注釈】(2)
■マルコ6章
[1]【そこを去って】イエスはガリラヤ湖の東岸から「再び反対側の岸」へ向かったとあります(5章21節)。大勢の群衆が迎えたとありますから、おそらくカファルナウムへ戻ったと思われます。そうだとすれば、そこからナザレへ向かうことになります。おそらくカファルナウムから沿岸沿いになだらかな丘陵地帯を歩いてマグダラへでて、そこからティベリアスへ下り、ティベリアスから西へ向かって内陸部へ入ったと思われます。内陸部は山道になり、20キロほど行った所から南西に向かい、南ガリラヤの丘陵地帯へ登ることになります。この丘陵地帯にある丘の中腹からすり鉢状の盆地にかけて、現在のナザレがあります。カファルナウムからだと、ほぼ50キロ位の道のりになるでしょうか。なお、マルコは、イエスがナザレへ「来る」、弟子たちが「従う」と現在形で生き生きと描写しています。
【故郷】原語は「先祖の土地」で、ここでは「古里/故郷」のことです。マルコは「ナザレ」という地名を出していません。イエスの故郷がナザレであることは、「ナザレのイエス」という言い方を通して、すでに読者がよく知っていると考えたのでしょうか。ナザレは直線距離にしてガリラヤ湖まで22.5キロほどの所にあります。「ナザレ」という地名は、周辺を見渡す丘の名前からでたのではないかと言われていますが、はっきりしたことは分かりません。現在のナザレはかなり大きく、丘の中腹から麓にかけてすり鉢状に広がっています。発掘の結果、青銅器時代(紀元前13世紀以前)に、丘の斜面の洞窟が住居として使われていた形跡がありますから、ここにはずいぶん昔から人が住んでいたと思われます。また、イエスの時代以後には、丘の斜面は、墓として用いられた形跡があります。イエスの頃のナザレは東西900メートル、南北200メートルほどの広さであったと推定されます。その当時のナザレの人口は、およそ480人で〔Anchor(1)〕、そのほとんどがユダヤ人(ユダヤ教徒)でした。住まいは、石と泥で固めた壁に囲われた数世帯ごとの集合住宅の形態で、それらの部屋は共通の中庭に面していました。屋根は土を固めたもので、部分的に木材を用いていました。ドアや小窓などは木製でした〔山口雅弘『イエス誕生の夜明け:ガリラヤの歴史と人々』日本キリスト教団出版局(2002年)〕。ナザレは旧約聖書にも出てきませんから、当時のイスラエルの人たちから見れば「取るに足りない」寒村だったのでしょう(ヨハネ1章46節)。
【弟子たち】3章14節以下で述べられている十二弟子たちのことです。この出来事では、ここ以外に弟子たちは一切登場しません。しかしマルコは、この出来事を十二弟子派遣の直前に置いています。カファルナウムで大勢の人たちがイエスを信じたのに対して、ここでは、イエスの伝道は厳しい拒絶に出合うことになります。どちらも、弟子たちによる伝道への教訓になったと思われます。
[2]【会堂で】会堂(シナゴーグ)は、ユダヤ教の礼拝の場所であると同時に、律法の学習を通して子供たちの教育の場でもあったので、イエスはこのナザレの会堂で教育を受けたと思われます。イエスは、例えばパウロのように、特定の著名なラビの弟子となって専門の律法教育を受けたことがなかったと思われます。イエスは「学問を受けたことがない」(ヨハネ7章15節)とありますが、これはある特定の著名なラビ(師)のもとに入門して、その弟子として、ラビになるために律法を学んだことがないという意味であって、イエスが「無学」であったという意味ではありません。特定の学派に所属していなくても律法を熟知していたと考えられます。ちなみに、イギリスの劇作家シェイクスピアは、故郷のストラットフォード・アポン・エイヴォンの「文法学校」(日本の江戸時代にあった子供に読み書き算盤を教える塾に近い)で教育を受けた以外には、正規の教育を受けた形跡がありません。それなのに、驚くほど広範囲な知識と文芸の才能を具えていたことが現在でも謎とされています。
 現在ナザレにある聖告知教会周辺の地下の発掘によって、この教会が、かつての会堂の様式に似た基礎の上に建っていることが分かりました。聖告知教会は、現在丘の麓にありますが、ここはもともと小高い丘の上であったと思われます。イエスの頃の会堂は、現在の聖告知教会のあたりになるのでしょうか。なお、「会堂」での集会の形式については、ルカ4章16節で説明します。
【知恵】ここで言う「知恵」(ギリシア語で「ソフィア」)は、通常の「賢さ」のことではなく、「賢者/賢人」と呼ばれる人に具わる「知恵」のことです。イエスは「知恵の人」でした。このためイエスを当時のヘレニズムの哲学者のような賢者と同一視する説もあります。しかし、ここで言う「知恵」は、ギリシア的な知恵思想に基づくものではなく、旧約聖書の「知恵」(ブライ語の「ホクマー」)にさかのぼるものです。「ホクマー/ソフィア」は、例えば知恵の書7章7節に「知恵の霊」とあるように、神の霊から来る「知恵」のことです。
 人々がイエスの「知恵」とその「霊能」に驚いたとありますが、これの原語は「びっくり仰天する」ことです。人々がイエスの教えに驚いたことはマルコ1章27節にもでています。しかし、ナザレでは、そのような驚きだけではない意味がこめられています。人々は「これはいったいどこから来たのだ!?」と驚き戸惑っているのです。自分たちが「見知っている」と思いこんでいたイエスと今目の前で語っているイエスの言葉と業とがあまりに異なることに人々は驚愕したからです。
【奇跡】原語は「力ある業」(複数)で、旧約以来の伝統では、神が預言者たちを通して働く霊能の業のことです。原文には「イエスの手による力ある業の出来事」とありますから、具体的には、悪霊を追い出し、病を癒す業を指しています。ただしここでは、「力ある業」が複数で無冠詞ですから、ナザレでの出来事と言うよりも、カファルナウムその他で行なわれたイエスの業全体を指しているのです。人々は、個々の業そのものよりも、顔見知りの人であるはずのイエスの言葉と業の全体が引き起こす「イエスの出来事」それ自体に驚いたのです。
