186章 最後の審判
マタイ25章31〜46節
 
■マタイ25章
31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
33羊を右に、山羊を左に置く。
34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
【注釈】
【講話】
 今回は、イエス様のエルサレム伝道の最後になります。ここでイエス様は、これまでのまとめとして、最後の審判での裁きの有り様を具体的に生々しく描き出してくれました。今回も前回と同じ譬え物語だと見なされがちですが、実際は、譬えというよりも、終末に起こる出来事をそのまま告げていると見るほうがよさそうです〔デイヴィス『マタイ福音書19〜28』〕。今回の最終の裁きは、どのような特徴を帯びているのか? この点を幾つかにまとめてみたいと思います。
(1)教会からこの世全体へ
 今回の話でも、「人の子」がイエス様を指していることはだれでも分かります。では、「羊」と「山羊」とは、いったい誰のことでしょうか? 王が、「わたしの兄弟たち」に行なってくれたかどうかで、彼らを裁いていますから、この話は、ほんらい、イエス様を信じる人たち、すなわち、キリスト教の教会のメンバー同士のことを語っているという説があります。とりわけ、最初期の教会では、諸集会の間を着の身着のままでめぐりながら福音を教えていた「霊能の巡回伝道者たち」が居ました。集会の信者たちが、快く彼らに「奉仕した」かどうか? このこと教えるための譬えだという見方があります 〔ルツ『マタイ福音書』(3)〕。そうだとすれが、この話は、ほんらい、御国の教えを説いてまわる人たちを大切にして、彼らに「奉仕する」ことを教えるための譬えになりますから、「教会に奉仕する」ことの大切なことを教えているという伝統的な解釈につながりましょう。
 しかし、こういう解釈に対して、この話を素直に読むなら、キリスト教会の教師か、信者かなどには関わりがなく、だれであれ、困っている人を助けることこそ、「敵をも愛する」ことを教えたイエスの「隣人愛」にかなっているという解釈があります〔デイヴィス『マタイ福音書19〜28』(3)〕。これが、「<人の>子」としてのイエス様の真意だったのでしょう。
 「隣人を愛する」ことは、ユダヤ教の最も大事な教えでしたから、イエス様もこの教えを受け継いでいるのは間違いありません。人はだれでも、同じ民族、同じ宗団、同じ共同体の間では、互いに親切にします。しかし、今回の話では、ユダヤ人同士だけの「隣人愛」ではなく、善いサマリア人の話しにもあるように、イスラエルの民の「外の人たち」にも愛を行なうことが、最後の審判において、最も大事だという教えになりましょう。今回のイエス様の話は、そういう「限られた隣人」の隔てを超えて、すべての人に向かう愛の業こそが、最終的に報われることを告げていると見るべきです。
(2)キリスト教会の相対化
 ほんらいは、ユダヤ教の共同体内部に限られていた隣人愛が、キリスト教会に受け継がれることで、教会の内部において奉仕する愛の業となり、それが、さらに、より普遍的な愛へと拡大される。こういう過程をここに読み取ることができます。ただし、この拡大の過程において、重要な変化が生じることに注意しなければなりません。それは、ユダヤ教内部からの、あるいは、キリスト教会内部からの「脱却」という過程がそこに生じなければならないことです。
 ユダヤ教という民族宗教からの脱却が、キリスト教会を生みだしたとすれば、今度は、そのキリスト教会が、終末の裁きにいたるその前に、変革され、変容されなければならないのです。これを言い換えると、今回の羊と山羊の譬えは、「いかなるキリスト教的自己の絶対化をも禁じる」〔ルツ『マタイ福音書』(3)〕方向を指し示しているということです。インドのコルコタで、行き倒れの人たちを介抱したマザー・テレサを持ち出すまでもなく、キリスト教の教会のみを唯一「正しい」と信じるところからは、今回語られているような、普遍の愛の業は決して生じてきません。逆に、謙虚な自己相対化こそ、すべての人への愛の業を促すからです。したがって、「終末に裁かれるのは」、何よりも先ず、イエス・キリストの教会です。「裁きは、先ず神の民から始まる」のです。
(3)人ができる業
 今回の物語で、古代教父のクリュソストモスは、「病気の人」と「牢にいる人」への愛の業が、その人の病気を霊能で癒やすことではなく、その人を牢獄から解放してやることではないことに注目しています。これはとても鋭い着眼点です。「正しい人たち」が行なったことは、神から与えられた霊能を発揮して、病気癒しをしたり、牢屋から、その人を解放してやることではありませんでした。そうではなく、病の時には見舞い、囚われの人には訪れることですから、ことさら神からの霊能がなくても、人が人であれば、だれでも「できる」行為です。最後の審判で問われるのは、霊能ではなく(マタイ7章21〜23節)、人が人としてやれることをどれだけ実際に行なったのか?このことだけです。ところで、「しなかった」ことで裁きに遭うのなら、人を飢えさせ、着物を剥ぎ取り裸にし、不当に牢屋に閉じ込めた者たちは、いったいどんな裁きに遭うのでしょう! 彼らこそ、41節の「悪魔」として扱われるでしょう。
(4)最小の者を最大に
 「一人の人が民に代わって死に、民全体が滅びないほうが得策ではないか。」これが、イエスを処刑する判定を下したカイヤファの論理です(ヨハネ11章50節)。この論理は、国家権力によって、企業のような組織体において、人間の作る共同体において、現在でもそのまま通用しています。最近では、「原発事故が福島で起こって、東京でなくてよかった」と、ついうっかり「本音を失言した」政治家がいます。現在の日本では、これこそが「この世の仕組み」だと、ほとんどの人が思っています。「正義」とは、小さい者を切り捨てることで成立する。これが、人の世の暗黙の了解であり、人の組織体が下す判定です。ところが、最後の審判で問われるのは、どこぞの国の裁判所のような判決ではありません。神の御前における人の子イエス様の判決は、「最も小さい者一人」をどのように扱ったのか、「これが」問われるのです。飢えて、裸で、病んで、住む所がない小さな者と言えば、現在では、世界中にいる国を追われた難民たちであり、とりわけ、彼ら難民の「小さな子供たち」ではないでしょうか? 彼らの姿こそ、現在の人類が、「最も小さな者」に対して犯している罪を如実に象徴しています。こういう子供たちが居ない世界を作ること、これが人類が目指すべき「神の国」の最終の姿であることを想わせます。
(5)現在行なう愛
 今回の審判の話しでは、「終末」にとらわれるあまり、見過ごされている点がひとつあります。最終の判決は、人が「行なったか、行なわなかったか」に基づいていますから、これらは、すべて過去形で語られています。だから、問われているのは、終末の時ではありません。ほんとうに問われているのは、終末にいたるまでの「現在」のことなのです。「信仰を過去のイエス様に求め、希望を終末のイエス様に求めるなら、愛は、現在のイエス様にある。」これは、16〜17世紀のヨーロッパで言われていた格言です。
■右手の業を左手に知らせず
 結局、誰が羊で、誰が山羊なのか? 答えは、毒麦とほんものの麦のように、区別がつかず、最後の審判までだれにも分からないのです。ただ一つ確かなのは、義と認められる人も、不義だと断罪される人も、自分がそうだとは全く気がついていないことです。自分が、義とされるのか不義とされるのか、これは、わたしたちが今信じているイエス様の中に隠されているからです。だから、わたしたちは、自分の行ないの義か不義かにとらわれることなく、「ただ信じて行なう」だけです。後は、イエス様にお任ねです。右手のしていることを左手が知らなくてもいいのです。
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