分けがつかないのに、イエス様に向かって、「お前は神の聖者だ」とか「お前はメシアだ」と悪霊が叫んだのもこの理由からです。ですから「悪霊」「悪魔」「サタン」という言葉は、こういう限定された内容で遣ってください。彼らは、ヨハネ黙示録にでてくるような存在です(ヨハネ黙示録12章9節/第二テサロニケ2章4節以下)。
 キリストの御霊が強く働く時には、わたしたちの内部に潜んでいた様々な「罪の霊」が、ごまかしなくその正体を顕わしてくることがあります。これは決して「悪霊」ではありません。わたしたちは、自分に潜むこのような「罪の働き」に気づくと、ともすれば、これらを他人のせいにしたがります。あるいは、自分自身の罪であることが分かっても、それを「自分の力で」取り除こうと焦ったり、いら立ったりする傾向があります。そのような病気の霊や罪の霊に向かう時には、「自分の力に」頼ってはいけません。辛くても苦しくても、主様に委ねて、御霊の力、聖霊の力を信じてください。自分の力が抜けて、御霊の働きに委ねると、イエス様の御霊にある「神の力」が働きます。御霊は人間の悟らないところまで暴きますが、そうすることでこれを癒し、その罪を取り除くのです。イエス様の御霊は、裁くことによって赦します。顕わすことによって除きます。その裁きに己を委ねることによって救われます。人は自分が思いがけない罪人であることを発見して、思いがけない新たな自分を発見するのです。

病気癒しと神の国の教え
 注釈にあるように、マタイは、イエス様の宣教活動において、病の癒しと悪霊追放と福音することの三つを重ね合わせました。マタイはイエス様が、「御国の福音」を「諸会堂で教えた」と述べています。「諸会堂」とはユダヤ教の会堂を指しますが、同時に、マタイの教会もこれに重ねています。マタイに言わせると、イエス様は、「神の国」を「教えた」のです。マタイの言うイエス様の「神の国の教え」は、山上の教えとなり(5章~7章)、伝道への教えとなり(10章)、御国のたとえの教えとなって(13章)、マタイ福音書に記されています。しかし、マタイがここで「福音する」と言い、御国の福音を「教える」というのは、どのようなことを指すのでしょうか? マタイ福音書に記されたイエス様の「教え」だけを特に指すのでしょうか? マタイは、病の癒しと悪霊追放と御国の福音とを「重ね合わせている」と述べました。この三つが重なった福音を「教える」とは、どのような意味でしょう? 病の癒しや悪霊追放は、宣教の「力」にはなりますが、それだけでは「教え」にはなりません。人々は癒しを見たさに集まりますが、それだけでは御国の福音を「教える」ことにはならないのです。
 では、病の癒しや悪霊追放と御国の教えとは、どのようにつながるのでしょう。両者のつながりは簡単ではありませんが、どちらにも共通していることがあります。それは、どちらも人間が、「自分の力で」実現するものではないことです。癒しは、イエス様の御霊の働きがなければ、決して実現できません。もしもあなたが、病の癒しは自力で実現できないが、山上の教えは自力でもできる。こう考えるなら、それは大きな錯覚です。なぜなら、病の癒しも悪霊追放も御国の教えも、実現するためには祈りがなければならないからです。癒しも教えも祈りによって働くイエス様の御霊、すなわち神の力が働くことだからです。癒しと教えは、この点で共通します。
 ただし、癒しと御国の教えとの間には、異なるところがあります。病気や悪霊が、「悪い」ことなのは、信仰者でも不信仰者でも、だれでも分かることです。病気が治ることが「善いこと」なのは、人間に共通した認識ですから、このことの善悪に意見の食い違いはありません。もっとも、病気それ自体が「神からの祝福」だと考える人がいるなら、別ですが。
 ところが、御国の「教え」を実現しようとする場合には、事情が異なってきます。なぜならこの場合には、何が正しいのか、何が間違っているのか、その価値基準それ自体が、必ずしもはっきりしない場合が生じるからです。人を愛することは善いことです。人を憎むことは悪いことです。このことで意見が分かれることはありません。ところが、どうすれば人を愛することになるのか? 何をすれば人を憎んだことになるのか? こういう具体的な問題になると必ずしも意見は一致しません。かつてカナダで、キリスト教を信じないインディアンの両親たちから、子供たちを強制的に引き離して、キリスト教の教育を受けさせたことがあります。あなたはこれが、インディアンの親たちとその子供たちを愛することだと考えますか? インディアンの子供たちの病気を彼らの宗教に関わりなく癒してあげることは、「彼らにとって」善いことです。しかし、彼らの宗教を理由にして、その子供たちを親から引き離すことが、「彼らにとって」善いことであり、「神の国を教える」ことだとあなた思いますか? 