[3]【大工】原語は「テクトーン」で木工職人のことです。先に述べたように、ナザレの家は屋根の一部や窓や家具などは木製でした。これら木製部分を造るのが木工職人(テクトーン)でしたが、必ずしも木工だけでなく、時には鉄などの金属類をも扱う仕事をしました。イエスの父はこの「テクトーン」であり、イエス自身もここで「テクトーン」と呼ばれています。マタイはここを「木工職人の息子」と言い換えていますが、当時の習わしとして、息子が親の仕事を受け継ぐのは当然のこととされていましたから、イエス自身も父と同じ仕事をしていたのです。ヨセフが早くに亡くなっていたとすれば、イエスは木工職人として、鋤や鍬などの農具をも作る仕事をしていましたから、農業について熟知していたのでしょう。木工職人は、決して「卑しい」仕事ではありません。「賢者」と呼ばれる人が、手仕事を職とすることは不相応ではありませんから(パウロが天幕作りをしていたように)、ここで人々は、イエスの仕事を軽蔑しているのではありません。
【マリアの息子】このような呼び方は、父系中心のユダヤ社会では異例です。マタイは「彼の母はマリアと呼ばれる」と言い換えています。マルコのこの言い方について、以下のような諸説があります〔ゲリッチ『マルコ福音書』〕。(1)マリアの処女懐胎伝承から来ている。(2)イエスはヨセフの嫡子ではなく庶子であったから、そのことでイエスを批判している。(3)ヨセフはすでに亡くなって、マリアはこの時未亡人だった。(4)マルコは、ヨセフについて一切言及しないから、ここでも父を無視している。これらのどの説にも確証はありませんが、おそらく、この時すでにヨセフが亡くなっていたために、マルコは父系による正式な呼び方をせず、日常的な呼び方をそのまま用いたのでしょう(列王記上17章17~19節/ルカ7章12節/使徒16章1節参照)〔ゲリッチ『マルコ福音書』〕。したがって、人々のこの呼び方はイエスを侮辱した「蔑称」ではありません。むしろ、イエスのことを「この人」と繰り返して呼んでいることに軽蔑の意味がこめられているのでしょう。
【ヤコブ】ここでのマルコの記事から、イエスは5人兄弟の長男で、他に何人かの姉妹がいたことが分かります。イエスの家族は、ガリラヤのごく普通の農村の家族だったのです。ここにあげられている4人の兄弟の中で、ヤコブは後に「義人ヤコブ」と呼ばれて、エルサレム教会の中心的な人物となりました。彼は62年にエルサレムで殉教しています(使徒15章13節/ガラテヤ1章19節)。伝承によれば、ヤコブ書はこのヤコブの作とされています。なおこのヤコブは、十二使徒の二人のヤコブのことではありません。
【ヨセ】ここの原文は「ヨセの(兄弟)」ですから、ギリシア語の所有格「ヨーセートス」です。主格は「ヨーセース」(英語は"Joses")で、これの所有格は「ヨーセー」あるいは「ヨーセートス」です。マルコ15章40節/同47節でも所有格の「ヨーセートス」ですが、「ヨーセー」と読む異本もあります。マタイは、主格で「ヨセフ」と呼んでいますが、これには「ヨーセース」と読む異本もあります。しかし、「ヨーセース」も「ヨーセーフ」もヘブライ語名では同じ「ヨーセフ」から出たギリシア名です。マタイ27章56節をも参照してください。 なおマルコ15章40節にはイエスの母マリアのほかに「ヨセの母マリア」がでてきます。彼女はイエスの母マリアの妹だという説もありますが、だとすればヨセはイエスの従兄弟になります。しかし、マルコ15章のこの記事と並行するヨハネ福音書19章25節では、「イエスの母と母の姉妹<と>マリア」とあって、これは母マリアとその姉妹ともう一人別のマリアがいたことを指すと考えられます。したがって3人の女性を指しているのであり、母マリアと「その妹マリア」の二人のことではないでしょう。
【ユダ、シモン】このユダは(英語は"Judas"で裏切り者のJudasと同じです。十二使徒のユダ"Jude"と区別してください)、伝承によればユダ書の作者とされています。しかしユダ書は、1世紀末の作と考えられますから、イエスの兄弟の作としては時期的に遅すぎます。この書はイエスの兄弟ユダの名を用いた偽作であろうと考えられています。こういう諸説が出てくるのは、ひとつには、ここにでてくるイエスの家族の名前が、いずれも当時のパレスチナでは、ごく普通の名前であって、同一人物だと確定することが困難だからです。「シモン」のヘブライ名は「シメオン」ですが、これ以外には知られていません。このように、イエスの家族は、母マリアと義人ヤコブを除いては、新約聖書で採り上げられることがあまりありません。しかし、使徒言行録2章14節にあるように、イエスの復活以後には、その兄弟たちも教会に加わって、「イエスの家族」として、教会で尊ばれたと考えられています〔なおヤコブとユダについては、コイノニアのホームページ「聖書講話」欄→共観福音書講話→「12人を選ぶ」→注釈「アルファイの子ヤコブ」をご覧ください〕。
【姉妹たち】イエスの姉妹たちがでてくるのは、ここと並行するマタイ13章56節の2箇所だけです。伝承によれば、この姉妹たちはルカ8章2~3節にでてくる女性たちに加わっていたとされていますが、確かなことは分かりません。
【つまずいた】原語は「スキャンダリゾー」の受動相不定過去形で、「罠を仕掛ける」「人を躓かせる」「人を罪に陥れる」ことです。受動相では、「(それまで思っていたこととは違っていて)躓く」「(信仰的に)挫折する」「気分を害する」の意味になります。
 ここで人々がイエスに「躓いた」のは、目の前にいるイエスの姿と「かつて」見知っていた過去の姿とが全く異なるために、「これらのこと」、すなわちイエスに起こった出来事に出合って戸惑い恐れたからです。彼らには、イエスの出来事が、嵐の海での弟子たち以上に「謎」だったことが分かります。この出来事に先立って語られている長血を癒された女性やヤイロの娘のよみがえりの出来事に対する人々の反応(5章21節以下)と比較してください。
[4]原文を直訳すれば「預言者は、その故郷とその親族とその家族を除くなら、尊敬されないということはない」です。マタイは、「その親族」だけを省いて、そのほかはマルコをそのまま用いています。『トマス福音書』(31)には「イエスが言った、『預言者は自分の郷里では歓迎されることはないものだ。医者は自分を知っている人々を癒さないものである』」とあります〔『トマス福音書』(2)〕。イエスが語ったこの言葉は、当時よく知られていた諺から来ているのでしょう。あるいは、ヨハネ福音書4章44節から判断すると、イエスは、ユダヤからガリラヤへ行く途中で、サマリアの人たちがイエスを受け入れたことと比較して、ナザレでこの言葉を語ったのでしょうか。ここに「家族」も含まれているのは、マルコ3章20~21節/同31~35節が背景にあるのでしょう(ヨハネ7章1~5節も参照)。
