45章 世の光
マタイ5章14〜16節/同6章22〜23節
ルカ8章16〜18節/同11章33〜36節
マルコ4章21〜23

【聖句】
■イエス様語録
1だれもともし火をともしたなら、
それを(升の下に置いて)覆い隠したりはしないで、燭台の上に置く。
そうすれば、家の中の者すべてを照らす。
2体のともし火は目である。
あなたの目が澄んでいれば、あなたの全身が輝くが
あなたの目が悪ければ、あなたの全身が暗い。
3だから、あなたの中にある光が暗ければ、
その暗さはどれほどであろう。

■マタイ5
14「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

同6章
22「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

■ルカ8章
16「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
17隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
18だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

同11章
33「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
34あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいる時は、あなたの全身が明るいが、濁っている時は、体も暗い。
35だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
36あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

■マルコ 4章
21また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。
燭台の上に置くためではないか。
22隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
23聞く耳のある者は聞きなさい。」

■ヨハネ 8章
12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

【注釈】

                      【講話】
■マタイ福音書の「灯火」
  今回はマタイ5章14〜16節から始めることにします。マタイは、前回お話ししたように、人々の前に「よい行い」を現すようにと灯火の譬をここへ置いています。光はどの宗教でも、最も普遍的な真理の象徴です。旧約では、創世記で創造の初めに光が顕われます。これは神様のお働き、と言うよりも、「神ご自身」の啓示です。「光」は、そこから、神の住まいである神殿へ、神殿のあるエルサレムへ、神の教えとしての律法へ、神の人たちへ、そして律法の教師さえへと注がれるようになりました。わたしは、旧約の「灯火」の表象として、第一に「神の御言葉」をあげたいと思います(詩編119篇105節/130節)。神様の御言葉こそ、人を導く灯火のたとえに最もふさわしいからです。マタイ福音書はここで、特に新約の光、すなわちイエス・キリストを指しています。この光が、イザヤの預言した「異邦人を照らす啓示の光」であったからです(イザヤ60章1節/マタイ4章16節)。
  ただし、ここで「灯火」と訳されているのは、光それ自体のことではなく、粘土で造った小さなオイルランプのことで、油をいっぱい入れて芯に火を灯すものです。ローマの郊外にあるカタコンベを訪れると、真っ暗な墓地の洞窟の中に小さな粘土器のランプのかけらがおいてあります。オイルランプは、花婿を待つ5人の賢い乙女のたとえ(マタイ25章)にもでてきます。聖書で油は聖霊を意味しますから、オイルランプは、小さくてもキリストの御霊を宿すわたしたち一人一人のことです。「人々の見ている前」とは「公(おおやけ)」のことです。イエス様の御霊を宿す者となった時から、わたしたちは、自分だけのものではなくなります。聖霊の働きは、つねに共同体的な性質を持っていますから、御霊にあるクリスチャンは「公人」です。
 「升」とあるのは、穀物類を量る時に用いるもので、これは灯火を消すためにも使われました。だから、ここでは、明かりを「灯す」ことと「消す」こと、人々の前に「表す」ことと「隠す」こと、この二組の対照が重ねられています。消すために灯をともす人はいません。隠すためにともす人もいません。だから、自分で意識しなくても、御霊の油を宿す人は、小さくても明かりをともしているのです。どんなに小さくても灯し続けるのが大事です。そうすれば、きっとその灯火は人々を照らします。しかも「すべての人」をです。光は人を区別しませんから。どんな人でも照らされます。