 偶像礼拝は悪であるから、偶像礼拝を止めさせることが善いことである。こう信じているキリスト教の伝道者や宣教師たちがいます。ところが日本には、彼らの言う「偶像礼拝」がいろいろな形で行なわれています。神社やお寺にお詣りするのは、多くの日本人の慣習です。またそこで行なわれる行事は、日本の文化の一部だと言えましょう。ところが彼らは、神社や寺院には「悪霊が住む」と考えて、これに関わるいっさいのことを否定するのです。それに、日本文化それ自体を「悪霊文化」だと見なしているとしか思えないような本や記事が出回っています。あなたはこれが、「日本人にとって」善いことであり、そのような「神の国の教え」は正しいと思いますか? 「日本人にとって」と言いましたが、そもそもインドであれ、中国であれ、インドネシアであれ、その国の宗教的な文化それ自体が「悪霊である」と判断すること、そのこと自体が根本的に正しいのかどうか、むしろそのほうが問題だとは考えませんか? ヨーロッパ中世の魔女狩りのように、悪人でない者を悪人呼ばわりするなら、呼ばわるその者が悪人だということになります。ここでは、何が正しくて、何が誤りなのか? 何が善いことで、何が悪いのか? 必ずしも一致しません。なぜなら、ここでは善悪を判断する価値基準そのものが問題になるからです。
 このように、病気が癒され悪霊が追放されることと、神の国を「教える」こととは、その善悪の判断基準において、必ずしも同じではありません。病気の場合は、どうすれば治るのか、すなわち、どうすれば善いことが実現して悪いことから免れることができるのか? これが問題になります。たとえ病気癒しの祈りに反対する医者でも、病気が治ることが善いと考える点では同じです。彼らは、その方法を問題にするのであって、癒されること自体の善悪を問題にするのではありません。ところが「神の国を教える」場合には、何が善いのか悪いのか、このことがまず問題になるのです。先にあげたのはやや極端な例ですが、信仰生活においては、これに似た出来事がいくらでも生じます。
 病や悪霊に対して祈る場合に、はたしてこの病気が悪いのか? それとも病気は神から与えられたものなのか? この点について、祈る本人に迷いがあれば、あるいは祈られる人に迷いがあれば、癒しは決して起こりません。だからオズボーンさんは、病気は悪であって、神は決して病気を与えないことを、御言葉に基づいてはっきりと断言するのです。けれども、御国の教えの場合には、このやり方は必ずしも正しいとは言えません。なぜなら、そこでは、何が正しいのか、何が善なのかが、一般論ではなく、その時、その場の、その人において、「個人的に」問題になるからです。新興宗教の教祖さんのように、強制的に一方的に命令するのであれが、本人に迷いは生じないでしょう。神のお告げとあれば、結婚相手でさえ迷わずに決まるからです。しかし、イエス様の自由の御霊の場合には、判断は最終的に本人に任せられます。だから迷いが生じるのです。またそのほうがいいのです。夫が仏教徒で仏壇を大事にするから、クリスチャンの妻はその夫から別れるべきかどうか、これを「迷わないで」決定するのは危険であり、誤りです。この場合は迷うほうが、そして時間をかけて祈るほうが、「正しい」のです。
 これが、癒しや悪霊追放と神の国の教えとが、根本的に違う点です。「正しいこと」を選び、「間違っていること」を避けるのは比較的易しいです。しかし、「信仰者にとっての最大の試練とは、何が正しくて、何が間違っているのか、その判断がその人の実存において決定できない時である」〔キェルケゴール〕ということが起こるのです。イエス様が、伝道の始めにおいて、そして十字架におかかりになる前に、サタンの試みに逢われたのはまさにこのことだったのです。
 病の癒しや悪霊追放を体験した霊能の人が、しばしば陥りやすい誤りがここにあります。霊能の人は、御国の教えを説く時に、はたしてそれが正しいのか間違っているのか、その価値基準それ自体を問題にしたり、自分の価値基準に疑問を抱くことを拒否する傾向があるからです。病気癒しと悪霊追放の時には、迷いがあってはなりません。しかし、御国の教えを一般論としてではなく、その時その場のその人に説く時には、はたしてそれが当人にとって本当に正しいのか? 善となるのか悪となるのか? この点を「正しく」見極めなければ、判断を下してならないのです。ここでは、自分の抱く価値基準自体が正しいかどうかではなく、自分の抱く価値基準に基づく「今の時の自分の」判断が、はたして「その人のために」正しいのかどうか、これが問題になるからです。