【預言者が】「預言者」とあるのは、この諺が旧約時代から伝えられたことを示しています。しかし、イエス自身も人々から「預言者」と言われました(マルコ6章15節/マタイ21章46節/ヨハネ4章19節)。確かにイエスは、旧約の預言者の伝統的な霊性を受け継いでいると言えます。しかし、先に出てきたように、イエスは預言者だけではなく旧約の知恵の霊統をも受け継ぐ「知恵の人」でもあり、さらに預言者や知恵の人をも越える霊性を宿していたのです(マルコ8章28~29節/マタイ11章9~11節)。
[5]イエスは、不信仰のゆえに祈りを望まない人には、癒しの業を行なおうとはしませんでした。しかし、病人の中には、この際是非イエスの祈りに与りたいと願う人たちがいたのでしょう。イエスは、彼らの願いを受け入れて「両手を(頭に)置いて」按手による癒しの祈りを行なったのです。
[6]多くの注解は、ここでのイエスの「驚き」をイエスの人間性の現われと受けとめています。イエスは、自分をよく見知っているはずの人たちが、どうして信じることができないのだろうと不思議に思ったのです。しかし、イエスはここで、「自分を」信じなかったから人々の不信仰を不思議に思っているのではありません。そうではなく、イエスを通して働く「神のお働きを」信じないことが不思議に思えたのです。このことは、ヨハネ福音書が度々証ししているように、イエス自身、自分を通じて行なわれる「力ある業」が、自分から出たものではなく、ただ神自身が働いていることを知っていたことを意味します。だからイエスは「ごく自然に」、神の聖霊の導くままに癒しや力ある業を行なっていたことが、逆にここでのイエスの驚きに現われているのです。なお、村々を巡り歩いて「教えた」とありますが、この「教えた」には、言葉だけでなく癒しの業なども含まれています(マルコ6章2節)。
■マタイ13章
[53]【これらのたとえ】13章1節から始まる御国についての一連のたとえのことです。これらは、一度に語られたものではありませんが、マタイはここにそれらをまとめたのです。マタイ福音書では、イエスは、このようにひとまとめの教えを「語り終える」と、そこから「場所を変えて」(「立ち去る」の意味)、次の場面へと移行します(7章28節/11章1節/19章1節)。マタイ福音書ではこのように、イエスの語りとイエスの行動/行為とが交互にでてきます。
[54] マタイはマルコの「安息日に」を省いています。会堂で教えるのは安息日であることを聴く人たち/読者がよく知っているからでしょう。彼はまた、マルコ福音書の聴衆が抱いた幾つかの疑問を一つにまとめています。聴衆が「驚きに打たれて言う」は、マルコと同じ言葉でどちらも現在形です。
【教えておられる】は動詞の不定過去形で、ここでは、一度だけでなく同じ動作が繰り返されることです。この言い方から判断すると、マタイは、イエスがユダヤ人たちに教え、その結果彼らの反発を受けることが、ここだけではなく、以後も繰り返されることを示唆しているのでしょう。
【会堂で】原文は「彼らの会堂」です。「彼らの」とあるのは、ユダヤ人と言うよりはユダヤ教徒の意味でしょう(マタイ自身もユダヤ人キリスト教徒です)。ここには、イエスの伝える御国の福音が、伝統的なユダヤ教徒の宗教とは異なることがすでに意識されていると考えられます。
【どこから】聴いている人たちは賛否両方に別れたのでしょうか? イエスに働く霊は、神からか? それとも悪魔からか? その「出所」を問うているのでしょう(マタイ9章34節/12章24節)。
[55]【大工の息子】イエスが「大工の息子」であると述べているのは、ここだけです。なお共観福音書では、イエスの父の名が「ヨセフ」であることもマタイだけが伝えています(マタイ1章16~20節/ヨハネ6章42節を参照)。マルコ福音書では「マリアの息子」とありますが、マタイはこの言い方が不自然なので、マタイ福音書の冒頭の系図に従って(マタイ1章16節)「大工(ヨセフ)の息子」としたのでしょう。ただしヨセフは、イエスが伝道を開始した時にはすでに亡くなっていたと思われます。
【マリア】ギリシア語では「マリアム」で、これのヘブライ語名は「ミリアム」です。なお兄弟の名前では、マルコのギリシア的な「ヨセ」に対してマタイではヘブライ語名の「ヨセフ」となっています。またユダとシモンとの順番をマルコとは逆にシモンを先に置いています。マタイは、シモンがユダよりも年長だと判断したからでしょう。ローマ・カトリック教会では、マリアが生涯処女であったという教義から、イエスの兄弟姉妹たちはその従兄弟/従姉妹であったとしています。しかしこれは、今回の聖書の証言にあるとおり事実ではありません。
[56]【この人は】新共同訳の「この人は~」は、原文では「これらすべては、いったいどこから?」です。イエスは自分を通して働いている「知恵と力」が、神から降る上からの聖霊であることをはっきりと証ししたのでしょう(ヨハネ6章41~44節を参照)。なおマタイは「躓く」を11章6節/13章21節でも用いています。
[57] ~ [58]マタイはマルコ6章4~6節の用語を用いつつも全体を縮めて簡潔にしています。
【家族】マタイは、マルコにある「親族」を省いています。マタイの頃には、イエスの親族/家族は、教会で尊敬を受けていたからでしょうか。ここで「家族」(ギリシア語「オイコス」)と訳された言葉には「町/市」の意味もありますから、もしもこの意味だとすれば、ここは「故郷の里や町で」のことになり、家族も親戚もでてこないことになります。マタイはマルコの記事をこのように言い換えて、イエスの親族/家族への言及を省いたのかもしれません〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。マタイはまた、マルコの「(イエスは)力ある業を一つも<できなかった>」とあるのから、「できなかった」を省いています。
 
■ルカ4章
