注釈
■イエス様語録とマタイ7章
 マタイは、「岩の家」のたとえの直前に、「主よ、主よ、」と言うだけで父の御心を行なおうとしない者に、厳しい御言葉が語られる話を置いています。ここで「主よ、主よ」とあるのは、もしそれがイエス様語録から出たイエスの御言葉であったとすれば、その「主」とは旧約以来の「主なる神」を指していることになります。だからマタイは、この呼びかけを、「父の御心」を行うことと結びつけているのです。そこでは、悪霊を追い出したり、み名によってしるしを行なう者が、「不法を行なう者たち」として御国から閉め出されるのです。「わたしを離れ去れ」というのは終末の裁きの御言葉です。
  こういう終末性は、次に続く「岩の上の家」での「大雨による洪水」や「大風」のたとえへと受け継がれています。24節以下のこのたとえでは、イエス様語録とマタイとは、ほぼ一致しています。「これらの言葉を聞いて」とあるのは、5章からのイエスの語られた御言葉全体を指しているのでしょう。後半で、特に6章19節の「天に宝を積む」たとえからは、黄金律を中心にして、イエスの御言葉をほんとうに実行するかどうかが問われているのです。
  山上の教えの最後に、「岩の上の家」のたとえに続いて、群衆は皆、イエスの「権威ある」御言葉に驚いたとあります。この「権威ある」というのは、「力がある」という意味で、イエスが悪霊を追い出したときに人々が驚いて語ったのと同じ言葉です(マルコ1章22節)。だからこの言葉は、先に出てきた「悪霊を追い出す」ことや「しるし・奇跡」を行なうときの霊能ともつながるのです。

ルカ6章
 ルカは、マタイと異なって、「主よ、主よと言うだけで行わない者」の話と「岩の上の家」のたとえの両方をひとまとめにしています。またルカでは、マタイと異なって、「主よ」という呼びかけは、はっきりとイエスを指しています。「わたしの言うこと」とあるのもこのことを裏書きしています。だからでしょうか。マタイでは、家が「岩の上」に建てられることを重視していますが、ルカは、「土台を深く掘って」「岩」であるキリストの上に建てるように教えています。ルカでは、マタイのように「岩」と「砂地」との違いではなく、土台が堅いかどうかの違いになっています。洪水でも「揺り動かされない」とあるのは、ヘブライ人への手紙12章27節を参照してください。このようにルカは、家のたとえをイエスとの結びつきで見ています。なお、マタイには「天の国にはいるわけではない」(7章21節)とありますが、ルカにはこれがありません。このために、ルカでは、終末性が弱められて、現在の普遍的なたとえとなっているとも言えます。ただし、このたとえそれ自体が、本質的に終末的な意味を帯びていることを忘れてはならないでしょう。ルカは、このたとえを民衆をも含む「弟子たち」に宛てていますから、これはルカによく出てくる「賢い僕(しもべ)」と「愚かな僕(しもべ)」の例として読むことができます。同様の例は、主人の帰りを待つふた種類の僕(ルカ12章41節以下)やムナのたとえ(ルカ19章11節以下)にもあり、そこには旧約以来の知恵文学の流れが見られます。
 
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