 聖書に基づいて病気が悪であると判断するのは正しいです。人間ならだれでもその判断が間違っているとは思いません。しかし、偶像に供えた食べ物を、その時その場のその人が、食べてもいいのか? いけないのか? どちらが正しいのか? これを判断する場合に、病気の善悪を判断する場合と同じ基準を聖書解釈に持ち込んではならないのです。イエス様の教えは「善悪を」判断するためのものです。しかしイエス様の教えは善悪を「判断する」ためのものでもあるのです。だから聖書は「譬」(たとえ)で語り、命令はせず悟らせるのです。「聞いて悟る者」は、実際に行なうことができるからです。聖書の教えは、教えを「実行する力」をも同時に与えるのです。霊能者が聖書に基づいて判断する時に陥りやすい誤りがこれです。オズボーンさんは、病気癒しと悪霊追放については、類いまれな優れた伝道者です。彼の聖書に対する信仰とこれを実行する姿勢には、ただ頭が下がります。しかし、日本人やアフリカ人やアジアの国々の人が、彼から神の国の教えを聞いても、いったいどのような場合に、どのような基準で物事を判断するのが正しいのか、これを彼から直接聞くことは「できない」のです。これは日本人であるわたしたちが、自分自身の祈りの中から、自分自身の霊性によって悟り、生み出し、創造しなければならないことだからです。この意味で、今回特にオズボーンさんが、「イエス様ご自身を求める」ことと、「創造する」ことについて語ったのは大事なことです。「霊感とはなにか?それは創造的な行為を促す力です。」“What is inspiration? It is to stimulate to a creative action.”こう彼は語りました。若い頃にオズボーンさんに出会ってから、今また彼に出会うまでの49年の間に、わたしがしてきたことは、このようにして、自分なりの聖書解釈を生み出すことだったのです。
知恵の御霊
 わたしたちが、日常の信仰生活の中で、善悪を判断する働きを身につけるためには、病気癒しのようないわゆる「霊能」の力ではなく、わたしたち自身に具わる霊知によらなければなりません。この霊知は、わたしたちの具体的な状況にあって、その時その場で「正しい」判断を下しますが、霊知を支えるのが、イエス・キリストの御霊です。この場合、善悪を一般論として語ってもあまり助けにはなりません。「総論賛成各論反対」という言葉がありますが、善を行ない悪を憎むことを一般論として語る限り、ほんとうの問題は見えてきません。ところが、ある具体的な状況の中で、ある特定の善いころを、あるいは悪いことを、「あなた個人のこと」に関して採り上げられると問題が生じるのです。このように、一般論は、ガイドラインにはなりますが、直接に助ける「力」にはならないのです。何が善いのか悪いのか? これの判断と同時に、判断した善を選び悪を避ける力は、「その時その場になって」初めて、ごまかしなく問われてくるからです。
 ここでは、信じるか信じないかではなく、「何を」信じるかなのです。何が善いか悪いかではなく。「あなたにとって」何が善いか悪いかなのです。御霊のこのように働きをわたしは「知恵の御霊」と呼んでいます。ここで言う「知恵」は、世間一般の「知恵」のことではありません。キリストにある霊的な知恵のことです。知恵の御霊はわたしたちの霊知に働きかけます。霊知はその人の人格の要(かなめ)ですから、知恵の御霊はその人に人格的に働きます。そして、その時その場で、何を言い何をするべきか、これを教えるのではなく与えるのです。
 知恵の御霊に支えられるこのような霊知が、特にその働きを必要とする大事な場合があります。聖書の御言葉を読む時と異なる宗教の人と接する時のこの二つの場合です。このような時に、霊知の働きが最もはっきりと現われます。なぜなら、ここには答えは存在しないからです。答えは創造されなければならないからです。