[16]~[17]【お育ちになった】原文は、「そこでイエスはナザレへ来られたが、そこはお育ちになった所であった」です。イエスの頃のナザレの人口は、500人足らず(おそらく、ほとんどがユダヤ人/ユダヤ教徒)ですから、互いに顔見知りだったと思われます。ここの「ナザレ」のギリシア語は「ナザラ」(アラム語の読み)です。通常は「ナザレト」"Nazaret/th"(マタイ2章23節/マルコ1章9節/ルカ2章4節)ですが、「ナザラ」はこことマタイ4章13節だけです。このやや変則なギリシア語読みは、マタイやルカから出たものではなく、イエス様語録の読みからではないかと思われます〔ヘルメネイアQ42頁〕。
【いつものとおり】原文は「彼がいつもしているように」です。イエスは、どのユダヤ教徒もするように、安息日には必ず会堂へ出かけたことが分かります。ナザレの会堂は、かなり急斜面な丘の麓にあって、しかも、そこだけ少し高くなっていたのでしょうか(発掘の結果、現在の聖告知教会の基礎部分が、会堂の様式に従っていることが分かりました。ナザレの会堂は、聖告知教会が建っている場所にあったのかもしれません)。
【会堂】「会堂」(ギリシア語「シュナゴーグ」。ヘブライ語「カーハール」。アラム語「ベト・クネーセト」)は、ユダヤ人たちの「集会」の意味で、必ずしも「建物」を指す用語ではありません。別名「祈り(の家)」(ギリシア語「プロセウケー」)とも呼ばれました。「集まり」「祈り」は、同時にユダヤ教の礼拝の場(建物)をも指します。イスラエルの「会堂」は、捕囚時代にさかのぼるもので(紀元前6世紀)、神殿を失ったイスラエルの民が、捕囚の地で礼拝のために集まったのがその起源とされています。しかし、実際に会堂が制度として定着するのは、第二神殿時代の前3世紀の終わり頃から前2世紀になってからです。だから、イエスの頃は、安息日制度と共に会堂制度も確立していたと考えられます。
 会堂は、律法(トーラー)を納めた聖櫃の保管場所であるだけでなく、礼拝、子供の教育、集会、裁判などの場でもあり、会堂長が管理運営していました(会堂の建物については、コイノニア会ホームページ→共観福音書講話と注釈→カファルナウムの悪霊追放→注釈→マルコ1章21節→「会堂」を、また会堂長については、同ホームページ→出血の女性とヤイロの娘→注釈→マルコ5章22節→「会堂長」をご覧ください)。
 金曜日の夕方、星が三つ見えると、会堂長は羊の角でできた角笛(ツォファール)を鳴らして安息日を告げます(当時のイスラエルは太陰暦で夕方から1日が始まります)。その時から土曜日の安息日に入ります。すると家ごとに、予め用意してあった安息日のテーブルに着き、祈りと賛美の後で安息日の食事とワインを採ります。この日は労働が禁じられています。朝になると、家族で会堂の礼拝に出かけます。会堂の入り口には、浄めの水槽が置いてあって、人々は入る時に、その水で簡単な浄めの仕草をします。会堂には左右にベンチ状の座席があり(カファルナウムの会堂では長い石の座席)、長老や主立った人たちはベンチに座りましたが、その他の人たちは、土か石畳の床に座りました。講壇の奥か脇には律法を納めた聖櫃があり、7本足の燭台(メノラー)も灯されていました。朗読は壇の上で行なわれ、祈祷は立って両手を挙げて行なわれるのが一般的だったようです。
 礼拝では最初に神への感謝が捧げられ、これに続いて、「シェマ」と呼ばれるイスラエルの民の告白文(申命記6章4~9節/11章13~21節/民数記15章37~41節を併せたもの)が、予め会堂長によって指名されていた者によって、エルサレムの方角を向いて唱えられ、会衆はこれに「アーメン」で応唱します。このシェマの後に、賛美の詩編など、定められた祈祷が行なわれましたがその内容は時代によって変化したようです(いわゆる「十八祈祷文」や詩編51篇15節など)。
 これが済むと、律法が会堂の聖櫃(せいひつ)から取り出されます。律法は、大きな円筒状の巻物で、会堂の正面の奥あるいは講壇の脇に納められてあり、これを守るのが会堂長の大事な役目でした。まず、「トーラー」と呼ばれるモーセ五書の中からの朗読があります。この朗読は安息日ごとに朗読するように154回に分けられていて、3年間でひとめぐりするように定められていました。次に「ハプターラー」(結尾)と呼ばれる預言書からの抜粋の朗読が行なわれ、これで聖書朗読が終わります。シェマとトーラーは、予め会堂長によて指名された人が行ない、後には、読む箇所も日によって決められていました。しかし預言書(ハプターラー)のほうは、指名された者が自由に選ぶことができたのかどうか? この点がよく分かりません。
 次に、「デラシャー」と呼ばれる簡単な説教が行なわれました(イエスもルカ4章21節にあるように、ごく簡単に語っています)。これは通常、トーラーあるいはハプターラーを朗読した者によって語られましたが、祭司などふさわしい人がいる場合には、その人が語りました。最後に、祝祷が捧げられて礼拝が終わります。シェマも祈祷もトーラーとハプターラーの朗読も、成人の男子であれば誰でも予め会堂長によって指名されました。
【聖書を朗読】ここでは、会堂の礼拝で定められた預言書からの朗読のことです。紀元1世紀のイエスの時代に、モーセ5書(トーラー)と同様に、預言書からの朗読もその日の日課として決められていたかどうかについては疑問があります。ただし、預言書の朗読は、前もって会堂長からイエスに要請されていたと思われます。
【目に留まった】イザヤ書の巻物が「手渡された」とあり、「広げたら」その箇所がイエスの「目に留まった」とあります。これは、たまたまその箇所が「目に留まった」とも受け取れますが、確かなことは分かりません。おそらくその日のためのイザヤ書の朗読の箇所が決められていたのではないでしょうか。そうだとすれば、イエスに当てられたのがイザヤ書であったことになります。どちらにしても、その箇所が、イエスに「示された」あるいは「与えられた」箇所であったことに変わりありません。なお、当時のパレスチナでは、アラム語が話されていましたから、ヘブライ語の聖書は一般の人にはよく理解できませんでした。したがって、聖書朗読の後で、アラム語の訳が語られたはずですが、ここにはそのことはでていません。
 なお、「聖書」を表わす場合、ルカは通常「ビブロス」(ルカ3章4節)を用いるのですが、ここでは「ビブリオン」(アラム語?)となっていて、ルカが資料を用いていることが分かります。ちなみに、ルカ福音書のこの箇所は、1世紀のパレスチナの礼拝を記した貴重な箇所だとされています。ルカは、ここを彼独自の資料(いわゆる「ルカの特殊資料/独自資料」)を用いて書いているのです。
