130章 やもめの息子の生き返り
ルカ7章11〜17節
【聖句】
ルカ7章
11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
【講話】
■復活とイエス様の出来事
注釈では、イエス様の出来事の中で、この話しがどこに配置されるのか、について述べました。しかし、話の順序よりも、もっと大事な問題があります。それは、今回の話を含めて、いったいこれはほんとうの出来事なのか? という問題です。こちらのほうがもっと難しい。なぜかと言えば、今回の話は死者の生き返り、すなわち「復活」につながる話です。ルカはこの話をイエス様の復活と重ね合わせて描いています。このためにこの話が実際の出来事かどうかが、分かりにくくなるのです。なぜかと言えば、ルカはイエス様の復活信仰に基づいてこの話を書いていますから、ルカの書き方は、実際の出来事ではなく、復活を、それも「イエス様の」復活を伝えるためにこれを書いている。こういう見方をする人たちがいるからです。イエス様の復活を伝えるために書いたのなら、このナインでの話は、ほんとうなのか、それともルカの「作り事」なのか、こういうことにもなるのです。
ここに書かれている出来事とイエス様の復活、この二つの「出来事」の関係と、これらを見る書き手(ルカ)の視点です、これが問題です。イエス様が復活されたからこの話が生まれたのでしょうか? それとも、この話がほんとうに起こったからこそ、イエス様は復活したと信じられたのでしょうか? いったいどちらだろうというわけです。ルカはイエス様の復活を信じて書いたのだから、この話は架空の作り事だ。こういう見方は、一見すると、学問的に思えます。合理的に見えます。特に日本では、このように説明すると納得する人が多いでしょう。でも、ほんとうの意味で「学問的な」視点から観ますとね、そうとは言えないのです。文献批評的に見ても、学問的な視点からは、この話が実際の出来事だとも、そうでないとも、決めることができません。なぜなら、現在の学問の段階では、どちらの見方も可能だからです。
こうなりますとね。裁判と同じで、被告は有罪か? あるいは無罪か? 事実は一つ、意見は二つです。決め手となるのは、物的証拠と証人です。聖書学でも物的証拠をいろいろ集めてはいますが、決め手となるような証拠がなかなか出てこないのです。では証人はどうかと言いますと、これがまさに、聖書の言う「証」(あかし)です。イエス様の「証人になる」という言葉が使徒言行録にでてきますが(1章8節)、イエス様の復活の証人になる、あるいはイエス様の出来事の証人になるとあるとおり、聖書の証言が大事になります。でも、ご承知の通り証人でも、意図的にあるいは無意識的に、嘘と真実を混ぜて話します。イエス様の復活を信じているから、この証人は当てにならない。イエス様の復活を信じていないから、この証人は当てにならない。どちらの場合も、裁判では問題になります。こうなると堂々巡りです。だから学問的には事の本当の真偽は判定できません。問われてくるのは、その証人の信憑性、すなわちその人間の誠実さです。
モーセ十戒に「偽証を立てるな」とあるとおり、証人は嘘をついてはいけません。逆にその証人が、一つでも嘘をつくと、その人の証言全体が怪しくなります。17世紀に、パスカルというフランスの物理学者が、この問題を考えました。12人のイエス様の弟子たちが、全員イエス様が復活したと「証言」した。しかも彼らは、全員、その命をかけてイエス様の復活の証人となった(「証人」のギリシア語には「殉教者」の意味もあります)。だから、復活が起こらなかったと信じるよりも、現実に起こったと信じるほうが、はるかに合理的である。彼はこう考えました。
問題はこうです。イエス様の復活を信じたから、イエス様の出来事が「創られた」のでしょうか? それとも、イエス様の出来事が、現実に起きたからこそ、イエス様の復活が起こったと信じられたのでしょうか? 単純化して言えば、このどちらかです。わたしは後のほうだと信じますが、皆さんはどうですか?
