67章 枕する所もない
マタイ8章18〜22節/ルカ9章57〜62節
【聖句】
イエス様語録
するとある人がイエスに言った。「お出でになる所、どこでもあなたに従います。」
するとイエスは彼に言った。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には頭を置く所もない。」ほかの人がイエスに言った。「先生、先ず帰って、私の父を葬りに行かせてください。」すると彼に言った。「わたしに従いなさい。死んだ者たちに彼らの死者を葬らせなさい。」
マタイ8章
18イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
19そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
20イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
21ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
22イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
ルカ9章
57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
58イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
59また別の人に言われた、「わたしに従いなさい」。その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
【講話】
■家族の絆が断たれる時
今回の箇所はとても厳しいところです。イエス様は時折、通常の人間にはとても受け容れられないような厳しいことを、受け取りようによっては「非人間的」とも思えることを語られますが、ここもその一つだと言われています。「父を葬ることさえ許されないとは、なんと冷酷なことか。」こう思う人たちがいることでしょう。イエス様の教えに従うなら、家族の絆が断たれてしまう。こう考える人もいるでしょう。けれども、よく考えてみれば、こういう「非人間的」で冷酷なことは、わたしたちの生活において、実はいくらでも起こりえるのです。
わたしたちの家族の絆が断たれるのは、例えば国家のために戦場におもむく時がそうです。戦時中には、軍隊から召集令状が来た時に、親の面倒を見るまでしばらく待ってくださいとは言えませんでした。結婚したばかりだから勘弁してくれとも言えませんでした。明日は葬式だから延期してくれと言っても認められませんでした。命を捨てに行く者に、結婚も葬式も親も兄弟も全く関係なかったのです。会社の転勤命令でも同じです。親の面倒、家族の都合など全くお構いなしに、遠隔の地に転勤になったり、海外へ赴任させられたりします。これらはいずれも、公(おおやけ)のために行なわれることです。家族のような私的な関係を犠牲にしてでも、政治的な、あるいは職業的な意味での「公」に殉じることが求められるのです。いったん「公」に身を捧げたからには、親の死に目に会うことさえできない覚悟が必要になるのです。
■断たれた絆をつなぐもの
けれども、たとえこのように家族の絆が断たれても、その断たれそうな絆を修復し結び直す力が人間にはあります。それは家族の愛情です。様々な理由で断たれる、あるいは断たれそうになる絆をこの愛情によって再び新しい状況に対応させて、なんとか結び直していく。これが、ほんとうの愛情です。国家の命令、職場の都合、これらによって断たれながら、その断たれた絆を再び取り戻そうと努力する家族が、過去においても現在でも、多くの家族の姿です。なぜ人間は、そのように家族の絆を保とうと努力するのでしょうか?
人間は、親子兄弟を始めとして、友人や知人、さらに自分を取り巻く社会環境や自然環境など、いろいろな人たちや要因の中で自分を形成しています。また自分の有り様をそのような「他者との関係」において確認しながら生きています。昨日まであった「いつものパン屋さん」が突然なくなるとか、普段に見慣れていた大きな樹が突然切り倒されるなど、ちょっとしたことでも、寂しく思ったり、ショックを受けたりするものです。そういうものが、知らないうちに、自分の生き方とどこかで結びついていたのです。いわば「自分の一部」だったのです。親しい人が急にいなくなる寂しさ、悲しさは、自分自身の中にある大事なものが失われるからです。
こういう場合に、その喪失を補うものが、人間同士の愛情です。職場の転勤などで突然変失われた関係を新しい状況の中で再び取り戻す、すなわち絆を新しく「結び直す」のは愛情の力です。子供が海外に転勤しても、その寂しさに耐えて、親子の新たな絆をつなぐ。子供や孫が、今まで自分の知らなかった国の人と結婚しても、その新しい状況に応じて、逆に子や孫の世界を理解しようと努力する。これが愛情の力です。そうすることで、今まで知らなかった新たな世界がその親にも開けてきて、新たな自分を発見するのです。こうして自分の子供たちや孫たちに教えられて、人は何歳になっても成長を続けるのです。