[18]~[19]ここにでてくる聖書の引用は、イザヤ書61章1節~2節前半の七十人訳からです。ただし、イザヤ61章1節の中の「打ち砕かれた心を包み」〔新共同訳のヘブライ語原典訳を参照してください〕が抜けています。ここの引用は、イエスが、洗礼者ヨハネの弟子たちの質問に答えているイエス様語録(7:22)の次の言葉が背景になっていると見ることができます。なお、イエス様語録のこの箇所は、ルカ4章18~19節/ルカ7章22節/マタイ11章4~5節の基となっています。
 
するとイエスは彼らに答えて言われた。
「行って、あなたが見聞きしたことをヨハネに告げなさい。
目の見えない者は見えるようになり
足の不自由な者は歩き、
皮膚病を患っている者は浄められ、
耳の不自由な者は聞こえ、
死者は生き返らされ
そして貧しい者たちには
福音が伝えられている。」
〔ヘルメネイアQ124頁〕
 
 ここには、イザヤ書29章18節/同35章5~6節/同8節/同26章19節/同61章1節などがまとめられています。
 なおここで、イザヤ書のこの箇所について述べておきます。イザヤ書61章は、第三イザヤに属していて、ユダヤの民が捕囚から帰還した後の第二神殿時代、おそらく前515年頃のものでしょう。61章は、捕囚から帰還した民によるエルサレムの復興を告げる箇所で、「語る者」と「ペルシアの行政官」と「ヤハウェ」の3者が、交互に語る詩劇の構成を取っています。「語る者」とは、ペルシア王アルタクセルクセスからエルサレム再建のために派遣され、律法と契約の書を新たに布告した祭司エズラのことであろうと思われます(エズラ記7章)。ペルシアの行政官とは、事実上アルタクセルクセス王のことです。イエスが引用したのは、その最初の場面で、ヤハウェに油注がれて遣わされた者が、「ヤハウェの恵みの年」を告げ知らせるために、自分のことを紹介する部分です。
【主の霊が】ヘブライ語原典は「主ヤハウェの霊」ですが、七十人訳では「主の霊」です。「油」は神の霊の表象で、イスラエルでは王の即位と大祭司の任命の時に、その頭に油が注がれました。しかし、このような場合に限らず、神から特別の恵みが注がれることも「油注ぎ」と言われました。「油を注ぐ」は、ギリシア語で「クリオー」で、これの名詞形「クリストス」(キリスト)は、「油を注がれた者」のことで、特別に神の聖霊が降された人、すなわち「メシア」を指しています。ヘブライ語の「メシア」が、イエス復活以後の教会で「キリスト」と称されました。だから、今回の引用全体は、イエスがこの油注がれたメシアであることをユダヤの会堂で告知したことを表わしています。しかし、「主の霊」とあるのが示すように、ここで語られているのは、イエスがメシアであることよりも、むしろ、イエスこそ主から「聖霊を注がれた者」であることなのです。聖霊の注ぎを特に「~のために」と強調しているのに注意してください。これは、聖霊が、ある目的を持って「働く」からです。聖霊の注ぎがイエスに与えられた時をルカはイエスの洗礼の時だと見ています(ルカ3章22節)。ルカは、イエスの受洗と荒れ野での試練の後で、ガリラヤへ戻ってからの最初の大きな出来事として、ナザレの出来事を置いています。これは、イエスこそ聖霊によって油注がれたメシア/キリストであることを告知するためでしょう。
【福音を告げ知らせ】「福音」と訳されているヘブライ語は、動詞で「バーサル」(よい知らせを伝える)です。これが七十人訳では「エウアンゲリゾー」(福音を伝える)と訳されました(英語の"evangelize")。「福音」(エウアンゲリオン)"evangel"は、これの名詞形です。第三イザヤのこの用語は、第二イザヤの52章7節「良い知らせを伝える者」から来ているのでしょう。先にあげたイエス様語録に、「貧しい者たちには福音が伝えられている」とありますから、ここの「貧しい者たちに福音を告げるため」とあるルカの資料は、このイエス様語録から来ていると思われます。イザヤがここで「わたし」として語っているのは、「ヤハウェの僕(しもべ)」"the Servant of Yahweh"として、民のために主から遣わされた「受難の僕」のことです(イザヤ書53章参照)。原初のキリスト教会は、この「ヤハウェの僕」を来たるべきメシアへの預言と見なし、十字架の受難を経て復活したイエスをこの「主ヤハウェの僕」と同一視して、イエスこそ贖いのキリストであることを証ししました。
【貧しい人】「貧しい人たち」とは、ヘブライ語では「ヤハウェに忠実な者たち」「へりくだる者たち」「(為政者に)苦しめられる者たち」のことですが、イザヤはここで、特にバビロニアに捕囚となったイスラエルの民のことを指しています。ただし、イエスがここで、「ローマ帝国の支配下にある」ガリラヤの人たちをこの「貧しい人たち」と同一視して、民衆の政治的・社会的な解放を訴えていると解釈する必要はないでしょう。「主の御霊の働き」が、社会的な解放をも含む現実性を具えた「霊性」を与えるのは事実です。しかし、御霊は、まず個人の身体とその霊性に働きかけて、人々を神の国へ導くのです。御国の霊性は終末的な様相を帯びていますから、これを直ちに社会的な「革命」に結びつけることはできません。なお、「貧しい者たちに福音を伝えるために」は、その前の「油を注がれた」にかかるのか、後の「主がわたしを遣わされた」にかかるのか、この点について七十人訳では両方の読み方があります。ヘブライ語原典は後のほうで、「主はわたしを遣わす」にかかりますが〔新共同訳〕、ここの七十人訳からの引用のほうは、通常前にかけて訳しています〔新共同訳〕〔岩波訳〕〔NRSV〕〔ただしThe Revised English Bibleは「遣わす」にかけています〕。
【解放を】「捕らわれている人」とは、ここでは捕囚の民のことですが、より一般的に戦争での捕虜たちや債務のために牢獄に入れられている人たちを指します。「解放する」は19節の「主の恵みの年」に関係しています。負債のために土地などを奪われて農奴/奴隷状態に置かれていた人たちが、50年目ごとに(あるいは7年目の場合もあります)、その負債が取り消されて再び自由になることができる年のことで、これを「ヨベルの年」(解放/喜びの年)と呼んでいます(レビ記25章8~15節)。なお、七十人訳は、ヘブライ語原典に従って「(解放を)告げる/告知する」と訳していますが、イエスが引用した文では「宣べ伝える」とあって、七十人訳とは異なる動詞が使われています。おそらくルカは、「福音を告知する」という言い方を避けて、キリスト教会で用いられている「福音を宣べ伝える」という言い方に変えたのでしょう。
