66章 カファルナウムの百人隊長
マタイ8章5~13節/ルカ7章1~10節/ルカ13章28~29節
【聖句】

イエス様語録
  これらの言葉を<聞かせ終えて>から、彼〔イエス〕はカファルナウムへ<入られた>。一人の百人隊長が彼のもとへ来て訴えて言った。「わたしの僕/子供が病気です。」すると彼に言われた。「わたしに来て彼を治せと言うのか?」すると百人隊長は答えて言った。「主よ、わたしは、その屋根の下に来ていただく値打ちもない者です。ただ一言おっしゃって、わたしの僕/子供を<癒してください>。わたしもまた権威の下にいる者で、自分の下に部下がいて、『行け』と言えば行きますし、ほかの者に『来い』と言えば来ますし、わたしの召使い/部下に『これをせよ』と言えば、します。」するとイエスはびっくりして、従って来た人たちに言った。「あなたがたに言っておくが、イスラエルでも、これほどの信仰を見たことがない。」 

 そして多くの人たちが、日の出る所と入る所から来て、<神の>国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓につくだろう。しかし<あなたがたがは>、外の暗闇に放り出されて、そこで泣きわめいたり歯ぎしりしたりするだろう。
注:< >の中はルカからです。/は、どちらの意味にもなります。

マタイ8章
5さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
6「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
7そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
11言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
12だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

ルカ7章
1イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
2ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
6そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