さらにここで、大事なことを付け加えておかなければなりません。それは、たとえ人間として最も「自然」だと思われる関係、例えば親子関係でも、その関係だけが絶対化されると、どのような人間関係も「不自然」なものに転落するということです。親子関係においても、異性関係においても、同性関係においても、それが「過度になると」、人を呪縛して健全な人間関係を逆に損なうのです。自然は自然に任せると不自然に転落するのです。「自然」には、こういう不思議な法則があります。甘いものが好きだからといって「自然な欲求」のままに、甘いものを食べ続けるなら、その人は確実に健康を損ないます。自然は美しいもの、善いものと言われている「自然の裏に潜む怖さ」がここにあります。だから、誤解を恐れずに言うならば、家族関係や肉親の情愛は、それが「適度に断たれる」ことが必要なのです。これによって、逆に家族の情愛が新たに再創造されるからです。
■神の国のために
国家や会社の命令は、強制ですから、そこに留まる限り、これを拒否することができません。けれども家族の絆が断たれるもうひとつの場合があります。それは教会に献身して神父になる時、あるいは修道院に入って尼僧になる時などです。日本で言えば、出家する場合がそうです。ある有名なカトリック系の大学を出た才能のある女性を愛したのに、彼女が修道院に入る決心をしたために、失恋した大学の同僚がいました。アンドレ・ジイドの『狭き門』で、恋人を修道院に「取られた」男の悩みと同じです。献身や出家の場合でも、家族の関係や友人関係が断たれることになります。
ただしここで大切なのは、宗教的な場合には、それが本人によって「自発的に」選択されて行なわれることです。先にあげた「公」の場合には、どれも国家や会社や職務に要求されて、言わば強制的に行なわれるものでした。ところが、修道院や出家のように宗教的な場合は、本人の意志に基づく行為ですから、そこには本人の選びが働きます。ただし、その選びは本人の勝手気ままからでた選びではありません。神のため、仏のために行なうという「公」の性格を帯びている点では変わりません。宗教的な場合には、このような「公」は、「神」「仏」のように「聖なるもの」と呼ばれます。宗教的な献身や出家は、「聖なること」のために行なわれるのですから、国家や職場のような「公」によって強制される場合とは事情が少し違います。しかし、肉親の絆が危機にさらされる点では同じです。父親を葬ることは、子としての大事な義務です。けれどもイエス様は、この世には、父親を葬るよりももっと大事なことがあるのだよと、ここで教えておられるのです。
■教会の内と外
こういう神への献身、あるいは仏門への出家は、選ばれた特別の人たちがすることであって、一般の「平信徒」や「在家」の者たちには要求されていない。こういう考え方や教えは、ヨーロッパの中世にもあり、日本でもありました。現在でも、宗教制度の下では、このような考え方に基づいて「献身」や「出家」が行なわれています。今回のイエス様の教えでも、これは選ばれた特別の弟子となる者だけに向けられた言葉であって、それ以外の人に向けて語られたものではないという解釈があります。しかしながら、「イエス様に従う」という信仰は、特別な聖職者たちだけのものではありません。なるほどその人たちは「プロの聖職者」です。しかし、一般の信仰者だって「プロのクリスチャン」です。「クリスティアノス」とは「キリストのものにされた人」のことですから、「アマのクリスチャン」とは、クリスチャンではないクリスチャンと同じことです。イエス様は、「ご自分に従う」ことをすべての人に求めておられるのです。
ここでもうひとつ注意しなければならないことがあります。それは、今回のイエス様の御言葉から、「神の国を伝える」ことは、現世を離脱して、いわゆる世俗の世界とは異なる生き方をしなければならない。こう考えることです。後代になるとこの考え方は、教会制度の内と外とを分離する教えに発展します。教会とその制度こそ神の国を地上において体現しているのだから、救いはその中に存在していると言うのです。「教会堂の外に救いなし」というこの考え方は、現在でも根強く残っています。
しかし、イエス様の言われる御国とは、この地上に制度として目に見える形で存在するとは限りません。御国とは、霊的な世界ですから、教会堂や教会制度のあるなしに関わりなく存在します。御霊は風にたとえられます。風は、教会堂の中にも外にも同じように吹きます。立派な壁で囲ってしまうと、逆に風通しが悪くなります。神の国に入るとは、入る人間を会堂や制度の外の世界から分離することではありません。また主に従う信仰は、特別に選ばれた人だけに当てはめられるべきでもありません。「偽善者は、こういう制度化によって、神の御言葉とその真の愛の心を失う口実にしているのです。」〔ルツに『マタイ福音書注解』EKKシリーズ〕
■イエス様に従う
イエス様の伝える「神の国」は霊的な出来事ですから、こういう霊的な事柄や出来事が「見えてこない」家族や親族の人たちには、理解できません。信仰者にとって最大の試練がここにあります。国家や職場から強制される場合には、たとえどんなに辛く理不尽でも、家族はともかくもその状況を理解できます。ところが、イエス様に従う信仰者の場合には、自分のしている霊的なことが、周囲の家族や友人たちに「理解されない」ことが起こりえるのです。パウロが言うように、霊のことは霊の人にしか理解できないからです。これが最大の試練です。この悲哀を深く体験したのが、恋人との結婚を断念したデンマークの信仰者であり哲学者であったゼーレン・キェルケゴールでしょう。