【圧迫されている人】4章16節にある「圧迫されている人たちを自由にする」だけは、イザヤ58章6節からです。だから、イエスが朗読したイザヤ61章1節では、原典と七十人訳にある「打ち砕かれた心を包み」が省かれていて〔新共同訳を参照〕、その代わりにイザヤ58章6節の「打ち砕かれた者たちを自由にするために遣わす」(七十人訳の直訳)が挿入されていることになります。58章6節の七十人訳のギリシア語では、「遣わす」が新約での「使徒として遣わす」ことと同じ動詞であり、また「自由にする/解放する」が、同時に「赦し」をも表わす言葉になっています。わざわざ58章6節をここに入れているのは、おそらくこの6節のギリシア語訳から、「使徒を遣わして罪の赦しを伝える」という意味を読み取ることができるからでしょう。イザヤ書の2箇所からの引用が組み合わされているのは、当日の朗読の日課で、そのように組み合わされていたからでしょうか? あるいは、後になって、キリスト教会が入れ替えたのでしょうか? 上に述べた理由から判断するなら、ここはルカあるいは最初期の教会による変更であろうと思われます。 
【主の恵みの年】ヘブライ語の原義は「ヤハウェの善意/喜び/恵みの年」です。七十人訳では「受け入れの年」と訳されています。これはほんらい解放の「ヨベルの年」のことですが、ここでは、イエスに降った主の御霊によって、この世に神の国が訪れて、最終的な解放が「開始した」ことを指しています。この意味での「主の恵みの年」は、「終末的な」解放の年を意味しています。ただし「終末的」とは、「見えない人の視力が回復する」とあるように、すでに現実に御国が「来ている」こと、現在すでに出来事として「始まって」いることなのです。
 なお七十人訳の「受け入れる」は、遣わされた人を「受け入れる」こと、すなわちその人が伝える福音を信じることを意味しています(使徒10章35節)。ここでは、4章24節で人々がイエスを「受け入れる/ない」ことと関連しているのかもしれません。また、原典と七十人訳には、61章2節までの引用箇所に続いて、「わたしたちの神が報復してくださる年を告知する」とありますが、ここでは「報復してくださる」の前で引用が切れています。「主の恵みの年」とありますから、「報復」が内容的にイエスの福音に合わないからでしょうか。
[20]~[21]【係の者】会堂には、会堂長と長老たち(ルカ7章3節)の他に「係の者」、すなわち下役がいたようです(マタイ5章25節)。
【座られた】朗読は立って行なっていたのですが、読み終えるとイエスはその席に座ったのです。これは、朗読から説教に入ることを意味します。ユダヤのラビたちは、通常教える時には「座った」からです。
【目が注がれて】「目を注ぐ」はルカが大事なことを語る時によく用いる言い方です(ルカ22章56節/使徒1章10節/同3章4節/同6章15節など)。これは尊敬と信頼の態度を意味しますから、会堂の人たちは、これからイエスが話そうとすることに関心を向けていたことが分かります。そこでイエスは「話し始めた」のです。会堂での説教は、通常朗読した箇所について短く語られました。ここでもイエスの言葉はそれほど長くはなかったと思われますが、それでも、「話し始めるにつれて」聴衆の態度が変化してきたのです。
【今日】ルカは、イエスがこの地上に生存していた期間を特別の啓示の時として重視しています。特に神の国の啓示が、イエスに宿る御霊の働きによって、この時点で「成就した」と見ていたからです。ルカの言う「この時点/時」は、イエスが語った時点を指していますけれども、その時点での出来事は、ルカから、あるいはわたしたちから見て、過ぎ去った過去のことではなく、そこから「始まって」現在もなお続いていることを意味します(マルコ1章15節/第二コリント6章2節)。
【耳にした】原文は「あなたがたの耳において(成就した)」で、これはヘブライ的な言い方です。先に「目が注がれ」、さらに「耳にする」が来て、次に22節の「証しする」が続きます。
【実現した】原語は「満ちた」「成就した」(完了形)で、神が予め預言していたその時が到来して、預言が成就したことを指します。マタイ福音書やマルコ福音書では、イエスの伝える「神の国が到来した」ことが、聖霊の働きによって証しされます。ルカ福音書では、御国の到来と成就よりも、聖霊の働きがイエス自身と一体となっているところにその特徴があります。聖書の預言が、今目の前にいる「イエスにおいて」成就した。このことがここで告げられるのです。そして、まさにこのことが、ナザレの人々の躓きの原因になります。なお、福音が、御霊にあって、イエスと同一視されるこの傾向は、ヨハネ福音書ではいっそう顕著になります。
[22]【イエスをほめ】原文は「すると全員がイエスについて証しをし、そして(イエスの言葉に)驚いて、そして言った~」です。「ほめる」〔新共同訳〕と訳された原語は「証しする」"testify"です。この動詞は、ある人について良いことあるいは悪いことを証言して言うことですから、イエスを「ほめた」あるいは「非難した」のどちらの意味にもなります。これに続く「驚く」という動詞も、「感心して驚く」ことと同時に「予期しなかったことを非難して驚く」(ガラテヤ1章6節)ことも指します。だから、これら二つの動詞は、両方の意味に受け取ることができます。
 この節の前半を「イエスをほめて、その言葉に感心して驚いて言った」と解釈すると、後半の「この者は(やや軽蔑をこめた意味)ヨセフの息子でないか!」という批判と内容的にうまくつながらなくなります。「証しした」を「顔見知りのイエスを批判した」という意味にとり、「驚いた」を「あまりに意外で戸惑い批判した」ととれば、後のほうと内容的に一貫します(この場合「イエスの口から出る<恵みの>言葉」の意味が問題になりましょう)。あるいは、人々は、初めはイエスの恵み深い言葉を聞いて驚いたり感心したりしていたのが(動詞はどちらも不定過去形)、やがてその態度が、「ヨセフの息子なのに、なぜ?」という非難に変わったと理解することもできましょう。もしもそうだとすれば、イエスは、初めは朗読した「聖書の解釈」を語っていたので、人々はその知恵に感心して聴いていたのでしょうが、やがてその解釈が、イエスの語る「恵み」の内容に触れてくると、人々は、聖書解釈からイエス自身へと目を向け始めて、賞賛が非難に急変していった、という状況が浮かび上がってきます。