同13章
28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。

注釈】
【講話】
■共観福音書を読むこと
 今回から、再び共観福音書へ戻ります。今日は、カファルナウムの百人隊長の話です。この出来事は、イエス様語録にもマタイ福音書とルカ福音書にもヨハネ福音書(4章)にもでてきますから、イエス様の出来事としてよほど広く知られていたのでしょう。ルカ福音書では、この話がイエス様の教えの直後に置かれていて、マタイ福音書でも、山上の教えのすぐ後に出てきます。カファルナウムは、以前お話ししたように、ペトロの家のあった所で、イエス様のガリラヤ伝道の拠点となった町です。話自体は、それほど難しくないのですが、この話の扱い方です、これには難しい問題があります。この話は、マタイ福音書とルカ福音書だけで、マルコ福音書にはありません。このマタイ福音書とルカ福音書から、文献批評によって、イエス様語録が復元されているわけです。しかも、ここで語られているのは、イエス様の実際の御言葉と出来事から出ています。ですから、この話には、イエス様の出来事と、これを伝えるイエス様語録と、このイエス様語録から出ているマタイ福音書とルカ福音書、この四つの段階を経て、現在のわたしたちのところへ届けられていることになります。
 それぞれの段階で、少しずつ変化が生じていますが、この話は、マタイによって、かなり大きな設定の変化を受けています。ルカもそれなりに編集を加えています。このように、四つの段階を重ね合わせて福音書を読むこと、易しくはありませんが、じっくりと読んでいますとね、ああ、そうだったのかと、分かるところ分からないところが改めて見えてきます。そこから、イエス様の出来事を現在に活かす御霊の働きを聴き取ることができます。「イエス様の出来事」は、四つの福音書を通してしか知ることができません。マタイとルカとそれにおそらくヨハネが伝える「御言葉を通しての癒し」は、ひとつの出来事です。共観福音書を通して、福音書が伝えるイエス様のひとつひとつの出来事に迫り、その出来事が今のわたしたちに語りかけるメッセージを御霊によって聴き取ること、これがわたしの共観福音書注釈と講話の目指すところです。これが共観福音書としての大事な意味です。マタイ福音書とルカ福音書は、皆さんの聖書で読むことができますから、イエス様語録でこの話を読んでみましょう。
■「これほどの」信仰
  ここに「これほどの信仰」という言葉が、イエス様の口から出ていますが、「これほどの」というのは、どれほどかと言えば、「病気が治るほど」という意味だと思う人がおられるのではないかと思います。でも、すごいのは、病気が治ることよりも、これをなさったのは、イエス様ですから、すごいのはイエス様です。では、イエス様のどこがすごいのか? と言いますと、ちょっと誤解されるかもしれませんが、実はイエス様には「弱点」があるのです。その弱点は何かといいますと、「信仰に弱い」ことです。イエス様は、信じて頼る人に弱いのです。変な言い方ですが、これが神様の弱点です。信頼する者をイエス様は裏切ることができないのです。信頼することは、「神様を説得する」唯一の最も確実な方法です。
 異邦人であろうと、罪人であろうと、どんな人であろうと、初めて出会った人でも、ダメだ、ダメだと言われ続け思われ続けた人でも、信頼する者をイエス様は決して見捨てない。神様は信仰に「弱い」のです。逆に、それ以外の方法でどんなに迫っても、これだけやった、これだけ学んだでは、神様は動かないのです。この隊長は、カファルナウムでイエス様のことを聞いて、イエス様のところへお願いに来ました。ところがイエス様は、この異邦人の隊長に向かって、「このわたしに、あなたのところへ行けと言うのか?」と、素っ気ない返事をします。これは、百人隊長にとって、信仰の試練です。その人の信仰が、ほんものかどうかが試されるのです。「ああ、そうですか」とあきらめてしまったら、それまでです。こういう場合が実に多いです。
 でもその百人隊長は、そこで引き下がらなかった。彼は、必死だったのです。藁をも掴むと言いますが、イエス様は藁ではない。では、彼は何を掴んだかと言えば、イエス様の御言葉を掴んだ。ダメだと断わられても、自分に向けたイエス様の御言葉を求めたのです。イエス様の自分への御言葉を握りしめることをお願いしたのです。祈ったのです。これが「これほどの信仰」の意味です。病気が治る、治らない、ということではないのです。霊的に救われること、身体的に救われること、生活の様々な問題に出逢って、その悩みから救われること、これらは、同じひとつの信仰から出るのです。イエス様のことを聞いて、イエス様のところへ行って、イエス様の御言葉を聞いて、その御言葉を握って求めるのです。そうすれば、ダメだ、ダメだが、ダメでなくなるのです。
 共観福音書では、マタイとマルコとルカと、二つ、あるいは三つが、重ね合わされてきます。けれども、これらの重ね合わせから響いてくるのが、御霊の御声です。それぞれに違いがあり、幾つかの段階を経ていますが、そういう違いや段階を通じてわたしたちに響いてくるのが、御霊の働きです。神様の御言葉です。百人隊長は、<イエス様が自分の祈りに答えて御言葉をくださるまで>、イエス様の語りかけを聴き出そうとあきらめませんでした。イエス様をどこまでも離しませんでした。「これほどの信仰」とは、これです。どうぞ、皆さん、このことを分かってください。言葉はその人の人格を表わしていますから、御言葉は、たとえ一言でも、そこに全人格がこめられています。イエス様から一言を求めることは、イエス様全部を求めることです。この百人隊長は、こういう信仰の「型」を示してくれるのです。
■異邦人の信仰