■聖書の証言
わたしが後のほうだと信じる理由はふたつあります。そのひとつは、福音書の記者たちがそう証言しているからです。「聖書を信じる」というのは、こういうことを含んでいるのです。わたしは、聖書を通して御霊の証しする「イエス様像」を知れば知るほど、これは人間が考えて分かる話、人間の頭でもっともらしく説明できる話ではないこと、逆にこのことが歳とともに分かってきました。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」です。ですからわたしは、聖書をなるべくそのまま皆さんに語るのです。とにかく聖書が何を語ろうとしているのか? 徹頭徹尾これです。
だからと言って、逐語霊感説みたいに、書かれてあるとおりに鵜呑みにするのではありません。先の「悪霊文化論を批判する」で述べたとおり、学問的な追究は大事です。どこまで分かるか? 逆にどこまでしか分からないか? これを見極めるのが大事です。確かに聖書には、神話的な要素があります。ヨハネ福音書で言えば、カナのぶどう酒の奇跡物語では、イエス様の出来事が、神話的に表象化されて描かれています。あるいは五千人へのパンの奇跡のように、聖餐の祭儀として表象化されて書かれています。これらの奇跡は、現代の学問的なレベルでは、あるいは現在の自然科学の水準では、現実に起こったこととしては否定されています。だからと言って、これらの話が事実無根だという意味ではありません。そこには、何らかの現実的な出来事があって、それが霊的にあるいは神話的要素を帯びて語り伝えられたと考えられます。「霊的な出来事」は、比喩や表象によってしか語ることができないからです。だから、こういう表象化され、神話化された要素においても大事な霊的な真理が語られています。しかし、将来、聖書学や自然科学がさらに発達するにつれて、これまで科学的に否定されてきた聖書の記述でも、実は学問的な根拠があったことが証明されるかもしれません。すでに、旧約聖書の出エジプトの記事や、ノアの洪水の記事などが、調査の結果、聖書の記述の信憑性が明らかになりつつあります。逆に、癒された、悪霊が出ていった、というような現実の出来事でも、そこには霊的な意味が潜んでいます。ヨハネ福音書を始め、福音書はそう言う描き方をしています。
このように見ますと、聖書の記事の中で、学問的な批判によって肯定される現実の出来事と現在の学問的レベルでは否定されている出来事、目に見える出来事と見えない霊的な世界、この二つの境界を見分けるのは難しいです。共観福音書の講話をやりながら、わたしはいつもこのことを考えています。今回のナインのやもめの息子のよみがえりは、現代の学問的な水準で、事実起こった出来事と神話性や祭儀性を帯びた霊的な出来事と、ちょうどこのふたつの境界に位置すると言えましょう。ここで、聖書学的あるいは自然科学的な判断は停止します。学問的に否定も肯定も出来ません。これが、今日のナインの出来事です。わたしは、ここで語られている出来事は、イエス様によって現実に行なわれたと信じています。
■現代のカリスマの意義
次にもうひとつ大切なことがあります。それは、イエス様の出来事と同様の「奇跡/不思議」が、カリスマ伝道者たちによって、現在でも起きていることです。カリスマ伝道者たちやその伝道のあり方について、いろいろ批判があることはよく知っています。わたし自身も、そのあり方については、いろいろ疑問を持っています。それにもかかわらず、わたしが、オズボン先生やほかのカリスマ伝道者のしていることが、とても大事だと思うのは、彼らを通して、聖書に語られているイエス様の出来事が、ほんとうにありえると知ることができるからです。数は多くなくていいのです。ただし、起こったこと、またそれを語る語り方において、確かでなければなりません。いいかげんで、虚と実を交ぜると全部がダメになります。カリスマの出来事を語る場合には、偽りのパン種が一番怖いです。
先に大勢の癒やしの所で読んだように、イエス様は、訪れてくる病人たちを全員癒されましたね。これは病める人たちへの主の深い慈愛から出たものです。主は一人も退けることをされなかったのです。ただ、わたしが言いたいのは、イエス様の御業の出来事への「証拠」としてならば、イエス様の御名をによって起こった確かな出来事であれば、数はそんなに多くなくてもいいのです。なぜなら、そういう不思議が現実にありえる。そのことが、イエス様の出来事を指し示す「しるし」となるからです。「しるし」は、多くなくてもいいのです。ただし「ほんもの」でなければなりません。これはパウロの言うように、ある特定の人に与えられている賜です。だから、だれでもが、いわゆる「霊能者」、奇跡的なしるしを行なう人です、こういう人になる必要はないのです。ただし行なう以上は、ほんものでなければなりませんよ。ほんとうであれば十分です。それが、イエス様の奇跡の証拠の「しるし」だからです。裁判では、ほんとうに信頼できる証人が一人いれば十分です。12名の使徒たちは、あるいは現代のカリスマ伝道者たちは、イエス様の出来事が実際に起こったことの証人です。
肝心のやもめの息子の癒しについて、何もお話しできませんでした。でも、それでいいのです。なぜなら、もしもあなたが、ルカが伝えるこの話しが、ほんとうに起こった出来事だと信じて「いない」のなら、あなたが、この話しに基づいて、どんな立派な説教をしても、またそれを聞いても、そんなものはなんの意味もないからです。イエス様の出来事が、現実であると信じること、そこからしか、イエス様の御霊は働かないのです。この話にこれ以上の説明は要りません。論争も要りません。ただそれがほんとうに起こったかどうか? 問題はこれだけです。ルカのここの話は、そういう性質の出来事なのです。
■復活のイエス様とは?
