34章 中風患者の癒し
マタイ9章1〜8節/マルコ2章1〜12節/ルカ5章17〜26節

【聖句】
マルコ2章
1数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
3四人の男が中風の人を〔担いで〕運んで来た。
4しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は〔これで〕赦される」と言われた。
6ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた〔る〕。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11「わたしはあなたに言う。起き上がり〔なさい〕、床を担いで家に帰りなさい。」
12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

ルカ5章
17ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
18すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、
家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
19しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、
屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
20イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
21ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
22イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
25その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、
神を賛美しながら家に帰って行った。
26人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。
そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

マタイ9章
1イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。
2すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
3ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
4イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
5『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
6人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
7その人は起き上がり、家に帰って行った。
8群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。


【注釈】

【講話】
助けられた信仰
  この物語は信仰とはどういうものかを実によく表わしています。信仰は「行動する」ことです。中風で体を動かすことができない人を四人の友達が担架に乗せて運んできました。ところが、イエス様がメッセージを語っておられる家は人が一杯でとても入れません。しかし、彼らはそこで諦めなかった。外の階段を上がって屋上に出たのです。それから、なんと屋上の屋根を破った。家の人に後で文句を言われるとか、厄介なことになるとかは一切考えませんでした。その「時」を掴むこと、これが大事です。この中風患者は自分の信仰ではなく、友人の信仰に運ばれてきた。彼らは、とにかく「イエス様の前に」その患者をつり降ろしたのです。イエス様も周りの人たちもびっくりしたでしょう。でもイエス様は、怒らなかった。「彼らの」信仰を見た。患者の信仰ではありません。運んできた友人の信仰を「見た」のです。
 クリスチャンは、イエス様を通じて神により頼むように教えられます。だから、どうしてもイエス様と父なる神様だけに目を向けがちになります。ところが、あなたもわたしも、イエス様のところへ来て、イエス様を信じて、信仰生活を持続するためには、そもそもの初めから、誰かに御言葉を伝えてもらわなければなりません。つまり、今わたしたちが、信仰を保っていることができるのは、実に様々な人たちのおかげです。なにもかも神様のおかげだと言ってしまえばそれまでですが、「今あるは神のおかげ」は、同時に「今あるは人のおかげ」でもあるのです。神様は、ほとんどの場合、誰か人を通じてあなたに働きかけてくださいます。このことを深く心に刻んでおくなら、謙虚な気持ちにならざるをえなくなります。あなたのために尽くしてくださった方々は、おそらくそのことを覚えていないかもしれません。神様は、「人を介して」働いてくださる。だから、していただいたあなたは、神様と同時に、その人たちのことを忘れてはならないのです。