  マタイ福音書はこの灯が「家の中のものすべてを照らす」と言います。小さなランプで家の中をすべて照らすのはおかしいと思うかもしれませんが、パレスチナの貧しい家は、ほとんど一部屋ですから、ここでの「家」は「部屋」と読み替えてください。ちょっとした明かりでも、部屋全体が映し出されて何がどこにあるかが分かります。だから、光は大きい小さいが問題ではない。光が「あるかないか」が問題なのです。一隅を照らす光でも、あれば、それで何とか見えます。マタイ福音書言う「家」とは、ただ建物のことではありません。それはイスラエルの「家」、家族としての集会のことです。集会は「家族」であり、「家」にたとえられます。イエス様の御霊が宿ると家の中がはっきりと見えてくる。光はごまかしがきかないから、全部あるがままで見えてきます。「あるがまま」では困る。もっときれいに見えてほしいと思うかもしれませんが、灯火の光はただ「あるがまま」に照らし出すのです。しかも、「家の中のすべて」をです。
■ルカ福音書のたとえ
 イエス様が灯火をともして、人々を照らすと何が起こるのでしょう? これをルカ福音書から見ます。御霊を体験した人は、これを知らない人たちに何とかして分け与えたいと願うようになります。わたしたちコイノニア会の集会はミニですけれども、イエス様の福音を証ししよう、「外の人たち」に伝えよう。そう願っている人たちがおられます。一人でも、二人でも、とにかく集まって、主様の御霊にある交わりを続けるのです。明かりを灯し続けるのです。大きいか小さいかは問題でない。灯火があるかないかが問題なのです。ただし照らすのは光のほうでランプではありません。人々は光のほうを見てくれればいいので、ランプのほうではありません。あまり立派なランプだと、そちらのほうに目移りがして、肝心の光のほうがおろそかになります。
 ルカ福音書はさらに続けます。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(ルカ8章18節)。マルコ福音書のほうは、「何を」聞くのか? ですが、ルカ福音書は「どのように」聞くのか?です。神様のお言葉を聞く、その聞き方です。御霊のお言葉は「今の時に」働きます。だから聞くほうも今の時に聞かなければなりません。せっかくお言葉を聞きながら、「この集会が済んだら何をしようか」などと、ほかのことを考えている人たちは、今の大事な時を失うのです。聞いている御言葉も風のように通り過ぎます。聞いているその時に、神様が自分にお語りくださっている。こう信じて聴く人が<今の時>を活かすのです。そういう人たちには、「今の自分に」御言葉が「働いて」くださる。「今の自分」は、ただ座っている自分のことではない。そこに「わたしの現在の」全部があるのです。神様のお言葉は、「今この時に、このわたしに」語られる。これが、神からの御霊の御言葉です。
 イエス様の在世当時、その語る御言葉は人々から隠されていました。しかしイエス様が十字架にかかられて復活され、聖霊が降って御霊が働き出すと、語られる御言葉が人々に「啓(ひら)かれて」きます。聖書の御言葉を聴く時には、「どう聞くのか?」その聞き方、読み方に注意してください。聴く人には、どんどん与えられます。聴かない人には、何にも聞こえないのです。逆に、自分は知っている、分かっていると思いこんでいると、いつの間にか、与えられていたものまで失います。「持っていると思うものまで」とあるのはこの意味です。長年聖書のお言葉を聞いていると、自分はもう分かっていると思いこんでしまいますから、注意して聴こうとしなくなります。気がつくと、霊的に貧しくなっています。聖書の御言葉は、自分の思いや考えでなく、主様の聖霊に導かれて、祈り求めながら読んでください。どうかこのわたしに分からせてくださいと祈りながら読んでください。その祈りが御霊の働きなのです。これを「霊読」と言います。霊読し身読してください。「目を通す」のではない。味わって食べてください。聖餐のパンのように、「御言葉を食べる」のです(ヨハネ6章53節)。
  「終末には、すべてが明るみに出されて、人々は正しい裁きを受ける」とありますが、実は主様の聖霊のお働きは、すでに終末をこの今の時に来たらせます。「み国が来ますように」と祈るのはこの意味です。いつかそのうちに神様の国が来るだろうということではなく、今この時に、自分の内に御国を来たらせてくださいという祈りです。光に照らされると自分の悪いところが露わにされて怖いと思うかもしれませんが、実はそうではないのです。悪いところが示されるのは、照らされるからですが、照らされたものは、取り除かれる。その罪が赦されるのです。これを御霊に「照破される」と言います。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」(エフェソ5章13〜14節)。