【恵み深い言葉】23節以下のイエスの説明から逆に判断すると、ここでの「恵みの言葉」とは、ユダヤ人以外の異邦人や、人々から排除された卑しい人に向けられる「神の恵み」の意味であって、イエスの(そしてルカの)言うこの意味での「恵みの言葉」が、聴いているナザレの人たちには少しも「恵み」とは聞こえなかったのでしょう。マルコ福音書に「この者に与えられた知恵(の言葉)は、いったいなんだ!」(6章2節)とあるのも、このような意外さと驚きと非難の言葉かもしれません。
【ヨセフの子】マルコ福音書では「マリアの息子」となっています。ルカだけが、イエスをユダヤの習慣に従って父系で呼んでいますが、これはイエスに働く「神の御霊」の力と対照させて、イエスが「素性の知れた人間」にすぎないことを意識しているからでしょう。「しかし彼らは繰り返し言った。『この者は、ヨセフの息子ではないか。』」〔岩波訳〕
[23]マルコ福音書とマタイ福音書では、22節に続いて人々はイエスの家族のことを口にしています。これに対してルカ福音書では、家族のことには触れず、医者についての諺がイエスの口から引用されます。その後で、共観福音書と共通して、預言者についての諺が続くのです。医者と預言者とを並べた理由は、その両方に共通する「郷里/祖国」です。
【医者よ】ここでイエスが引用した諺に類似したものは、ギリシアの作家にもユダヤのラビの書いたものにも見ることができます。イエスはこのように、しばしば、一般に知られている諺を引いて語りました。ここで語られる諺は、日本で言う「紺屋(こうや)の白袴」「医者の不養生」と同じで、人のために尽くすあまり自分のことにはかまっておれないことを指します。ルカはこれが、イエスを言い表わす適切な諺であると思ったのでしょう(ルカ23章35節参照)。
 しかし、イエスがここで引用している諺は、このような自己犠牲の意味だけではなく、そこに人々の皮肉がこめられていると指摘されています。ここで、「自分自身を癒せ」とある「自分」とは「自分の郷里」のことを示唆していると受け取ることができるからです。言うまでもなく、イエスは癒しを行ないますが、医者ではなく「預言者」(ナザレの人たちから見ると)です。だから、「あなたが(病気癒しの)預言者なら、先ず、自分の故郷(の人たち)を癒せ!」という皮肉が、ここにこめられているのです。
【カファルナウムで】ルカは、イエスがナザレを訪れる前に、すでに「ガリラヤ地方一帯で」多くの癒しを行なっていることを知っています。しかしルカはあえて、先ずこのナザレの出来事から始めて、これをカファルナウムの出来事の前に置いています。だからここで「あなたたちは言うにちがいない」とあるのは、「あなたたちは、今にきっと、カファルナウムで行なったように~と言うようになるだろう」とイエスが予測していることにもなりましょう。このような「前もって予測したような」言い方は不自然な感じを与えます。マルコ福音書では、カファルナウムの出来事が先で、ナザレ訪問は、その後のことになっています。これだと、ナザレの人たちが、カファルナウムと比較して、癒しを求める理由が理解できます。ルカは、おそらくこのことを知っていて、しかも意図的にナザレの場面をカファルナウムの前に置いたために、イエスの言葉が、このようにやや不自然な言い方になったのでしょうか。
[24]【はっきり】原語は「アーメン」です。23節は「預言者」に対するナザレの人々の要求ですが、24節は「預言者」に対するイエスの見方を示すものです。これが彼らに対するイエスの答えです。「アーメン」で始まるこの言葉は、イエスにさかのぼると思われる大事なメッセージとして四福音書全部にでてきます。預言者についてのこの諺は、これが置かれている位置によって、前後関係の意味がはっきりしないところがありますから、おそらくこれだけが単独で伝えられた伝承だと考えられます。
【預言者は】ここでルカはマルコの資料によっていますが、マルコにある「親戚や家族」を省いて、その上で、マルコの言い方を変えています。マルコ福音書の言葉では、預言者はその故郷「以外では受け入れられる」ことが言外に含まれていますが、ルカ福音書では、はっきりと拒否されることだけが語られています。おそらくルカは、ここの「故郷」にイエスの「祖国」(ユダヤ)の意味をも含ませているのでしょう。ルカ福音書の読者の大部分にとっては、イエスは「ユダヤの国」の人であり、福音はそこから始まったものの、同時にそこは、イエスが拒否された「故郷/祖国」でもあったからです。
 なお、ヨハネ福音書4章44節にも、こことほぼ同じ言い方がでてきますが、ヨハネ福音書では、イエスの言う「自分の故郷」に問題があります。「故郷」をガリラヤのことだと理解すると、すぐその後に、ガリラヤの人たちがイエスを歓迎したとあるからです。このために、ヨハネ福音書の言う「故郷」には二つの説があります。(1)「ガリラヤ」とは区別された意味での「ユダヤ」を指している〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ここで言う「ユダヤ」は、ルカの言うパレスチナ全土のことではありませんから、指している内容が少し異なります。しかし、イエスを「ユダヤ人」と見る点では共通していると言えましょう。(2)共観福音書と同じで、「故郷」はガリラヤを指している〔ブラウン『ヨハネ福音書』〕〔ブルトマン『ヨハネ福音書』〕〔バルト『ヨハネ福音書』〕。この解釈では、たとえガリラヤの人たちがイエスを歓迎したとしても、それはイエスの真意を正しく理解したからではなく、このために、結局はイエスを拒む結果になったと見ています(ヨハネ6章15節/同26節)。おそらく(2)のほうがより適切でしょう。
