75章 恐れず言い表わす
マタイ10章26〜33節/ルカ12章2〜9節
【聖句】
イエス様語録
覆われているもので露わにされないものはなく、
隠されているもので知られずに済むものはない。
闇の中であなたがたに言うことを、光の中で言いなさい。
耳の側で言われたことを、屋根の上で言い広めなさい。
恐れるな、体を殺しても、魂は殺すことができない者どもを。
恐れなさい、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を。
  五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。
  だが、その一羽さえ、あなたがたの父のみ心なしに、地に落ちることはない。
  あなたがたは、その髪の毛一本までも数えられているのだから。
恐れるな、あなたがたは、多くの雀よりも尊い。
だれでも人々の前でわたしのために言い表す者を
  人の子も天使たちの前で、その人のために言い表す。
しかし、人々の前でわたしを否認する者を、
  人の子も天使たちの前で否認する。
 
マタイ10章
26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
28体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
32「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
 
ルカ12章
2覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
3だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
4「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
5だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
6五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
7それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
8「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。
9しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。

                      【注釈】
 
【講話】
■「幸せ」と「幸い」
 「幸せ」というのは英語では"happy"ですが、これは"happen"から来ています。だから、もともとは「偶然な」とか「たまたま幸運にも」の意味でした。だから、自分はたまたま巡り合わせが善かったという意味で、人は自分が「幸せだ」と思うのです。多くの人は、たまたま「運がよかった」と言う代わりに「神様のおかげだ」などと言いますが、神様のお働きをこういう「幸運」と結びつけているようです。
 しかしわたしに言わせると、こういう「幸運の神頼み」は「信仰」とは言えません。信仰は祈りと切り離すことができませんから、祈りの中で神にお願いしていたことがかなえられると「ああ、やっぱり神様は働いてくださった」、こう思うのです。人目には「偶然」と思われるかもしれませんが、信仰に生きる人には「やっぱり」なんです。それは「神のお導き」にほかならないからです。こういう時には「幸せ」と言うよりも「幸い」だと思うのです。詩編の1篇は「いかに幸いなことか」で始まりますが、聖書では「幸せ」よりも「幸い」のほうがふさわしいのです。なぜなら、偶然ではなく、神様が自分の願いを聞き入れてくださったこと、神様が自分と共にいてくださること、これが体験できたことが幸いだからです。そこから神への感謝の気持ちが湧いてきます。このほうが、結果の「幸せ」よりも大事なのです。結果以上に、そこへいたる信仰の歩みのほうに喜びを見いだすのです。信仰者にとって、これは偶然ではなく、神の「祝福」なのです。偶然の「幸せ」は長続きしないかもしれません。しかし、祝福による「幸い」はいつまでもなくならないのです。
■摂理について
 今度は逆の場合を考えてみましょう。人は何らかの不幸や辛い目に出逢うと「運が悪い」と思うものです。その結果がどうにもならない時には、これが自分の「運命」だ、あるいは「定め」だと思うようになります。仏教的に言えば「因果」だと観念します。クリスチャンの場合でも、こういう辛い時には、それが「神様のお導きだ」と思うことはなかなかできません。ヨブは多くの苦難を背負わされて、いったい神はなぜ自分にこのような苦難を強いるのか? と神に向かって迫ります。ヨブのこの疑問と迫りの背景には、イスラエルの民のバビロンへの捕囚という苛酷な体験がありました。イスラエルの民の中には、このような苦難は、イスラエルが神に罪を犯したからだと考える人たちもいました。しかし、ヨブは、そのような説明では納得しなかったのです。
 苦難の中にあっても、そこになおも「神の導き」を見いだすとすれば、その苦難には何か自分には分からない神の導きが「隠されている」ことを知る以外にありません。幸いな時、苦難の時、これらを含めて一貫してそこに神の導きを見ること、これを神の「摂理」(せつり)と言います。摂理に「偶然」は存在しません。すべては、神のご計画の内にすでに含まれているからです。摂理は「運命」や「定め/宿命」ではありません。「運命」や「宿命」には、目的が存在しませんが、摂理には目的があるからです。