国家とか会社とかは、強制的に家族の絆を断ち切ります。ところが、イエス様を愛してこれに従う決心をした人は、強制されて行なうのではなく、愛を持って自ら行なう決断によるのです。御霊はそのような人にあっては、常に愛にあって創造的に働きます。この場合、イエス様の御霊の働きによって、その人が常に新たに造りかえられていきますから、周囲の人たちにもその影響が及ぶことになります。人は皆、見慣れた人たち、慣れ親しんだ環境によって、自己を確認していますから、あなたが変革され、変えられていくことは、それまであなたを見慣れていた人に、不安を与えることになるのです。特に、家族のような身近な人であればあるほど、そうなります。今までとは違った、新しい関係を構築し直していくことが周囲の人たちにも要求されるからです。これが、創造的に働く御霊の働きにおいて起こることなのです。しかし、イエス様の御霊は、「愛によって働く」御霊です。だから、親子の関係を断絶したり破壊したりすることはありません。御霊の愛によって歩む者には、その周囲の人たちとの間に、御霊にある人間関係の再構築が、常に常に生じていくからです。あのヨセフの物語(創世記37章以下)のように、一時は「神の国」のために、家族の絆が断たれることになるかもしれません。しかし、その別れは、大きな祝福となって家族全体に返ってくるのです。
■個人となること
家族や親族から解き放たれたその人は、その時点で完全に一人の個人になります。軍隊や会社は、このような「個人」を新しく国家に奉仕する軍隊人間にする、あるいは会社人間にするために訓練します。このようにして、「個人」の新しい組織化が行なわれるのです。その結果、その新しい組織の中では、再び個人が喪失することになります。宗教の世界でも、いったん自由になった個人を教会人間として再組織するのが宗教制度の働きです。
ところが、コイノニア会では、そうはならないのです。解放された個人は、どこまでもその個人として、イエス・キリストとの結びつきのうちに留まり続けるからです。だから、コイノニア会の人たちは、どこまで行ってもその人自身です。個人としてイエス様に結ばれ続けていくからです。その上に、その人を取り巻く周囲の環境は、外面的には、以前と変わりません。こういう状況において、イエス様に従うという「召命」が起きるのです。
誤解のないように言うのですが、わたしがここで取り上げているのは、制度化された教会の中にいる人もそのような制度的な組織に束縛されない、言わば教会の外にいる人も、この問題の本質には全く関係がないことです。教会の中にいる人には、個人としての自由が認められないと考えるなら、それは、新約聖書の教えに背く誤った考え方です。制度の中にいても、外にいても、一般に「聖職者」と言われる制度の上層にいる人たちも、いわゆる「平信徒」と言われる制度の下部を構成している人たちも、イエス・キリストにある御霊の働きを受けて、主と直に交わり、主からそれぞれに召命が与えられたかけがえのない「個人」であるという点では、全く同じです。この点をどうか誤解しないでください。イエス・キリストにあって、一人のかけがえのない人格として、主と共に歩むことをしない人は、そもそもキリストを信じるキリスト者ではないからです。
このことを確認した上で、コイノニア会の方々のように、外側から見れば、仕事を持ち、通常の人たちと同じ生活をしながら、しかもイエス・キリストの御霊の歩みを続けている人たちにわたしは目を向けるのです。こういう人たちは、外見的に見れば、普通の職業人と何ら変わることがありません。大きな寺院の管長やお寺の住職で、学校の教師や大学の学長を務めている人たちをわたしは知っています。しかしここで言うのは、こういう人たちのことではなく、外見からは通常の職業人と全く変わらない生活を営んでいる人たちのことです。この人たちがキリストに従う時に、聖職や僧籍にある人たちとその「従い方」になんの区別もないのです。
イエス様の命令は、そう言う「普通のキリスト者」のことではなく、特別な形で召命を受けた人たちを指しているという解釈がありますが、わたしはそうは思いません。イエス様の御言葉は、およそイエス様に従おうとする人すべての人に全く平等に向けられています。それは、山上の教えが、特別に選ばれた人たちだけに向けられた教えで、通常の平信徒には関係がないという解釈が誤りであると同じように、ここでもそういう「エリート解釈」は誤りです。
■コイノニア会の「献身」
このように、イエス様に従う行為は、イエス・キリストの御霊にある新たな関係を周囲の人たちとの間に創造することになります。しかも、コイノニア会の場合は、修道院や出家ではなく、日常の生活の中で、言わば霊的な次元において、自発的にこのような絆の変革、家族や親族との関係の再創造が行なわれるのです。このような家族や親族との関係の新しい創造は、従う者に注がれる主様の御霊の働きとこれに支えられる祈りなしには生じません。しかも創造は命の成長と同じですから、すぐに起こることではありません。時間をかけてゆっくりと、しかし確実にそれは行なわれるのです。このような愛の御霊こそが、断たれた絆を克服していく道なのです。
こういう歩み方は、外面的には何もしていない、あるいは何も捨てていない、かのように見えるかもしれません。しかし、実際にやってみれば分かることですが、内面的には、捨てて、捨てて、捨てきっていく。人間的な思いや、人並みの名誉や功績への願望を捨てていく、そういう歩みが、イエス様に従うすべての人に、例外なく、起こるのです。一切を捨ててイエス様に従う道へとつながることがだんだん分かってくるのです。この意味で、イエス様に従うのは、山上の教えを生きるのと同様に、決して易しい道ではありません。らくだが針の穴を通るように、「人にはできないが神にはできる」道です。組織や制度に関わりなく、自分に与えられた主イエス様からの召命にまっすぐにどこまでも従う。これがコイノニア会の召命であり、献身なのです。だから、ここでは、アッシジのフランシスコの祈りがそのまま日常の生活の中で活かされてくることになります。