 ところで、イエス様の所へ人を連れてくるためには、いろんな障碍があります。第一に群衆が一杯います。ほかの人々が目に入ると、気後れがして直接イエス様の所へ行く前に止めてしまう。大事なことは、イエス様の所へ来ること。あなたが<直に>イエス様にぶつかるのです。第二に、屋根という障碍がある。イエス様の所へ行こうとしても、自分の心にはいろんなわだかまりがあって、なかなか素直になれない。自分の「心の屋根」です、自分自身の内にあるこの屋根を思い切って破ることです。もうどうなってもかまわない。とにかくイエス様の所へ行くんだという気構えと祈りです。すると、自分の内にある屋根が見えてきます。神と自分とを隔てていた「罪の屋根」が意識されてきます。屋根に気を取られていてはだめです。屋根の向こうにいるはずのイエス様を目指すのです。そうすれば屋根は自然と破れる。破れた自己からイエス様が見えます。これで問題解決に近づくのです。問題は病気ではない。問題の本質は自分自身です。あなたの問題は実は「あなた自身」です。これが問題の根源なのです。
癒しと救い
  この物語は、病の癒しと罪の赦しが一体となっているところが、実にすばらしいです。イエス様は、癒やされる「前に」、「あなたの罪はもう赦されている」と宣言された。ルカ福音書は実にはっきりこのことを示しています。「罪の赦し」が先行します。十字架の血による贖いと罪の赦し、これのほうが癒しよりもはるかに大事です。癒しはその結果です。それも結果のひとつに過ぎません。だから癒しは「赦されたしるし」なのです。罪とはあなたの存在そのもののこと、絶対的原罪の自己です。イエス様の前にでるとこの自己という罪が赦される。これが絶対恩寵です。これさえあればたとえ病の中でも賛美を続けることができます。小諸のママさんと一緒にいた人たちがそうでした。皆さんは、それぞれに病気を抱えておられました。救いは、けっして霊魂だけのことではない。私たちの身体、私たちの生活、これが全体として神様のみ手に支えられ、救われているのです。「救われる」と「癒される」とは同じことです。
 イザヤ書に「わたしたちは彼の受けた傷によって、癒された。」(53章5節)とあります。ここは、原初教会の人たちが、イエス様の十字架の意義を見いだした大事な章です。なぜなら、この「イエス様の受けた傷によって、わたしたちの傷が癒された」とあるのは、罪の赦しと癒しの根源を言い表わしているからです。わたしたちは誰でも心に傷を持っています。わたしにも傷があります。誰でも自分の傷は一番痛いと思うものですが、わたしの傷なんかたいしたことはない。もっともっと深い傷を負った人たちが世の中にはたくさんいます。しかし、人間の受ける傷をそのもっとも深いところで受けとめてくださったのがイエス様です。そのイエス様の傷から流れる血がわたしの罪を赦してくださる。わたしの傷を癒してくださる。
 でも、心の傷は体に現われます。あるいは行動に現われます。だからどこまでが心の傷で、どこからが体の傷なのか、必ずしもはっきりしません。でも、イエス様を信じてその御霊の働きを受けると嬉しくてたまらない。こういう御霊の働きと喜びです。これがわたしたちの心だけでなく体も元気づけてくれます。だから、心が癒されることが体の癒しにもつながるのです。御霊の癒しは根源的です。だからそれが体の癒しとなって現象することもあります。しかし現象しないこともあります。あるいはすぐには現象しないこともあります。でも、現象する、しないにあまりこだわらないほうがいいのです。するしないにかかわらず、イエス様を賛美し、御霊の喜びに満たされて生きる。これが大事です。癒しはそこから自ずと与えられてきます。しかし与えられなくても、それはそれでいいのです。それどころか、癒されなくても、主を賛美して喜びにあふれている。そんな人を見たら、わたしはただ主様の前にひれ伏します。そういう人の喜び、そういう人の言葉は、御霊が語らせる言葉ですから千鈞の重みがあります。
  現代でも、アメリカでも日本でも、さかんに癒しをおこなって、伝道の成果を上げている人たちがいます。しかし、御霊の賜物はどれもそうですが、必ずしもみんなに与えられるとは限りません。またその必要もないのです。癒しは、神様が、私たちの霊魂だけではなく私たちの肉体をも保ち助けてくださっていることを知らせるための「しるし」です。これを医療の代わりに役立てようとか利用しようしては「しるし」の本筋から離れます。わたしには癒しの賜物が与えられてはいませんが、それだからと言って、癒しをおこなう人を批判したり、癒しそのものに反対しません。その逆です。ああ、神様の働きはすばらしい。そう思います。すると自分にも癒しの力が働くから不思議です。ないからと言って、特に不満を感じません。与えられればそれは素晴らしいことです。体が弱った時や病気になった時には、どうか癒してくださいと祈ることができますから、有り難いことです。とにかく自分に与えられている信仰に感謝して満足しています。
  異言についても同じです。これが与えられるのはすばらしいです。しかし、異言の賜物を持たない人も大勢います。だからと言って、持たない人がそれだけ不十分だとは思いません。私の尊敬する20世紀の三人は、キング牧師(預言者)とマザー・テレサ(聖人)とガンジー(賢者)ですが、三人ともおそらく異言は語らなかったはずです。異言の賜物はすばらしい。与えられている人はどうかそれを役立ててください。しかし、与えられていなくても、それはそれでいいのです。異言は聖霊が働いている「しるし」ですから、語る人も語らない人もそのことを「知って」感謝すればいいのです。語る人が偉いのではない。語らない人がその分劣っているのでもない。だから、語る人は自由に語り、語らない人は語る人を批判しないで、感謝して、それぞれの信仰を保ち続けてください。自分の努力で語ろうとしてはいけません。しかし、祈っているうちに与えられたら、感謝して御霊の働きに委ねてください。語ろうとすることも、語るまいとすることも、どちらも人の思惑ですから、そういう思惑にとらわれないほうがいいです。御霊にあっては、自然が一番いいのです。
