40章 十二人を選ぶ
マルコ3章13~19節/マタイ10章1~4節
ルカ6章12~16節
【聖句】

マルコ3章
13イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、
彼らはそばに集まって来た。
14そこで、十二人を任命し、彼らを自分のそばに置くため、
また、派遣して宣教させ、
15悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
16〔こうして十二人を任命された〕。シモンにはペトロという名を付けられた。
17ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、
すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
18アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、
アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
19それに、イスカリオテのユダ。
このユダがイエスを裏切ったのである。

マタイ10章
1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。
汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
2十二使徒の名は次のとおりである。
まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、
ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、
アルファイの子ヤコブとタダイ、
4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

ルカ6章
12そのころ、イエスは祈るために山に行き、
神に祈って夜を明かされた。
13朝になると弟子たちを呼び集め、
その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
14それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、
そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
15マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
16ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

【注釈】

【講話】

■福音を伝える召命
 先ず一番目に感じることは、これらの使徒たちは、イエス様によって選ばれたことです。自分たちからイエス様に伝道を申し出たのではない。イエス様からあなたは福音を伝えなさいと呼びかけられた。しかも、なぜ自分が選ばれたのか。どうしてなのかは一切説明がないのです。自分が伝道者の仕事をするのはなぜなのか? その理由は全く告げられないのです。どうしてこの自分が、こんなことのために選ばれたのかが分からない。とにかく選ばれた。福音の証し人になるというのは、こういうことです。

  二番目にここで分かることは、これらの使徒たちは、確かに兄弟や仕事仲間など、互いに関係があった人たちです。二人、三人の知り合い同士でイエス様に選ばれています。けれども、それらの知り合い同士でも、いろいろな性質や立場の違った人たちでした。漁師あり、税金取りあり、パウロのようにファリサイ派の知識人もいました。実にいろいろ様々な人たちがいました。
 大事なのは、選ばれる時にどういう関係にあったのかではありません。選ばれた後の歩みです。この人たちが、どのように証ししていったか、これが実に多様です。義人ヤコブのように律法に忠実な者あり、パウロのように律法の解釈が自由な者あり、ペトロのようにユダヤ人に福音を伝える者あり、アポロのように能弁で、ヘレニズム世界に福音を証しする者あり、トマスのように東へ向かってインドにいたる者あり、アンデレのように小アジアに向かう者ありです。
 三番目には、過去の歩みと選ばれた時ではなく、それ以後の歩みです。出発は同じでも、以後の歩みは全くそれぞれです。ヤコブのように早くに殉教する者あり、ヨハネのように長生きする者あり、西へ向かう者あれば、東へ赴く者あり、ピリポのように南へ降る者あれば、北はアナトリアまで上る者ありです。ペトロのように結婚する者あれば、パウロのように独身の者あり。伝道の仕方も、する対象となる人々も、その結果も実に様々です。このように、同じ召命に与っても、導かれていく人たちそれぞれによって、全く異なる歩みをしています。
 四番目に、では彼らはバラバラだったかと言えば決してそうではありません。パウロとペトロとヤコブは、それぞれ全く違っていました。まるで正反対の立場にいるように見えるほどです。律法に関しても生活についても神学においても、それぞれ違っています。ところが、それぞれがそれぞれに、ネットワークで結ばれていきます。不思議なつながりを保って、主の御業が進んでいくのです。これは驚くべきことです。違うのに互いに結ばれているという、不思議な関係です。「多様の中に一致あり、一致の中に多様あり」という言葉は、初代の弟子たちや使徒たちによって、ほんとうに実現されていたのです。これを超える人間関係は、現代でもまだ存在しません。主の御霊にある交わりの基本的な姿です。ひとりひとりでありながら、バラバラに歩んでいるようでありながら、実はそうではない。目に見えないところでつながっていた。ああ、そうだったのかと、だんだんと見えてきます。イエス様の御霊にあって見えてくる。これが聖霊の交わりです。御霊の赴くまま、風の吹くまま、人それぞれに主に用いられて、それぞれに歩むのです。しかもそれらが、不思議なところでつながっていくという歩みです。
 例えば、66巻の旧新約聖書を考えてみも、一人一人の文書の著者たちは、おたがいにほとんど知らなかった人たちです。創世記を書いた人たちとヨハネ黙示録を書いた人とは、何百年も離れています。だから、一人一人がそれぞれに、自分の生き方で神の御霊に従った。ところが、その結果が集められると、そこに不思議なつながりができてくるのです。これは人間がやろうとしてできることではありません。
■知られざる使徒たち

