コイノニア会東京集会司会(2017年)

                変容を求めて

              平良千早(たいら ちはや)

 今日は、自分に与えられたみことばをこれまでの体験を交えながらお証ししたいと思います。 

 「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第2コリント3:1618 

 私は福音派のホーリネス系の牧師家庭に育ちました。子供の頃から礼拝に出席し、聖書を触れることができたことは恵みであった一方で、ホーリネス独特の「きよめ」を強調する神学の中で、自分の罪深さというものが常に意識される環境だったと思います。神様がいつも見ていて、ちゃんと良い子にしていないととても受け入れてはもらえないという感覚が常にありました。このことは私の人格形成に少なからず影響を与えていて、人の目を気にして緊張したり、自分の言いたいことが言えない、そういう生きづらさを何となく抱えていたのです。せっかく聖書に親しんできて知識は持っていても、それが逆に束縛となり覆いとなってしまっていて、「文字は殺しますが、霊は生かします」と言われている通りでした。 

 なんとか自分の生きづらさを変えたいという思いから、様々な試行錯誤をしました。まず、心理学やカウンセリングの分野を知りたいと思い、フロイトを始めとして精神分析や心理療法について本を読んだり、カウンセラーに相談にいったりもしました。それらを通して心の成り立ちや仕組みを理解し、自分の問題の背後にあるメカニズムについてある程度納得することはできたのですが、心が変えられていくということは体験できませんでした。知性によるアプローチの限界を感じました。 

 もう一つ関心を持ったのがカリスマ的な教えです。東京に出てきたときに、自分の出身教団の教会にはあまり行く気がせず、なるべく自由な集まりを求めて、ハウスチャーチというものに参加してみました。特定の教会堂を持たず、様々なバックグラウンドのクリスチャンの方が来られていて、その中でアッセンブリー出身のご夫妻と出会いました。異言の祈りをされる方だったので、いろいろとカリスマ派のことを教えていただき、私自身もある時異言が与えられる体験をしました。それ自体は戸惑いもありつつ喜ばしいことだったのですが、なおも自分が変わったとはっきり感じることはありませんでした。一体どういう意味があり、何の役に立つものなのか知りたいと願いました。 

 そのころ与えられたのが、冒頭の第2コリントのみことばです。聖書を読んでいてなぜか心にずっと残った箇所なんですが、意味はよく分かりませんでした。これまで私は変わるために何かをしなければならないと思い、何かを求めてもがいてきましたから、その一生懸命さに神様が答えてくれると期待していたわけですが、このみことばが言っていることはそうではありません。ただ主の方に向き直れば、まず覆いが取り除かれて、主の栄光を映し出しながら、主と同じ姿に造りかえられていく。主の方に向くというところは能動態ですが、あとは全部受動態です。この受動態の恵みというのが、みことばを最初に読んだときには分からなかったけれども、コイノニア会の交わりを通して今になってようやく実感が湧いてきたなと思います。 

 コイノニア会におととしから参加させていただき、今日で3回目の東京集会ですが、少ない回数であっても多くの印象的な言葉を受け取ってきました。特に挙げるなら、一つは「霊風自然」、聖霊の風が思いのままに自由に働くということで、もう一つが「受動的能動」ということ、すなわち信仰も賜物も導きもすべて神様が備えてくださり、人はただそれに応答するだけだという境地です。こういったことを教えていただいた上で自分に与えられたみことばを振り返ってみると、本当にそのままの意味だった、とてもシンプルだったなと思い至ります。 

 あらためてみことばに戻りますと、「造りかえられて」は原語では metamorphoo という単語の受動態が使われています。これは meta- <〜を越えて> + morphoo <形造る> からなる言葉で、本質的な部分が新しく造り出されることを意味します。芋虫が蛹を経て蝶へと変わっていくプロセスを metamorphosis と言いますが、まさにそのような大変化を指しています。この metamorphoo が使われている他の箇所としては、ローマ12章の「心を新たにして自分を変えていただき」というのがあります。「変えていただき」も metamorphoo の受動態です。新改訳聖書だと「自分を変えなさい」と訳されているんですが、本来は受動態で、”be transformed by renewing of your mind です。 

 この受動態が意味するところは自然科学の法則に近いと言えます。ニュートンの万有引力のようなものです。リンゴが木から落ちるのは、努力して地球に近づこうとしているのではなくて、重力に引かれて自然に落ちるわけです。こういう力が働く空間を物理では「場」と言います。磁石を置けばそこには「磁場」が働いて鉄などの金属を引きつけます。場に働く重力や磁力は方程式で記述された法則であり、まわりの物体はその法則に完全に従って運動します。同じように、主の霊のおられるところに「場」が形成される、そういうことなのだと思います。この「場」に人が身を置くならば、自然の法則が働くのと同じく勝手に主の方に引き寄せられ、変えられていきます。パウロは別の箇所(ローマ8:2)で「命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」と言っていますが、ここでも霊の働きが「法則」と呼ばれています。ちなみに法則は nomos、実は律法も nomos で同じ言葉なんですが、「律法」が守らなければいけない規則であるのに対して、霊の働きは、努力や意志に関係なく勝手に成り立つ「法則」であるという、能動から受動への転換ということをパウロは言いたかったのかもしれません。 

 話が飛んでしまいますが、浄土真宗には「自然法爾」という言葉があるそうです。自然法爾とは、阿弥陀仏に他力本願ですがることによって、諸行無常のこの世界が自ずから悟りの境地になるということですが、この阿弥陀仏をキリストに置き換えれば、そのまま第2コリントのみことばと同じじゃないかと思いました。日本仏教が到達したところと、聖書のみことばがすごく似ているというのは面白いです。日本でキリスト教が馴染まないと言われるけれども、そんなことはなくて実は浸透する余地は十分にあるんじゃないかと希望に思えてきます。では、阿弥陀仏とキリストは何が違うのかというと、阿弥陀仏というのは実際に存在するかしないかはあまり問題ではなくて、悟りの境地に達するための方便だということです。一方、イエス・キリストは2千年前のユダヤの地で実際に生きて存在した人です。目に見えない神様の霊が、イエスという人となられたということ、これが、みことばが単なる気休めではなくて、真実に成就することのしるしとなっているのです。そしてそのイエス様が十字架で死なれたけれども、復活されて、今も私達とともに生きておられる。これもまた理解を超えた出来事ですが、ともかく霊として私達の内に生きておられる。そのイエス様の霊が、ロゴスとして世界を存在させ維持してくださっていて、そのロゴスのイエス様にすべてお任せして生きる、これがキリスト教の他力本願です。このことが今になってようやく分かってきたことです。 

 私にできることは、ただ主の方を向くことだけです。聖書を読んだり祈ったりすることも大切ではあるけれど、それが必要なことではなくて、朝起きてイエス様におはようございます、寝る前に今日も一日ありがとうございました、それだけでも十分主の方を向いているんだと思えるようになりました。今はだいぶ気持ちが楽になってきています。あらゆる心の重荷を脇において、一日一日を感謝して生きたいと思います。

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