184章 10人の乙女たち
マタイ25章1〜13節
■マタイ25章
1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。
5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
【注釈】
【講話】
■東西の愚かと賢さ
 今回のたとえ話には、愚かな乙女たちと賢い乙女たちがでてきます。「愚かさと賢さ」は、古今東西、どの国や民族でも言い伝えられていますが、イスラエルの「賢愚」の切り分けは、ことのほか鋭いという印象を受けます。それは、この問題が、人の生存と滅亡にかかわるからでしょう。生存すること、どこまでも「生きる」こと、これが、ほんとうの意味での「賢さ」につながるからです。逆に言えば、「愚か」は、「死と消滅」につながるのです。イスラエルの人が、賢愚をことのほか鋭くとらえるのは、愚かさが死に直結し、賢さが生存に直結するというごまかしの効かない体験を経ているからです。それも、個人の生き死にではなく、民族全体の生き死にと結びつく厳しい歴史を生き抜いてきたからです。イエス様が、「神は死者の神でなく、生きている者の神である」(マタイ22章32節)と言われたのは、ノアのように、神と共に生きることこそが、真の意味の「賢さ」(智慧)だからでしょう。
 仏教でも、浄土真宗の仏典に「智慧の光明はかりなし」で始まる一文があります。地獄の暗黒を打破するのは「智慧光仏」の力です。しかし、仏教の「智慧」は、聖書の言う智慧とは少し意味が異なるようで、「雪山に住む者という神霊がいった、『かれは明知を具えているだろうか?彼の行いは全く清らかであろうか?かれの煩悩の汚れは消滅しているであろうか?かれはもはや再び世に生まれるということがないであろうか?』」〔『ブッダのことば』(162)中村元訳(岩波文庫)〕とあるように、「智慧」は、人をして、この世への生まれ変わりを避けて解脱の道へ導くものです。この世を去って、あの世で極楽浄土へ成仏することが、「智慧の光明」の導きなのでしょう。
 儒教の「智慧」も仏教のそれと違っています。以下は、孔子の『論語』からの引用です。
「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。これ知るなり。」(為政第二の17)
「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。」(理仁第四の4)
「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」(子罕第九の30)
               〔金谷治訳注『論語』(岩波文庫)〕
 これで見ると、孔子の説く「知者」とは、仁(じん)を尊び、迷うことなく、人を見る目を持ち、無駄なことを言わず、~霊には近づかず、遠くから敬するに留める人です。こういう智慧の有り様は、この世を生きるための知恵ですから、「人を知り、己を知る」と言われるソクラテスの智慧に近いようです。仏教の知恵は、来世への解脱を求める知恵であり、儒教の知恵は、どちらかと言えば、この世の為政者たちのための知恵であり、旧約聖書の知恵は、神の霊によってこの世を正しく生きる知恵であるのに対して、新約聖書の知恵は、イエス・キリストの十字架の秘義を悟り、父が御子を通してお遣わしくださる聖霊に導かれる知恵です(第一コリント2章6〜16節/第一ヨハネ2章27節)。
■愚かな乙女たちとは?
 いったい、「愚かな乙女たち」とは、どういう人たちのことでしょうか? キリスト教を信じない人たちのことだ、あるいは、教会の奉仕に熱心でない人たちのことだと考えるのは、いささか見当違いでしょう。イエス様の話にでてくる「毒麦」(マタイ13章25節)にあたる人のことか?とも考えられますが、愚かな乙女たちは、少なくともある程度は、「ともし火」をともして花婿に付き添うことができる人たちですから、毒麦と一緒にするわけにいかないでしょう。賢い乙女たちのほうにも謎があります。これを「イエス様の聖霊を宿して目覚めている」キリスト教徒のことだと解釈するのは誤りでないでしょう。しかし、彼女たちも、再臨の遅延に堪えかねて、一時は眠り込んでしまいますから、「聖霊を宿しながら眠り込む」というのは、どういう状態を指すのだろう?と考え込んでしまいます。霊的な出来事を表わす「譬え」の解釈では、あまり細部にまでこだわらないほうがいいと云いますから、今回の譬えも、細部まで首尾一貫させようとせずに、総合的に考えるほうがいいでしょう。
■人の思いと神の時
 前回の「善い僕と悪い僕」の話では、主(あるじ)の帰還が遅れると思い込んで失敗する例でしたが、今回は、逆に、「そんなに遅れる」とは思わなかった乙女たちの失敗です。一見、逆のことを言っているようですが、よく考えると同じことです。特に、「終末が間近だ」と騒ぎ立てるような時には、今回の譬えが大事です。花婿の再臨が予期しないほど遅れたとあるのは、「自分たちの信仰が働いているうちに再臨が起こる」と勝手に信じ込んでいる人々への警告です。「自分の油」があるうちに再臨が起こると、勝手に決めてはなりません。そうではなく、人々の信仰が失われて、「復活もなければ再臨も起こらない」と人々が思い始めて、みんな眠り込んでしまう。こういう時代になったら、人々が全く思いもかけなかった時に、突然、「花婿の到着だ」という叫びが天から響く、ということが起こるのです。人間の計算と神様の時、この両者の食い違いは、それほど大きいのです。しかも、終末の到来は、悲しみと裁きと恐怖の時ではない。それは、花嫁が花婿を迎える「喜びの時」だということを忘れないでください。
■今の時を終末的に
 今回も、話の最後に、「目を覚ましていなさい」とあるのに注意してください。わたしたちは、終末と主の再臨を「未来の時のこと」だと考えてはなりません。イエス様の再臨は、<すでに起こった>イエス様の来臨と不可分一体です。復活して今も生きておられる「あの主様」と今日も「共に歩む」、ナザレのイエス様と共に歩む日々、主様にあって働いていた霊性が、御霊となって、今は、わたしたちのうちに働いてくださっている。この現在を日々歩むことこそが、わたしたちにもできる「終末を今に生きる」ことです。エノクもノアもエリヤも、預言者たちも、パウロも、アッシジのフランシスも、キング牧師もマザー・テレサも、「ママさん」と呼ばれた小諸の川口愛子先生も、皆、こういう信仰生活を最後まで歩み続けた方々です。
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