  わたしがまだ若い頃に、聖書を全く知らないおばさんが、わたしの教会へ尋ねてきて、「わたしは初めて聖書を読んだのですが、イエス様は、処女から生まれたんです!」と驚いて話してくれたのを覚えています。現在の聖書学者は言うまでもなく、多くのクリスチャンたち、とくに知的なクリスチャンたちは、イエスの処女降誕は神話であって、事実ではないと考えています。クリスチャンでもそうであるのなら、ましてクリスチャンでない一般の人には、処女降誕などは、なんと非科学的なことだと一笑に付して信じないだろう。そう思いこんでいたわたしにとって、このおばさんの一言はまさに驚きでした。物知りの学者やクリスチャンなら、きっと「そういう読み方は間違っている」と言っておばさんを諭すでしょう。しかしわたしは、この時、自分たちが失っていた大事なことをこのおばさんから教えられたように思ったのです。イエス様も聖書も全く知らない人の中には、このおばさんのように、聖書を読んでこれをそのまま信じる人がけっこういるのではないか? わたしは初めてそのことに気がついたのです。処女降誕の記事の背後に、どのような信仰的、あるいは宗教的な出来事が隠されているのか? このことを探求してみたいとその時思ったのです。キリスト教も聖書もしならない日本人の中から、ほんとうにイエス様を求める、この百人隊長のような人たちが出てくるかもしれません。
  百人隊長の物語は、イエス様の御言葉が癒しをもたらしたことを告げています。このことから、信仰とは癒しや奇跡ではなく、神の言葉であるという教訓を引き出す説話や説教に出逢うことがあります。さらに進んで、信仰とは癒しやしるしではなく、内面的な「言葉による」信仰こそが大事だと教える先生方もおられます。イエス様の御言葉が大事であり、信仰は癒しや奇跡ではないというのは、それ自体間違いではありません。しかし、わたしに言わせるなら、今回のこの物語は、これと全く逆のことを語っているように思われます。イエス様の御言葉が、現実に人間の肉体を癒し、病気が治ったこと、まさにそのことをこの記事は教えてくれるのです。だから、百人隊長は、精神的、内面的な救いを得るために、イエス様の御言葉を求めたのではありません。そうではなく、人間の肉体に現実に働く御言葉をイエス様に求めたのです。
 わたしたちの身体をも含めて、現実の生活の場で働くイエス様の御言葉です。これが大事なんです。理念や精神的な有り様ももちろん大事です。けれども、具体的に実際的に働かなければ、神様のお働きも、イエス様の御言葉も、御霊の御臨在も、実感として体得できないのです。イエス様はここで、終末に与る御国の宴会のことを言っているようですが、実はそうではない。これは、わたしたちが、今この時にも味わうことのできる御霊の御臨在とその喜び、今日一日の中に働く御霊にある交わり、神様の御国は、このように、現実の中で働いて、現実を変えていく、常に創造していく、こういう働きをするのです。これは理念ではなく、信念でもない。日常の出来事です。わたしが、「知恵の御霊」と言うのはこのような意味です。だから、イエス様のお御言葉は、「知恵の言葉」なのです。
■イエス様による批判
 実はこの話には、これだけでなく、難しい問題が含まれています。マタイは、イエス様語録の別の箇所から持ってきて、この話へつないでいます。そうすると、「これほどの信仰」という御言葉も、別の意味を帯びてきます。アブラハムの子孫であるイスラエルの民が、ほんらい神様の御国の宴会の席に集うはずであったのに、彼らがはずされて、これに代わって、異邦人が御国の宴会に与ること、これは神の御国を相続することです。イエス様の語られた「これほどの信仰」が、このように「イスラエルではなく異邦人のほうが」という意味を帯びてくるのです。イスラエルの人々にとっては、これは厳しいです。
 お気づきだと思いますが、マタイへのこういう解釈から、ユダヤ人は、イエス様から見捨てられ、神様からは遠ざけられたという偏見が生まれてきました。けれども、この百人隊長の話は、イスラエルの御国の相続が、異邦人へ移ったことではなく、これは、同じイスラエル人同士の中で言われていることとして読むこともできます。特権意識にあぐらをかいて、自分たちこそ「御国の子」だと思いこんでいる人と、自分を罪人だと思っている貧しい人たちと、この格差の中で、イエス様は、指導者層を厳しく批判していると見ることができます。しかし、同じユダヤ人であるイエス様が、イスラエルの指導者たちに向けて語った厳しい批判を、外から見て、だからユダヤ人は悪い。わたしたちが、こう思い込んだらとんでもない間違いです。わたしたちは、よくこういう間違いをします。アメリカ人がアメリカ人を批判しているのを見て、だからアメリカはダメだと思いこむ日本人がいたら、これはとんでもない間違いです。逆に、日本人が日本の政府を批判するのを外国の人が聞いて、日本の政府はダメだと思うのも間違いです。イエス様が厳しく批判するのを見て、ユダヤ人は悪いと思いこむのは、これと同じ間違いです。でも、ユダヤ人について、こういう誤りが現在でも行なわれています。
ユダヤ人同士の中での批判なのか? それともイスラエルと異邦人との対照なのか? この問題は、両方の解釈があって微妙です。こういう問題が出て来たのは、マタイが、御国の宴会と百人隊長の信仰の話とをむすびつけたからです。マタイの見方は、どうやら、イスラエルと異邦人との対比にあるように思われます。マタイのイスラエルに対するこのような厳しい見方は、おそらくマタイたちが、ユダヤ戦争において、エルサレムの陥落とイスラエルの国の滅亡という厳しい現実を体験したことから生じているのかもしれません。ルカ福音書になると、異邦人である隊長の信仰の有り様のほうに重点が置かれていて、しかも、異邦人とユダヤ人とを超えた愛の教えが語られています。
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