 イエス様が盲人に出会った時に、弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、先祖のせいなのですか? それとも本人のせいなのですか?」と尋ねます(ヨハネ9章)。するとイエス様は言われた。「先祖のせいでも、本人のせいでもない。ただ神の栄光が顕われるためです。」イエス様は、人の不幸を過去の誰かのせい、あるいは現在の誰かのせいになさらなかった。そこに未来に向かう神の目的/導きを観たのです。「定め/宿命」は変えることができませんが、摂理は、神のみ心によって事態を新しい方向へと変える働きをするのです。神は、偶然や宿命を超えて、創造する方だからです。このように摂理は目的を伴いますから、現在の苦難に意義を見いだすことができます。これこそ、人が苦難に耐える力なのです。
■偽るな
 ところが現実に多くの場合、摂理はわたしたちから「隠されて」います。少なくとも「今のわたしたちの時」からは見えません。「神の摂理」を英語で"the Providence of God"と言いますが、これは「前もって見る」ことです。神は出来事をそれが起こる前からすでに「見ておられ」ます。同時にその出来事の結果もすでに「見ておられる」のです。ところがわたしたち人間には、神の摂理が「見えません」。辛い時、苦しい時などは、嵐の時の弟子たちのように、あわて惑います。
 そんな時でも、神の御手に自分を委ねることができるとすれば、それは祈りだけです。このような祈りは、「困った時の神頼み」ではありません。なぜなら、そのような祈りは、わたしたちの内から出てくるのではなく、神のお働き、すなわち、イエス様の御霊のお働きによってもたらされるからです。人の力が消えるところに神の力が働くのです。神のお働きそれ自体が、その人にあって祈る祈りは、神がすでに「見ておられる」そのことを、たとえぼんやりでも、その人に「映し出す」のです。預言者たちが見たヴィジョンは、このようにして与えられました。新約の使徒たちやヨハネ黙示録の作者も同様です。
 だからわたしたちは、たとえ苦難の中にあっても、「強がる」必要はありません。わたしたちは「弱い」のです。その弱さこそわたしたちの強さだからです。だから、辛い時苦しい時に、己を偽る必要はありません。ただあるがままそのままです。偽善者が偽るのは、できもしないのに自分の力で「強がる」からです。とても闘うことのできない「悪の力」に、自分の力で立ち向かおうとするからです。こういう自負心とうぬぼれが偽善を生むのです。外には強がりを言いながら、内心では弱音を吐くのです。「密かにつぶやいたこと」も、いつかは「屋根の上で言い広められる」のです。
 自分にその力がないことを悟ること、悟って御霊の働きに任せること、これが霊的な歩みの秘訣です。自分の弱さを知ることで、自分に対しても人に対しても偽らないこと、同時に、自分の弱さにもかかわらず、御霊が働いてくださることを知ってうぬぼれないこと、これが、神の導きを歩む秘訣です。
■恐れるな、畏れよ
 神の導きを信じる者は、祈りを通じて、自分(たち)に降りかかる苦難を前もって知る場合があります。それは、預言であったり、ヴィジョンであったり、いろいろありますが、彼は、神からの警告によって苦難を前もって知ることができます。だから、いざその時が来ても、神の導きを信じてこれに耐え、かつ苦難の中にも神への信頼と希望を抱くことができるのです。だから、たとえ辛くても「恐れない」のです。苦しくても「怯えない」のです。神がそこに働いていること、その苦難が神によって生起していることを知って、そのような出来事の中にも、なお意義を見いだし、その意義づけが希望と信仰を生み出すからです。このような苦難に耐える力は自分からでたものではありません。これもまた神からの大きな祝福であること、このことを悟る人は希ですが、これを知りこれに耐えることができる人はもっと希で、幸いな人なのでしょう。「幸い」な人の中に、「義のために迫害される者たち」(マタイ5章10節)が含まれるのはこのためです。誰よりもイエス様ご自身が、こういう苦難の意味をよくご存知でした。だからイエス様は、「たとえ体を殺しても、魂を滅ぼすことができない者たちを恐れるな」と言われたのです。ほんとうに「畏るべき」方はほかにおられるからです。人がこの方を畏れるならば、ほかの恐れは、恐れでなくなるのです。
■白バラの祈り
  昨年(2007年)「白バラの祈り」というドイツ映画を見ました。1942年の6月から43年の2月まで、ナチスの政権下にあって、ミュンヘン大学の学生5人が、ヒトラー政権の誤りと打倒を訴えたビラを6回にわたって配布し、壁にスローガンを書いたりしました。その中の二人は、ハンス・ショルとゾフィー・ショル兄妹です。兄は東部戦線に従軍して、そこでドイツ兵による民衆の虐殺の現状を見てきました。妹は哲学を専攻しシューベルトを愛する学生でした。ところが、彼らが大学の構内にビラを置いたことが発覚し、ひそかに尋問を受け、ナチの法廷で裁判にかけられました。ゾフィーは、「自由」と「良心」の名において最後まで主張を曲げず、ヒトラー政権の滅亡を予告したのです。その結果、この二人とクリストス・ブロープスト(3人の子持ちの父)との3名は即刻地下のギロチンで処刑されました。さらに他の2名とゾフィー・ショルの哲学教授も処刑されました。処刑直前に、牧師は、乙女に按手して、世の罪を背負って十字架される彼女が祝福されるよう父と子と聖霊のみ名による祈りを捧げたのです。彼女は、自分が死んでも自分の理想は生き残ることを実際に夢で見て、人々が良心に目覚めることを祈り、「太陽は輝いている」という言葉を残して消えていきました。
 戦後に、ゾフィーを尋問した際の発言記録が発見されて、映画はこれをもとにして、ゾフィーの発言を忠実に再現したのです。隠されていたことが明るみに出され、密かに語られたことが屋根の上で言い広められたのです。マタイ福音書では、イエスが言われたことは隠されることがないとあり、ルカ福音書ではあなたが言ったことは隠されないとあります。わたしたちの行なったどんな小さな善い業もわたしたちの小さな偽善と同様に、神と人との前に明るみ出される時が来るのです。
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