(2)個性の発揮
              (2019年10月26日)
■知の座標
  現在の日本人、とりわけ若い人たちは、自分がこの世の中でどのような「立ち位置」に居るのか? これを見出すことができません。自己の立ち位置を推し量るX軸とY軸の「知的な座標」(intellectual frame of reference)が見失われているからです。こういう知的な座標の喪失は、日本だけでなく、今や世界規模で生じています。「世界の中の日本」において、自分がどこにいるのか? これを推し量るために、今まで存在しなかった全く新しい宗教的な視野による「知の座標」を聖書がわたしたちに提示しています。では、その実態は何なのか? その霊性はどのようなものなのか? これを探る一助として、今私がお話ししている「個人の自由と個性の発揮」がお役にたてれば幸いです。
■『善の研究』の「個人」
  西田幾多郎の「『善の研究』第3編第9章:善(活動説)」には、「善とは理想の実現」だとあり、その「理想は要するに自己其の者の性質より起こる」〔西田前掲書〕とあります。「善とは自己の発展完成 "self-realization" である」〔西田前掲書〕と西田幾多郎は述べています。西田によれば「人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善」であり、「人間が人間の本性を現じた時は美の頂点に達する」のです〔西田前掲書〕。これが「自らに由る」こと、すなわち「自由」が目指すべき理想の定義です。「自由」には、苦しみ悩み「からの自由」(free from...)と、理想を追求する自由(free to...)のふたとおりがありますが、現代では、これに加えて、「できるけれどもシナイ自由」(free not to...)が含まれます。貧しくて買えない状態「からの自由」と、何でもどんどん「買う自由」と、買えるのに「買わない自由」です。
 「自己実現」"self-realization" とは、現在では、自己の欲望を成就することを指す場合が多いのですが、これのもとの意味は全く異なるものです。西田の言う「自己」とは、己を無にして他者に仕える「自己」のことです。現在わたしたちが言う意味の「自己」とは、自己の利益を実現しようする資本主義的な「自己」のことなのです。近世以来400年間、主として欧米を中心に重んじられてきた「個人」とその自由とは、こういう資本主義的な自己実現でした。これへの反省として、いわゆる「社会主義」があります。だから、社会主義の下では、資本主義的な「個人」とその自由は、社会全体のために厳しく制限されることになります。しかしながら、今私がここで言う「個人」は、資本主義とも社会主義とも異なる性格の「個人」のことなのです。
■まことの「自己」
  西田の言う「自己実現」とは「円満なる発達を遂げる」ことです。若松英輔(えいすけ)氏(東京工業大教授)は、ここで西田が言う「円満」とは「完全」と同じ意味だと解説しています〔若松英輔『善の研究』NHKテキスト61頁〕。それは「知と愛、内なる叡智と自他を超えた愛の顕現」〔若松前掲書〕を指すともあります。西田は、この「自己完成」こそ、アウグスティヌスやデカルトが「根本に立ち返って考えた」真理であると言うのです〔西田『善の研究』第3編第9章〕。これは、私(私市)の言う「霊的個性」に近いです。西田が言うこの「自己」のことを永平寺を開いた禅僧の道元は「仏性」と呼びました。仏法によって開花させられた仏性を生きることが、道元にとって最高の「善」だったのです〔若松前掲書63頁〕。しかし、私に言わせれば、ここで言う理想の「自己」は、いっさいの自力を放棄し無力無心にされ、ひたすら阿弥陀仏に帰依する人の「自己」、たとえ罪業の自己でも、その「罪業深きがゆえに救う」仏陀の慈悲の光明を説いている親鸞の『歎異抄』の「自己」により近いでしょう。
■共同体を作る「自己」
  佐伯惠思(けいし)氏は、このような西田の「自己」について、今こそ西洋と異なる「日本独自の」思想を打ち出さなければならないと言い(『朝日新聞』(2016年6月3日号)、彼は次のように述べています。人は「私(わたくし)」を「無」にし、「私」を空(むな)しくすることで初めて「ほんもの」(西田の言う「真実」)へ接近できる。そういう「真(まこと)の自己」は、言葉では把握できないが、このためには、「自我」にとらわれていてはだめで、「無私」にならなければならないと。その上で佐伯氏は、さらに、こういう「無私の個人」という思想は、「我(われ)」という確固たる「主体」を前提にし、その「主体」が世界や自然を客観的に記述し、自然を操作して変化させようという西洋思想との対極に位置すると言います〔佐伯前掲書〕。けれども、今わたしたちが目指すのは、「西洋と異なる」日本人の自己の有り様ではなく、今や、<世界中で、>私がここで述べている「無私の自己」という「個人」の有り様が求められていると言うほうが正しいです。日本人の「自己」探究は、そのまま世界の探究につながるからです。人の生来の「自我」に囚われた「私人」から出た「個人」は、たとえ法律に規制されても、その利己性のゆえに共同体を形成することができません。代わりに争いと分裂と腐敗をその共同体にもたらします。
  このように、「個人の自由」とは、自己の「理想の個性」を発揮することを意味します。こういう「個性の発揮」は、スポーツ選手の個性の発揮にたとえることができましょう。彼/彼女は、賞を得るために必死の努力を続けます。この追求が許されて「できる」こと、これこそがその選手自らに由る「自由」なのです。ところが、いざ本番になると、自己の才能を発揮するために、優れた選手は、自分の計らいや想念をいっさい忘れて、ただひたすら無心になります。その時、驚くべき個性が発揮されるのです。では、そのような理想の「自己」にどうすればたどり着けるでしょうか。これが次の課題になります。
                  コイノニアと個性へ