183章 忠実な僕と悪い僕
マタイ24章45〜51節/ルカ12章41〜48節
■イエス様語録(Q12:42〜46)
 忠実で賢明な僕は誰だろうか、主(あるじ)が任命してその家の召使いたちの上に立て、適宜な時に彼らに食事させるような者は? 幸いだ、自分の主(あるじ)が帰ってきて、そのように行なっているのを見られる僕は。アーメン、わたしはあなたがたに言う。主(あるじ)は、自分の財産全部を彼に委ねるだろう。
 しかし、もしもその僕が、その心で、自分の主(あるじ)が遅れると思い、仲間の僕たちを叩き始めたり、酔っ払いどもと食べたり飲んだりしたなら、その僕の主(あるじ)が思いがけない日の予期しない時刻に来て、彼をさんざん打ちのめして、不忠実な者と同じ報いに遭わせるだろう。
■マタイ24章
45「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
46主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
47はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
48しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
49仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
50もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、
51彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
■ルカ12章
41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人はいったいだれだろうか。
43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
【注釈】
【講話】
■再臨の遅延
 今回の譬えは、教会の指導者たちに宛てて語られているという印象を受けます。しかし、その実、イエス様は、このたとえをすべての信仰者たちに向けて語られたと考えられます〔ルツ著『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』(3)553頁〕。今回の譬えは、人の子イエス様の「再臨の遅延」がテーマです。イエス様の訪れが、夜間の四つの「見張りの時刻」のどの刻なのか分からないとありますが(ルカ12章38節)、古代の教父たちは、「夜間の四つの刻」を、幼年から老年にいたるまでの人生の四つの時期にあてはめたり、「食物の配分」を、神の言葉が適切な時期に配分されることだと解釈したりしました。神は人を平等に扱うが、人に与えられている能力は平等ではないと言われます。主イエスのエクレシアにおいても、同じことが言えます。多く与えられている者には、それだけ、神の言葉を分配する大きな責任が課せられていることになります。
■教会の堕落
 「終末」とか「人の子の再臨」などは、現在のキリスト教において、それほど重要でない。こう思っている人は、今回のイエス様の譬えに耳を傾けるべきです。なぜなら、古来、キリスト教会の堕落は、今回語られているように、イエス・キリストの再臨の遅延と深く関係しているからです。教会は、終末への展望を見失うにつれて、そのモラルが低下するというのが、古来変わらないようです。
 16〜17世紀の宗教改革の時代では、教会の堕落とは、善い業を怠ること、あるいは、情欲や肉欲に溺れること、あるいは、日常生活に心を奪われて、主を待ち望む展望を見失うこと、などがあげられました。再臨の遅延に伴って、「信者はやる気をなくし、牧者たちは特権意識に浸る」のです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)243頁〕。
 こうして、始めは善かった僕が、悪い僕に堕落することになります。下っ端の奴隷が、仲間の奴隷たちの「上に立つ」ことができたとたんに、自分もかつては同じ奴隷にすぎなかったことを忘れて、かつての仲間たちを叩いたり、主人並みに飲んだり食べたりし始める例は古代からよく知られています。下っ端役人が、自分の手下を乱暴に扱うのは、江戸時代でも現在でも変わりません。「細切れにされる」という恐ろしい処罰は、こういう者たちのために用意されている罰です。
■目覚めていること
 だから、「目覚めている」とは、自分のかつての有り様を忘れないことであり、そうすることで「仲間を大事にする」ことです。これは、教会の指導者たちだけでなく、「すべての」イエス様の弟子たちに向けられた戒めで、今回のルカ福音書の冒頭でのペトロの質問は、読者にこのことを伝えています。
 では、いったい、何に対して「目覚めて」いなければならないのでしょうか。「再臨(パルーシア)に向けて目覚めていなさい」というのが、今回のイエス様の御言葉です。しかし、わたしたちには、イエス様の将来の再臨の前に、<すでに>起こったイエス様のもう一つの「パルーシア」(来臨)を思い起こす必要があります。イエス様はすでに来臨して、十字架と復活の御業を通じて、父から、イエス様の御名による聖霊をわたしたちに遣わしておられるからです。この来臨によって、わたしたちには、イエス様にある新しい「永遠の命」が、すでに授与されています。イエス様の御霊にある御臨在によって、その命の働きが「すでに始まっている」こと、わたしたちは、「この事実」を忘れないようにしなければなりません。「目覚めている」とは、眠い目をこすって、何時か?何時か?と待ちくたびれることではありません。「目覚めている」とは、すでに起こったイエス様の出来事を「今の時に思い起こす」ことであり、そうすることで、わたしたちに与えられている驚くべき主の御業を「今日も生きる」ことにほかならないからです。今の時に現臨する終末を悟ること、これこそ、イエス様を見失わないよう「目覚めている」確かな道です。
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