[25]~[27]以下でイエスは、イスラエルの人たちが親しんでいる二人の預言者エリヤとその弟子であるエリシャ(列王記下2章を参照)の例を引いています。二人とも、イザヤを初めとするいわゆる記述預言者たち(文書として残っている預言者たち)に先立つ時代に現われた代表的な預言者です。エリヤについては列王記上17章~19章/列王記下1章~2章を、エリシャについては列王記下2章1節~8章15節を参照してください。
【確かに】原文は「ほんとうに」です(ルカ20章21節/22章59節)。しかし、ここでは「アーメン、(あなたたちに言う)」と同じ意味です。
【エリヤの時代】ここに引用されている話は、列王記上17章1節~18章1節にでています。エリヤの場合は、自分の国である北イスラエル王国が、干ばつに見舞われたためにシドンの地へ逃れたのですから、エリヤは(エリシャも)、必ずしも自国の民に拒否されたから異邦の地へ向かったのではありません。しかし、イエスはここで、この二人の預言者たちが、民の不信仰のために、ほんらい遣わされた民の間で神の業を行なうことができなくなったために、異邦人のところへ遣わされたことの例としてあげています。
 ここ25~27節は、ルカだけが用いている資料です。この部分のメッセージはイエスにさかのぼると思われますが、ルカの資料では、ここだけが独立してイエスのメッセージとして伝えられていたのかもしれません。だとすれば、ルカがこれをここで用いているのは、福音が、イエスの祖国の民であるユダヤ人から異邦人の世界へと広がり、70年のエルサレム滅亡を境に、次第に異邦の世界へと「転移」されてきたことを重ねていると思われます。イエスが引用した二つの事例は、共にシリアに関係しています。初期の教会時代に、異邦人キリスト教徒が中心となっていた教会が、シリアのアンティオキアにありましたから、ルカはアンティオキア教会から、この資料を得ているのかもしれません〔ボヴォン『ルカ福音書』〕。
【三年六か月】列王記上18章1節では「3年」です。「3年6ヶ月」とあるのは、ダニエル書12章11節に「憎むべき荒廃をもたらす者が立てられてから1290日が定められている」とあることからでています。ダニエル書でのこの日数は、セレウコス朝のアンティオコス4世が、イスラエルに侵攻して(前167~164年)、エルサレム神殿に偶像を置き、イスラエルの民に偶像礼拝を強制した期間のことを指しています(マルコ13章14節を参照)。当時のイスラエルの暦は太陰暦で、1年は360日でしたから、1290日は3年と210日で、3年7か月(ほぼ3年半)になります。ダニエル書では、この期間が、神の民が迫害を受ける「苦難の期間」とされているので、これ以後の黙示思想において、「3年半」は、神の民への迫害と「苦難の期間」を表わす「しるし/表象」となりました。この故事から、新約聖書でも「3年半」が、「試練の時」「苦難の時」を表わすようになりました(ダニエル書7章25節/ヤコブ5章17節/黙示録11章3節/同12章6節。ヨハネ黙示録では「1260日」とありますが、これは「3年半」に合わせるためにダニエル書の日数「1290日」=3年7か月を「1260日」=3年6か月にしたと思われます)。
【遣わされないで】ここではエリヤが「遣わされた」とあり、27節では、エリシャによってナアマンが「清くされた」と受動相が使われています。このような受動は、「神によってなされた」ことを表わす特殊な受動相の用法で、「神学的受動」と呼ばれています。
【サレプタ】サレプタは、地中海沿岸沿いのティルスとシドンとの間にある町です(原文の「シドンの地のサレプタ」という言い方は七十人訳から)。この地帯は、イスラエルの民がカナンに入る以前から、カナンの住民たちが居住していた地域で、エリヤの時代には、北イスラエル王国の北方にあたるバアル崇拝の地であり、イエスの時代でも、ガリラヤから見れば、異邦人の地域と見なされていました。
【シリア人ナアマン】ここにでている故事は、列王記下7章に詳しく語られています。ナアマンは、この話から、「神を敬う謙虚は異邦人」の模範と見なされていました。この物語は、主なる神が、人を偏り見ることをせず、神の前にへりくだる者には、異邦人にも救いを与えることの事例として、人々によく知られていたのです。
[28]~[30]【憤慨し】原語は「激しい感情的な怒りに満たされた」「激怒した」です。イエスが、異邦人「以外にだれ一人として」と言ったことから、最優先されるべき自分たちが最後に残されたと感じたからでしょうか。特にこの日は安息日ですから、以下で行なわれたことは、正式な処刑ではなくリンチ(私刑)です。このような場合、ユダヤでは、通常石打の刑が用いられました。最初のキリスト教会への迫害で起こったステファノの殉教(使徒7章54~60節)の場合のように、処刑する者を崖から突き落として、上から石を代わる代わる投げつける方法がとられました(ステファノが殉教したエルサレムの城壁の下には、現在、聖ステファノ教会が建っています)。マルコ福音書では、人々の「不信仰のゆえに」癒しをあまり行なうことができなかったとありますから、ルカ福音書のこの状況とはかなり異なっています。このために、ルカはこの出来事をエルサレムでのイエスの受難への予兆と見ていると指摘されています。
【町が建っている山】ナザレの町は、山の上ではなく、丘陵地帯の中の盆地にあり、丘の中腹から平地にかけて町があります。この地理関係はイエスの頃も変わらなかったと思われます。おそらく人々は、「町の外へ」イエスを連れ出して、急斜面の崖へ連れて行き、そこからイエスを突き落として、石打にしようと思ったのでしょう。ルカの資料に「彼(イエス)を崖から落とすために」とあったので、ルカは、ナザレが「山の上に建っている」と思い違いをしたのではないでしょうか。
【通り抜けて】ルカは、イエスが地上にいた期間は、特別な啓示の期間であり、神が定めた「時が来るまで」は、悪魔はイエスに手出しができなかったと見ています(ルカ4章13節と22章3節とを比較してください)。この点で、ヨハネ福音書と共通しています(ヨハネ7章6節/同30節/8章20節)。
【立ち去る】原語は「進んで行った」「旅/歩みを続けていった」(不定過去形)です。これはルカ独特の言い方で、イエスが神の定めた道行きを歩み続けることを指しています(ルカ7章6節/同11節/9章51節など)。特にここでは、イエスの受難がはっきりと予告され、イエスはこれに向かって「歩みを続けた」ことが示されているのです。
                           戻る