 イエス様の光は赦しの光、恵みの光ですから、あるがままそのままでいいのです。そのまま主様の御霊の光の内にとどまると不思議に光に包まれます。でもこれがなかなかやれません。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」からです。ところが「真理を行う者は、光の方に来る。そのおこないが神に導かれてなされたということが明らかになる」(ヨハネ3章20〜21節)のです。自分は悪い、弱い、だめだ、こう思う人たちこそ、イエス様の御霊の導きにあずかるのにふさわしいのです。「幸いな人」のところで見たように、貧しい人たちや飢えた人たちこそ、イエス様と共にいると不思議に満たされて喜びに輝くのですから。だから、あるがままでイエス様のみもとに来る。あるがままで御霊に照らされるといろんなことが露わになります。それでいいのです。小さいミニ集会でも、あるがままで照らされると、そこに天国が霊現して、家の中にいる人をすべて照らしてくださるのです。一人一人の個性・霊性がはっきりしてきます。楽しいです。いろいろあっても御霊は一つですから、違ったままで全体が、イエス様によって天国の光に変わるから不思議です。
■世の光イエス様
 ルカ8章16節は、そのまま11章33節でも繰り返されていますが、そこでルカ福音書は、直前にソロモン王の知恵と海の底から復活したヨナの話を置いています。イスラエルの伝統的な「知恵」と旧約からの復活伝承に続けて、それらより「もっと大いなる存在がある」というのです(ルカ11章31節)。「大いなるもの」は「大きな存在」とも読めるし「偉大な人物」とも読めますが、イエス様を指します。続けて灯火のたとえがでていますから、光とはイエス様ご自身のことで、「わたしは世の光である」(ヨハネ8章12節)と言われるとおりです。先には御言葉の聞き方が問題でしたが、ここではイエス様をどう見るのか? その見方が問われることになります。
 ルカ福音書では、続けて、「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とあります。「体」とはその人の存在全部を表す言い方であり、眼(まなこ)には、その人の全人格が現われます。御霊の宿りに満たされると、眼もはっきりと「啓(ひら)かれ」ますから、目が明るいと、その人の全存在が明るいのです。目が暗いと、その全存在も暗いことになります。イエス様の御霊から発する光に照らされると、わたしたちも澄んだ正しい目でイエス様を観るようになりますが、「悪い世の中」(ルカ11章29節)にいると、いつの間にか目が濁ってしまって、よく見えません。特に「おごり高ぶる目」(箴言6章17節)というのがあって、こういう目の人は、イエス様に出会ってもなんにも見えません。続く36節の意味は、イエス様がお語りになったアラム語をギリシア語に訳したためにわかりにくくなっていると言われています。「しかしながら、あなたの全存在がイエス様の灯火に照らされて、少しも暗いところがなくなれば、あなたの周囲までも、すべてが明るくなる。ちょうど、灯火があなたに向かって輝いている時のように」という意味です。
 ルカ8章のほうは、灯火「で」見るので、その光で周りが見えます。でも11章のほうは違います。ここでは灯火「を」見るのです。周囲を見ないで、目をイエス様のほうに向ける。すると御霊の働きで心が照らされます。「照らされる」の英語はilluminatedで、これは「啓発される」「啓蒙される」という意味です。イエス様の御霊に触れて啓発されるといろんなことが見えてきますところが、そこでイエス様から目を離して自分の周囲に目を向けるとなんだか自分一人が偉くなったような気持ちになるから、つい人を裁いたり、批判したり、非難したりします。れでは自分の「周囲は」明るくなりません。自分がランプ台だということを忘れて、自分が光だと思いこんでしまうと、自分ひとりが輝いているように見えて、周りは真っ暗に見えるのです。だからルカ福音書はイエス様のほうに目を向けなさいと言うです。イエス様のほうに目を向けると、逆に自分の誤りが見えてきます。そこで、ああ、やっぱり自分はだめなんだと分かります。周りを明るくしたければ、イエス様に目を留めて歩むことが大切です。「汝のみ言葉は、わが足の灯火、我が路の光なり」(詩編119105)です。
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