(3)イエス様の「個人」
■理想の「個人」を求める
  前々回は「個人」というものが、「私」と「公」との両方を併せ持つことを語りました。前回は、現在日本で求められている「個人」の理想とは、「無私」に生きる「無」の心のことであり、そのような「個人」の有り様が、日本だけでなく今や世界全体の課題になっていることを指摘しました。では、どうすれば、わたしたちは、そのような「無心の個人」に近づくことができるでしょうか? 今回は、この課題に関して、新約聖書が証しする「イエス様にある個人」についてです。もう皆さんは気づいておられると思います。私は今、ここに居られる方々に向かって語っているだけではありません。イエス様のことを何にも知らない日本の若い人たち、大学生や高校生に向かって、さらに教育に携わる先生方に向かって語っているのです。
 ナザレのイエス様は、紛れもなく一人の人間であり、個人です。それなら、なにもイエス様に限らなくても、釈迦でも孔子でもソクラテスでも聖徳太子でもいいではないか? こう思うかもしれません。その通りで、釈迦や孔子という個人を理想とするなら、その理想の姿になるように、一生懸命努力しなければなりません。実際、仏教徒や儒教の信奉者は、様々な修行を積んで、釈迦や孔子のあり方に近づこうと勤めています。釈迦という個人の理想は、釈迦の悟りの世界に達して覚者(かくしゃ)になることですから、なんとか釈迦の悟りの世界に自分も到達したいと座禅を組むのです。親鸞は、『歎異抄』で、たとえこの世で、釈迦の姿に遠く及ばない罪業の深い人でも、一心不乱に阿弥陀仏を唱えるなら、釈迦の慈悲によって「あの世」で必ず成仏できると説きました。
  ■イエス様という「個人」
 今から2000年前に、パレスチナを歩まれた「ナザレのイエス様」は、わたしたち一人一人と寸分違わない正真正銘の「人(ひと)」として「個人」です。福音とは、この「ナザレのイエス様」という「人」を通じて、神が人間に「まことの個人」の有り様を顕してくださった出来事です。「人の子」であるイエス様には、プライベートな「私人」と神の国共同体としての「公人」の両方が具わっています。このイエス様の御霊が、個人に宿るときに、人の「自我」が解消されて、無私の「個人」が啓(ひら)かれるのです。
  先の章で述べた自我中心の「個人」を照破し突破させてくださる力は、このイエス様から降る御霊(パラクレートス)の働きに由(よ)ります。イエス様の御霊「自らに由る」この働きこそ、人が目指すべきまことの霊的な「自由」です(第二コリント3章17節/ヨハネ8章31~32節)。イエス様の御霊にあって自分に潜む「自我」の罪業の深さを悟り、イエス様の十字架から降る赦しの恩寵に由って啓(ひら)ける「まことの自由」こそ、その人の「まことの個性」が発揮される場なのです(第一ヨハネ1章5~10節)。イエス様の御霊にあるこのような「自己」こそが、イエス様のエクレシアのメンバー(体の肢体)としてふさわしいその人の「個性」です。だから、「啓示」とは、本質的に「共同体的」(communal)な性質を有するものです。この点で、単なる自己の「思い込み」とは異なります。
■イエス様に躓くこと
  キリスト教の象徴は十字架です。この十字架は、「とうてい信じられないこと」を指す「躓き」の表象だとも言われています。なぜでしょうか?イエス様は一人の人間です。人一人が十字架にかけられたからといって、不信を抱いて躓く人はいません。イエス様は神を信じた義人です。神や仏(ほとけ)を信じる立派な人が殺されることは、あってはならないことですが、この世は「あってはならないこと」だらけですから、そのことが「信じられない」と躓く人はいません。では、なぜイエス様の十字架が「躓き」なのでしょうか? それは、イエス様が、天地を創造された神御自身を人類に啓示した人、言い換えると、宇宙創造の神御自身が、ナザレのイエス様を通じて人類に顕(あらわ)れた。新約聖書が証しする「イエス様」とは、そういう方だからです。「未だ神を見た者はいない。父なる神の懐(ふところ)から来られた唯一の御子だけが、神ご自身を人類に顕した」(ヨハネ1章18節)。これが、聖書の証しするナザレのイエス様です。天地創造の神が、一人の人間となって、人間にご自分を顕した? なぜ、2千年も前の遠いパレスチナの人なのか? 人間は誰でも、どこかの国に何時か生まれますから、当たり前です。そうでなければ「人間」ではなくて、ゼウスやアマテラスのような無時間的な神話の人物になります。ナザレのイエス様は、これだけでも人が信じられないほどの躓きになります。しかも、このイエス様が、こともあろうに最も屈辱的な十字架刑に処せられたのですから、これを聞いた人が、「ナザレのイエス様」に躓くのは当然です。