 第一の聖書を読む場合には、聖書の御言葉を一般論で読んではいけません。聖書は、その時その場で、あなた個人に人格的に語るからです。これが御霊にある聖書の読み方なのです。聖霊は一般論では働きません。聖霊は、その時その場でその人に、人格的に働くのです。一般論は、教義的な規範として、あるいは宗教的な制度として意味を持ちますが、それ以上のものを与えてはくれません。まして、その時その場であなたを支える力にはなりません。個々の具体的な判断は、一般論からではなく、その場のあなた自身に委ねられるからです。例えば、あなたは、道を歩いていて毒蛇に出会ったら、「毒蛇に咬まれても害を受けない」という聖書の言葉を信じて、その毒蛇を掴みますか? それともそこからそっと立ち去りますか? アメリカのある地方には、聖書の言葉を信じて(マルコ16章18節)、わざと毒蛇を掴んで、互いに回している人たちがいるそうです。しかし、もしわたしがそこで、その蛇に咬まれたら、確実に死ぬでしょう。これは極端な例ですが、聖書を読む時には、霊能よりも霊知が、力よりも「知恵の御霊」こそ大事なのです。
 第二の宗教的な寛容の場合には、異なる宗教を信じる人たちの間に何よりも交わりと和解が大事です。和解とは、特に宗教的な和解とは、人と人とが直に接し、人格的に出会う時に、初めて生じるものです。和解は「存在する」のではありません。「創り出される」のです。平和は存在するものではありません。創り出されるものなのです。霊知は日々新たに創造の業へと導く働きをします。御霊にあるイエス様をまだ御霊を知らない人に伝えることは、伝えるあなたの信仰を新たな啓示へと導きます。だからイエス様をまだ知らない人に、あるいは異なる宗教を信じる人に伝道することは伝道されることなのです。
 異言や預言や癒しなどのカリスマに引きずられてはいけません。カリスマを軽んじてもいけません。わたし自身は、霊力よりも「知恵の御霊」に導かれるほうを選びます。異言や預言や癒しなどのカリスマは、これらを通じて、イエス様の御臨在へと向かうために与えられているのです。イエス様の御霊の働きの「しるし」から、イエス様ご自身の人格的なペルソナの聖霊へと向かうこと。これが御霊と御子と御父のコイノニアの霊性です。オズボーンさんのようないわゆる霊能の人が、教えて「くれる」ことと「くれない」こととが、ここで分かれるのです。癒しや悪霊追放のいわゆる「霊能」は、霊力を伴います。しかし霊力は、それがどんなにすごい力でも、善と悪との価値それ自体が問われる時には、なにも教えてはくれないのです。この場合、己の霊能に頼るなら、逆に誤りを犯す危険に陥ります。聖書の御言葉を読む霊知と宗教的な寛容を創り出す霊知、この二つこそ、わたしが若い頃に出会ったオズボーンさんの伝道からこの方、50年の間探り求めてきたことです。その結果与えられたのが「知恵の御霊」です。わたしの場合、この知恵の御霊へ導かれたのは、ヨハネ福音書の研究を通じてでした。
 国家と個人との関係から、わたしたちの日常の人間関係にいたるまで、あらゆる場合に言えることですが、これらを一般論で語ることはできません。その時その場でその人が、自分の人格において、言い換えると自分の良心に基づいて、いかに考え、判断し、決定し、行動するのか。このことが問われるからです。イエス様の御霊は、個人個人に人格的に働く御霊です。なぜなら大事な場面では、わたしたちは全人格的な決定をしなければならないからです。この意味で、キリストの御霊は徹頭徹尾「民主的」です。一人一人が、自分に与えられた御霊に導かれて、判断し決心することが大事なのです。御霊による知識も同じです。霊的な知識は、すべての人に開かれていますから、これもまた「民主的」です。御霊にある霊知から出る知恵と知識は、霊能の人たちだけにではなく、イエス様を信じるすべての人に与えられるものですから、決して特定の人に独占されてはなりません(第一ヨハネ2章20~21節/同27節)。
   これこそ、旧約聖書で語られるヨセフの知恵であり(創世記42章以下)、ソロモン王の知恵であり(列王記上10章)、箴言やコヘレトの言葉で語られている知恵であり、ダニエル書や知恵の書にでてくる知恵です。パウロが「このキリストは、<わたしたちにとって>神の知恵となった」(第一コリント1章30節)と言う時の知恵がこれです。これは神から来る知恵なのです。
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