185章 タラントンのたとえ
  マルコ13章34節/マタイ章25章14〜30節/ルカ19章11〜27節
■イエス様語録
 ある人が旅に出るにあたり、自分の僕(しもべ)十人を呼んで、彼らに10ムナずつ与えて言った。「わたしが戻るまで商売をしなさい。」長い期間を経てから、主人が帰ってきて、彼らと決済を始めた。最初の者が来て主人に言った。「ご主人様、あなたのムナで、さらに10ムナ儲けました。」すると(主人は)彼に言った。「よくやった、良い僕よ。少しのものに忠実だったから、多くのものを任せよう。」2番目の者が来て言った。「ご主人様、あなたのムナで5ムナ儲けました。」彼に言った。「よくやった、良い僕よ。あなたに多くを任せよう。」すると、もう一人の者が来て言った。「ご主人様、あなたは厳しい方だと存じています。蒔かなかったところから刈り取り、唐箕(とうみ)にかけなかったところから収穫を集める方です。それで、怖くなって、あなたのムナを地面に隠しておきました。さあ、ご自分のものをお受け取りください。」主人は答えて、彼に言った。「悪い僕よ、わたしが、蒔かなかったところから刈り取り、唐箕にかけなかったところから収穫を集めると知っていたのか。それならお前は、わたしの金を両替屋に投資すべきだった!そうすれば、わたしが戻ったとき、自分のものを利子をつけて受け取れたのに。さあ、そのムナを彼から取り上げて、10ムナを持つ者に与えよ。だから、誰でも持つ者には与えられ、持たない者からは、その持っている分も彼から取り上げられる。」
■マルコ13章
34それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
■マタイ25章
14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
■ルカ19章
11人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
12イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。
13そこで彼は、十人の僕を呼んで一ムナの金(かね)を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
14しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
15さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金(かね)を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
16最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
17主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』
18二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
20また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
21あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
22主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
23ではなぜ、わたしの金(かね)を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
24そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
25僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
26主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
27ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
                         【注釈】
                         【講話】
 今回の譬え物語は、イエス様がお語りなった後でも、口頭の伝承の段階から、すでにいろいろな解釈が入り込んで、それらがイエス様語録へ、そこから、さらにマタイとルカへ受け継がれて、そこでも編集を加えられます。この物語は、それ以後も様々な変容を受けて伝えられていることが分かっています。だから、イエス様語録の復元も一様ではありません。
 マタイ福音書は、「主人と共に喜ぶ」とあるように、終末でのメシアの宴会の喜びを加えることで、終末を強調しています。マタイ福音書は、当時(80年代)の教会を念頭に置いているのでしょう。おそらく、マタイは、一世紀末の当時の教会の指導者たち、とりわけ、御言葉をただ語るだけで、自分は何もしない「怠け者」の指導者たちを厳しく批判していると思います。ルカ福音書のほうも、同じく90年代の教会を念頭に置いていますが、ルカは、神からの聖霊の賜が、教会のメンバーに平等に与えられていると考えて、その後の精進と努力次第で、結果が大きく分かれることを言おうとしています。
 しかし、イエス様のほんらいの話は、御国の到来の時に授かる神からの「報い」を前提にしてはいますが、以後の教会の信徒の有り様や、聖霊の賜のことではなく、イエス様の話を聞いている一人一人が、神からそれぞれに授けられた立場や能力に応じて、神を信じて疑わず、精一杯やりなさいと語られたのでしょう。人には、それぞれ、できることとできないことがあるのだから、「御国の子たち」は、人と比べ合ったり競い合ったりせずに、神様から与えられて自分にできることをとにかく一生懸命やりなさい。このように励まし勇気づけたのだと思います。        
 マタイ福音書のほうは「タラントン」ですから、これは大変な金額です。マタイ福音書では、人は、それぞれ、自分でも予想しないほどの能力を神から授与されていることになります。ただし、タラントンにせよ、ムナにせよ、その譬えの内容は、信徒の霊能や聖霊の賜に限定するのではなく、神が人に授与したそれぞれの能力のことだと広く理解してもいいと思います。イエス様は、たぶん、だれでも知っている諺を引いてお話になったのでしょう。
 主人は、自分の僕(奴隷)たちの能力をよく知っていますから、<それぞれの能力に応じて>自分の財産を預けたのです。「良くやった、忠実な僕よ」は、主人の信頼に応えた僕への褒め言葉です。逆に言えば、1ムナを隠して活用しなかった僕は、自分に向けられた主人の信頼を裏切り、勝手な自己判断で主人を評価し、自己を評価したために、「役立たず」だと叱責される羽目になったのです。神は、憐れみ深い者には憐れみ深くなり、人に厳しい者には厳しくされます。人が神を判断するとき、その判断の通りに、「神もその人を扱う」のです。
 言うまでもなく、イエス様の御言葉も物語も、様々な人たちに向けて語られています。だから、それは、言わば「一般論」ですから、個々の人それぞれに当てはめる場合には、その人の様々な状況に応じた判断なり決断なりが行なわれることになります。わたしたちが、教会で聞く説教も同じで、複数の人たちに向けて語られる以上、それは「一般論」にならざるをえません。その一般論が、人それぞれに生かされて現実に働くためには、その時その場の状況に対応して、個人に働く神の聖霊のお働きがなければなりません。逆に言えば、父がイエス様を通じて授与される聖霊こそ、神の教えをその人の具体的な状況において実現させてくださる方なのです。キリスト教の神が、三位一体であるとは、このような働きのことを指しています。イエス様が、「譬え」を用いてお語りになるのは、それが聖霊を通じて初めて具体化し現実になることをよくご存知だからです。
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