(1)「個人」とは?
         
(2019年9月28日)
■はじめに
 今日(2019年9月28日土曜)、新たに出発した京都のコイノニア会の初集会に、私もこのように出席することができて、何とも不思議で有り難い想いです。7月の終わり頃に、コイノニア会のあるメンバーから批判を受けて、引退を決意し、京都の集会の件で牧田さんに相談しました。長年続けてきたコイノニア会も、霊風一過、これで消え去るのか、といささか不安な想いに襲われていましたが、四条のイノダ・コーヒーで二人で話し合ったその後で、突如、不思議なヴィジョンが与えられました。それまでの想いとは全く逆に、コイノニア会の霊性と方式が実を結んで成就するという何とも不思議なヴィジョンでした。信じがたいと言うより、驚きのほうが大きかったです。あまりにも不思議なので、その後で、大丸の七階の風月堂で、しばらくじっとしていたのを覚えています。この時に与えられたヴィジョンに導かれて夏期集会に臨みましたが、最後の挨拶を除けば、集会の間、私は一切発言しませんでした。それにもかかわらず、あれよ、あれよと言う間に事態が進行して、今回、東京集会と京都集会の新たな出発を迎えることになりました。主様のなさる御業(出来事)とは、人の想いをはるかに超える不思議だと、今さらながら感じ入っています。こういうわけで、今日、この席に座っていますが、これからは、過去のコイノニア会の歩みを反省して、改めるべきところ、反省すべきところを皆さんと共に考えていきたい。こう思っています。
■自由主義の崩壊
 今日の話題は、コイノニア会が大切にしてきた「個人の自由」についてです。最近、アメリカの政治学者であるパトリック・デニーンという人が、戦後アメリカを中心にグローバルに語られ唱えられてきた世界における「自由主義」が、失敗と崩壊の危機にあると指摘して注目されています(『朝日新聞』:2019年9月19日号)。一人一人の自由が「制度化される」という過程の中で、「無制限な私的自由」が、共同体の形成を崩壊させていると言うのです。
 人にはそれぞれ、「公」(パブリック)と「私」(プライベート)の両方の役割があります。「個人」とは、その「私人」と「公人」の両方を含む概念(コンセプト)です。ところが、公(おおやけ)の共同体は、私人の自由を制限することによって成り立つものですから、そもそも「私人の自由」を制度化するのは、制度それ自体の矛盾であり、勝手気ままな私人の集合体は、必然的に、国家や社会を崩壊させる結果を招くのです。
 先の世界大戦の後からは、いわゆる「個人の自由」が強調されてきました。しかし、インターネットの普及にもかかわらず、個人同士の相互理解が深まるどころか、逆に、公(おおやけ)を見失ったプライベートな「私人」が、共同体を形成する「個人」ではなく、ばらばらの「孤人」になりつつあるのが実状です。このために、世界中で、民主主義も個人の自由も人権思想も崩壊しつつあるとデニーンは指摘するのです。
 デニーンは、これに続いて、これからは、国家規模ではなく、個人同士が集まるローカル(局地的な)大小の共同体を形成することが重要だと説いています。大小様々な共同体が形成されて、そこから、新たな国家や社会が創造されてくると言うのです。実は、このようなローカルな共同体の多数の集まりから国家が形成されるべきだという考え方は、17世紀のイングランドで、ミルトンなどのピューリタンたちが考えていたことです。
■「個人」の意味
 「個人」という言葉は、私人と公人の両方を含みますから、「公」(おおやけ)をどのように定義するかによって、個人の内容も変わってきます。共同体は、「自分」が、私人と公人の両方にまたがることを知ることで形成されます。だから、「私人の自由」を制限する「公」をどう考えるのか?これによって、個人の意味が決定されるのです。「公」の権威を国家権力に求めるのか?それとも民族の文化と伝統に求めるのか?それとも宗教に求めるのか? これによって、「個人」が意味する内容が異なることになります。
 現在、国家主義の中国では、個人は、ほとんど「私人」と同じ程度に見なされていますから、「個人の自由」は厳しく制限されています。民族の伝統文化に根ざすイギリスでは、「個人の自由」は柔軟で多様ですが、今はそれが、裏目に出て、バラバラに分断されて行き詰まっています。イスラム教のアラブ諸国は、強度の宗教国家ですから、「個人」は、アッラーの神の支配下に置かれて萎縮せざるをえまん。アメリカは、キリスト教を主体にする国家ですが、憲法があるものの、州ごとに法律が異なります。アメリカでは、「個人の自由」が、ほとんど「私人の自由」に近くなっています。このために結婚制度も銃規制も「自由」の名の下に意味を失って、国家的な共同体が崩壊しつつあると言われるのです。
 
■戦後日本の「公」
 戦後の日本には、三つの「公」がありました。一つは、主権在民の日本国民一人一人の人権を重んじる平和憲法が保証する「公」です。これは、「市民社会の公」と呼ばれました。もう一つは、共産党という政党が主導する「人民」による「社会」が保証する「社会主義的な公」です。さらにもう一つ、戦後の日本を実質的に支配してきた「公」があります。それは「会社」という経済的な「公」です。大企業同士が提携する「企業社会」こそが「公」であり、これは「資本主義的な公」です。憲法と社会主義と資本主義(大企業)、これに対して現在の自民党は、神道を背景にした「国家主義」の「公」を再興させようとしています。だから、何と全部で四つの「公」が今の日本人の選択に委ねられています。これが令和の「世間」の実態です。だから、今、私は、 ここにおられる集会の方々だけでなく、日本の若い人たち、とりわけ教育に携わる先生方に向かって叫んでいるのです。
■私の体験から
 私は、戦中の日本軍国主義時代と戦後の自由主義時代の両方を経験しました。とりわけ、奈良県立奈良高校と京都市立塔南高校の職員室では、教師それぞれが、個人の自由を発揮できる理想的な共同体を体験することができました。甲南女子大学は、ミッション・スクールではありませんが、そこでも、クリスチャンとしての信仰と思想と学問的な自由が完全に保証されていました。このような体験から、私は、日本人の間でも、「個人の自由」が保証され、それぞれが個性を発揮できる社会が可能であることを身をもって体験することができたのです。この確信が、キリスト教の「エクレシア」においても、霊的な自由が完全に保証される「コイノニア」(交わり)を形成する方針になったのです。だから、私は、コイノニア会の「個人の自由」運動が、さしあたり、日本の大学、高校、中学、小学校の先生方の間にNetwork of Teachers Association (NEWTA)という形で広まり、さらに大学生、高校生、中学生の間にも広がることを期待します。
■コイノニア会の意義
 コイノニア会の自由は、個人相互の「個性の自由な発揮」と、これを支える「知的で自由な発言」が、真のエクレシアの霊的な自由を支える柱であるという信仰に立っています。三位一体の神が形成するのは、イエス・キリストの御霊にある「エクレシア」です(エフェソ4章2〜6節)。コイノニア会は、小さくても、新約聖書が説く「エクレシア」のほんとうの有り様を体現する共同体を目指すものです。人がその個性を発揮できる「個人の自由」は、家庭でも職場でも、学校でも、宗教団体でも、政治運動でも、あらゆる分野において重要です。イエス様にあるコイノニアのエクレシアは、日本だけでなく、これからの世界においても、個人がその個性を発揮できる「自由な社会」を形成する土台となるものです。たとえ少人数のコイノニアでも、こういう国家や社会を造る重要な最少の「原形」になりますから、わたしたちのコイノニア会の社会的、国家的な意義がここにあります。
               コイノニアと個性へ