では、いったいイエス様の復活というのは、どういう出来事なのでしょう? それは突き詰めて言えば、「イエス様」というひとりのペルソナ(人格/神格)です。でもこれでははっきりしないから、地上におられたイエス様の「真のお姿」、こう言ってもいいと思います。復活のイエス様と言うと、なんだか幽霊みたいだと思っている人がいるかもしれませんが、そうではないね。新約聖書が伝えている復活された後のイエス様は、ちゃんと「からだ」を持っておられます。わたしたちと同じ姿形(すがたかたち)をしておられた。これは、イエス様が地上におられた時に具えておられた「人格」「ペルソナ(persona)」のことです。イエス様の御霊は、イエス様のこのほんとうのお姿をわたしたちに伝えてくださるのです。復活したイエス様のお姿こそ、「外からは見えなかった」ほんとうのイエス様ご自身なのです。これは、人間が書く史的イエス論では絶対に近づくことができないナザレのイエス様の「霊的な出来事」なのです。
わたしたちは地上でいろいろな外見をまといます。でもそれはほんとうの姿ではない。聖書には、すべての人は終末において、そのあるがままで復活するという不思議なことが書かれています。今のあるがままで復活してみて初めて、ああ、この人はこういう人だったのかと、そのほんとうの姿が見えてくるのでしょうね。わたしなんかは、今こんな風に皆さんの前でいい格好をして坐っています。でも、復活して神様の前に出たら、なんだ、この人はこんなくだらない人間だったのかと、その正体がばれてしまうかもしれません。だから、新約聖書がわたしたちに伝えているのは、地上におられたナザレのイエス様の復活された真のお姿なのです。わたしが、聖書が証しし伝えているのは「ナザレのイエス様」だよと言うのはこの意味です。
■「型」を遺す
だからこれは理論や教訓や教義で教えるものではありません。理論や教訓や教義も含んでいますよ。含んでいますが、それ以上のもの、そういうものでは説明できないイエス様全体のペルソナ的な型、これが復活したイエス様です。マタイ福音書の山上の御言葉は、「山上の垂訓」などと言われていますが、「教えを垂れる」のではなく、あれは「御国のかたち」です。
イエス様の出来事とは、イエス様の語られた教えやイエス様の行なわれた業のことだけではないのです。これらを通して見えてくるイエス様の生き方の「型」、その「かたち」です。これをギリシア語で「ヒュポデグマ」(ヨハネ13章15節)と言います。「ヒュポデグマ」とは、「型/かたち/模範/タイプ」のことです。イエス様はわたしたちにご自分の生きた姿を通して「型」を遺してくださった。これが復活のイエス・キリストとして聖書が伝えていることです。
御霊の働きを理論で伝えることなど不可能です。だからと言って、なんでも「霊的だ」と言ってやればいい、ということではないんだね。そこにはちゃんと「型」がある。聖書を学ぶ、信仰を学ぶというのは、この型を学ぶこと、学ぶとはこれを身につけることです。近頃は、若い人たちがよく「はまる」という言い方をしますね。魅力に惹かれて、深入りすることを「はまる」というようです。だからイエス様の型に「はまる」のです。これは、「型どおりの」人間になれということではないんだね。そうではなくて、若い人たちの言う「はまる」です。だんだんと、自然とそうなっていく。イエス様に「はめられて」いく、こういうことです。パウロ的にいえば、イエス様を「着る」ことです。わたしたちは服を着るようにイエス様を着るのです。でもイエス様の服は、単一の制服(ユニフォーム)ではないよ。その人の背丈にぴったり合ったあつらえなんです。「型より入りて、型より出でよ」という言葉がありますが、先ずこの型を身につける。そこから自分なりの型を生み出していくのです。「型破り」では困ります。型は破るのではなく、そこから出るのです。「出る」というのは、生み出すこと、創造することです。そこに天下一品あなたの個性がでます。これも御霊の働きです。
「出来事」とは、地上に現実に起こったことです。でも、新聞記事のような出来事は一度きりで繰り返しません。出来事が、それ以後も繰り返されるためには、それが「型」にならなければなりません。パウロの信仰の型、ヨハネの信仰の型、そういう型となって初めて、次の世代へと伝わるのです。型を学ぶのは難しいことではありません。誰でもいつでも始められます。でも、続けなければなりませんよ。茶道でも華道でも剣道でも、型がありますね。その型から入って、その型に「はまる」のです。はまると、どこまでも続きます。どこまでもイエス様に従って歩むのです。イエス様の道を歩んで、「その道を究める」のです。これが、イエス様の出来事のほんとうの意味なのです。
*この問題については、さらに、コイノニア会のホームページ→聖書講話→四福音書補遺→イエス様の出来事はほんとうか? を参照してください。