 五番目に、この十二使徒のリストを調べながら、つくづく思うことがありますペトロやヤコブやヨハネのような代表的な使徒たちは、その行なったことが、福音書に記され、後の教会に覚えられ伝えられています。ところがそれ以外の使徒たちが行なったことは、ほとんど何も語られていません。ただ名前だけが残っている使徒たちもいます。けれども、名前だけしか残っていない使徒たちも、やはり、ペトロやヤコブやヨハネと同じように、イエス・キリストのために命をかけて福音を証しして、殉教していったと伝えられています。それらについて、いろいろ伝承がありますが、確かなことは何も知られていません。
 使徒のリストにある人たちは、信仰深い立派な人たちで、さぞかし業績を上げた人たちの名前が並んでいると思うかもしれませんが、実はそうではなくて、ただ名前だけが残っているのです。実際何をしたのか、どういう殉教の仕方をしたのか、ほとんど知られていません。これは不思議です。しかも、これらの使徒たちの周辺には、これまた名前さえ残さなかった、無数のキリスト者たちがいたのです。彼らも同じように命がけで福音を伝え、同じように殉教していった。そういう無名戦士が、おびただしくいるのです。
 このように読みますと、使徒のこのリストは、偉い有名人のリストではない。逆に、名も知られず、何をしたかも知られないままに、いかに多くの人たちが、イエス様のために命をかけていったのか。このことを伝えるためのリストではないかと思えてきます。彼らこそ、ほんとうの福音の証人です。彼らは、自分の名を残そうとか、自分の業績を誇ろうとか、そういうことは全く考えないで、イエス・キリストを伝え、その証しをする、ただその一事のために、命をかけたのです。これがほんとうに「永遠の命」を知った人のやることでしょう。自分の一切をイエス・キリストのために喜んで捨てる。これこそがほんとうにキリスト者の証しです。なかなかここまでは来れませんが、聖書が証しする永遠の命とはこういうものなのでしょう。たとえ今死んでも、自分にはなくならないものがある。このことを知った人は、自分の名前が残るかどうか。やったことが残るか。そんなことは、なんにも考えないのです。ただ、主様のために命をかけていく。ただ、その日一日を主様に委ねきって歩む。これあるのみです。
 川口愛子先生、通称小諸のママさんとその養女真理子さんが、自分たちは雑巾みたいにこき使われて、死んでいくのだと言っていました。しかし、あそこには確かに愛と信仰と希望がありました。三つとも目に見えず、形に残らない。あの方々が、そういうことをできたのは、こういうイエス様を信じていた。信じることができた、と言うよりも悟って知っていたのです。死んでもなくならない命があると、示されて分かっていた。だからああいうことができたのでしょう。これが、御霊にある永遠の命です。
 マザーテレサとマーティン・ルーサー・キング牧師とは、片やカトリック、片やプロテスタントで、生まれ育った環境も、召された場所も奉仕した状況も、またその奉仕の内容も全く異なっています。にもかかわらず、二人は、どちらも立派な主の僕であり、大きな働きをして用いられました。これらの人を英雄としてあげているのではありません。名も知れない人たちも、全く彼らと同じです。だから人と比べあって、ああだこうだと言っているうちはダメで、そんなことをしているうちは、ほんとうに大事なものが見えていないのです。
 たとえ今ここで自分が死んでも、なくならないものがあるということを分からないながらも霊知すること。これが分かればすごいです。自分の命はイエス様だ。これが分かること。信仰と希望と愛が一つになって見えてくること、でもこれがなかなか分かりません。この世の欲や思い煩いが来るから、なかなか分かりません。でも、人生はこのためにあると思うのです。だから大丈夫。主様はわたしたちを用いて、なすべきことをちゃんと成就させてくださいます。だから、心静かに、自分の道を御霊に預けてください。「人の歩みは主によって定められる。主はその道を喜ばれる」とあるとおりです。
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