■人の無力と神の聖霊
 イエス様のこの十字架が、人間の罪業を赦し浄めるための犠牲の十字架であること、イエス様の十字架には、このような祭儀的な意義がこめられていることを明確に証ししたのは使徒パウロです。なぜでしょうか? 彼こそ、ナザレのイエス様に最も深く「躓いた」人だからです。パウロは、これを「未だ人類が見たこと聞いたこともない出来事」だと言います(第一コリント2章9節)。その上で、イエス様の十字架の出来事は、人間の知恵ではとうてい信じることができないことであって、ただただ、神から授与される「神の知恵」によらなければ、人にはとうてい信じられないと明言しています(第一コリント1章18~25節)。この「神の知恵」は、人間がまだ遠く及ばない「宇宙の知恵」と重なります。神は、どうしてこんな不可解な「躓きの十字架」の出来事を人類に啓示されたのでしょうか? それは、イエス様を通じて啓示される「神」とは、人間の知能や能力では絶対に理解できない出来事を実現なさる方で、人が、その知能や能力は言うに及ばず、人のいわゆる「宗教的信念」ではとうてい達することができないことを悟り、己の無力と無知に目覚めるためです。これによって初めて、ナザレのイエス様が啓示する父なる神を「知る」あるいは「悟る」ことできます。なんのことはない。「躓き」はわたしたち自身の一人一人の内にあったのです!それは、「あなたがたの信仰が、人間の知恵から発するものではないことを悟り、ひたすら<神からの働きかけ>から生じていると知るためです」(第一コリント2章5節)。
  この問題を鋭く徹底して哲学的に考察したのが、デンマークの哲人ゼーレン・キエルケゴールです。彼の考察は厳しく、自らを「単独者」と名乗り、当時の教会を徹底的に批判しました。彼は、人知の哲学では超えられない溝を「信仰の飛躍」によって乗り越えました。 では、わたしたちを信仰へ導くその「神からの働きかけ」は、どこから来るのでしょう? それは、復活のイエス・キリストからです。しかし、そもそも、復活信仰そのものが、神からの働きかけによって生じるものです。このお働きによって初めて、わたしたちは、聖書の神が本当に居られることを実体験するからです。これが、十字架の死から復活されたイエス・キリストの「聖霊」のお働きです。だから人は、己の賢さや己の宗教心や己の霊能などが、いっさい無力であることを悟ることによって初めて、聖霊のお働きに与(あず)かり、ナザレのイエス様にある父なる神を知る、言い換えると神に「知られる」者となるのです。
■霊風無心
 こういうわけですから、ヨハネ福音書が証しするとおり(ヨハネ8章)、イエス様の時代のユダヤ人たち、とりわけ、最も優れた「宗教する人」であるはずのユダヤ教の指導者たちさえも、ナザレのイエス様に躓きました。しかし、これは二千年前のことだけではありません。令和の日本のクリスチャンたちでも、と言うよりも、世界中のキリスト教会のクリスチャンたちでも、イエス様の十字架の意義を真に悟って、ナザレのイエス様の御霊のお働きを受け入れて、己が無にされている人が何人いるでしょうか? まことの「クリスチャン」とは、「キリストばか」のことですから、自己流の宗教的な信念や思惑、自分なりの霊能の業にうぬぼれることではありません。そうではなく、謙虚にされて、「今、自分の身体にあって生きているのは、自分ではなく、イエス・キリストとなられたあの<ナザレのイエス様>である」(ガラテヤ2章20節)と悟る人です。こういう「ほんとうのイエス様道」を歩む人が、はたして何人いるでしょうか? ここで大事なのは、躓きを「避けて通ろう」とすることではありません。そうではなく、躓きに直面して初めて、イエス様に祈り、イエス様の御霊に導かれ、祈りによって自我から離れて、躓きを超克する時に啓(ひら)けるイエス様の霊光のことです。これに接して「愛光無心」に達する時に初めて、イエス様の愛と喜びと平安がその人に訪れます。クリスチャン同士の霊交(コイノニア)はここからしか啓(ひら)けません。「霊風無心 愛光接人」。人と人とが出会うところに生じる「まことの交わり(コイノニア)」は、このようにして生じるのです。
              
コイノニア会と個人の自由へ