癒しを妨げるもの
  律法学者たちは、イエス様が、罪の赦しを与える神様の権限を侮ったと見なして、「神への冒涜」であると非難しました。罪の赦しと病の癒しが、このように人間の「宗教」や「思いこみ」から来る束縛によって妨げられる場合が現代でもあります。ここでは特に癒しについて、以下にその例をあげましょう。特に現代においては、足の萎えた人が「立って歩く」ことと「罪が赦される」こととは、イエス様の時代のように一つに結びついてはいません。病院へ行って、「罪が赦されたから病気が治った」と言っても現代医学の立場からは認められません。だから、病気が治ることを「罪の赦し」と呼ぶのは、ひとつの比喩的な言い方になるのです。逆に、「罪の赦し」という信仰の問題を神学的に解釈するならば、「立って歩く」肉体の癒しは、「罪の赦し」を象徴する比喩的な表現としてしか理解されません。このように、今回の中風患者の癒しでは、医学的な見方と霊的で信仰的な見方とが、イエス様の言葉を通してはっきりと対立する、すなわち「神癒」の問題を現代において問う最も適切な出来事であると言えましょう。なおここで語られている出来事が<イエス様が地上におられる間に>起こった出来事であることをここで確認しておいてください
(T)病気は神からの罰である。
A:こういう考え方は、旧約聖書の時代から現代まで続いている最も古い妨げです。もしも、病気が神からの罰であり、誰かの罪の結果であるとすれば、この「罰」や「罪」を取り除こうとすることは、神の御心に反することになります。罰を取り除くのは、「神様以外」の人にはできないからです。一般に祟りや災難は、これを降す当のそのカミ以外に、誰も助けることができないという信仰がどこの国でも昔からあります。そこから、悪を取り除いてもらうために逆に悪魔を拝む。災難の源となるものを恐れて拝むという宗教形態が生じることになります。ユダヤ教の場合は、その罰が「唯一の神」からなのでなおのこと律法的に厳しいのです。イエス様は、こういう懲罰的で律法的な宗教から、神による「罪の赦しの恵みと憐れみ」の福音へと根源的な転換を行われました。
B:病が人の罪に対する神からの罰であるという信仰とちょうど逆に、病や苦難は、神からの賜わった「恵み」であり「賜」であるという信仰があります。これは中世ヨーロッパの神秘思想に現われる考え方です。聖書にはイエス・キリストの名のために迫害や苦難を受ける例が出ています。しかしこの場合でさえも、「自ら進んで」迫害や苦難にあえて身を曝すことを勧めているのではありませんから注意してください。パウロが、たとえ自らの体を焼いても、愛がなければ空しいと言ったのはこのことです。ただし、ここでいう病や苦難は、これとは性質の異なるものです。(A)と(B)の考え方は、病は罪の結果なのか? それとも正しさの証明なのか? 正反対の見方です。しかしどちらも、病気の癒しを求める祈りそれ自体を不可能にする点で共通しています。
(U)新約聖書の癒しの時代はすでに終わった。
A:これも教会の中でよく聞かれる教えです。新約聖書は、イエス様の復活の後に降った聖霊の降臨で新しい時代を迎えたと教えています。この時代は現在でも続いていますから、癒しの時代が終わったという教えは誤りです。イエス様のみ名による癒しが現に起こっていることが、そのことの何よりの証拠です。
B:これとは逆に、病気が癒されないのは不信仰だという考え方があります。この教えは、病だけでなく、異言を語らないのは不信仰だという考え方と共通しています。病気にかかったのが罪のせいでないと同じように、これが癒されないのも不信仰のせいではありません。癒され「なければならない」という誤った教えから、必死になって癒しを「つかみ取ろう」とする努力が生まれます。これこそ、人を神様の恵みから「遠ざける」最も大きな妨げになります。
(V)神による病の癒しは現代医学に反する。
A:これは現代で、最も一般に見られる神癒反対論です。一見するとこの人たちは、科学と宗教とを対立させて、神癒は非科学的だから信じられないと主張しているように見えます。しかし実はそうではありません。なぜなら医者の中にも神癒を信じる人たち、あるいは神癒は医学と矛盾しないと考える人たちが多くいるからです。だから神癒を否定する医者は、ちょうど古代ギリシアの医術のアスクレピオス神の殿堂に仕える祭司のような人たちです。彼らにとって、病院は、医学の神の神殿であり聖堂なのです。そこで働く医者は、神殿の祭司で、患者は信者なのです。信者は祭司の権威に従い、彼の言うことに絶対的に服従しなければなりません。だから、彼らは病院以外の神を信じる宗教を認めることができないのです。
B:この立場はAとちょうど逆です。神癒を説く聖職者や伝道者の中には、病院や医療に頼ってはならないと教える人たちがいます。彼らは、信仰による祈り以外の方法に頼るのは不信仰であると教えるのです。しかし、もしも神が病を癒そうと望んでおられるのであれば、病院の医者たちも同じことを望んでいるのです。したがって、医者は神に逆らうどころか神の御心に沿ったことを行なっているのです。神癒の祈りと医学的な治療とは決して矛盾しません。どちらも神が人を助けるために備えてくださった方法だからです。

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