(4)まことのコイノニア
                 2020年1月25日
■個性の一致
 人が作る「まことの共同体」には、人と人との個性の自由な発揮と同時に、個性同士の一致がなければなりません。そのような個性同士の自由と一致は、イエス様の「御霊にある自由」によって初めて可能になります。これが成り立つためには、人は、イエス様の十字架の御前に立つ必要があります。人の罪業を背負う悲惨な御姿と、復活という驚くべき栄光の御姿と、この間に横たわる躓きの溝、そこに、神による人知を超えた逆転する恩寵の働きを見ることが必要です。十字架が象徴する人間の無力と罪業の深さを悟り、その上であえて、イエス様を信じて自分の身と業を信託する。これが、神がイエス様を通じて働かせる聖霊の御力です。赦し合い認め合う慈愛の心が、そこから生じるのです。「互いに愛し合う」というイエス様の新しい戒めが、そこで初めて成就します(ヨハネ13章34~35節/第一ヨハネ1章8~10節)。こういう愛は、イエス様のご人格に触れて初めて可能になります。その時、あのニュッサのグレゴリオスが、「魂の花婿」と呼んだイエス・キリストの愛に輝く永遠の生命が、その人の個性となって輝き働き始めるのです。このようにして初めて、人間の人格に具わる「真善美」が具現するのです。これがまことの「自由な個性の発揮」です。ヨハネ福音書もパウロ書簡も、西田幾多郎も、禅僧の道元も、親鸞の『歎異抄』もこのような「人の個性の自由」が霊現する出来事を伝えようとしているのです(西田幾多郎『善の研究』第三篇十二章)〔若松英輔『善の研究:西田幾多郎』NHKテキスト65~66頁〕。
■愛し合う
 愛とは、愛するその相手と同じ姿に「なる」ことです。だから、神は、人間を愛して、「ナザレのイエス様」という一人の「宗教する人間」(ホモ・レリギオースゥス)、すなわち、今のわたしたちと同じ人間になられたのです。日本人は、一人の例外もなく人間ですから、わたしたちもイエス様の御霊の働きを通じて、「インマ・ヌー・エール」"with us God"(神わたしたちと共に居ます)と言うことができます。「ヌー」(わたしたち)が強調されているのに注意してください。「わたしたち」ですから、当然、そのうちの一人である「わたし」も入ります。しかし、「神わたしと共に」とは言わないのです。おそらく「わたし」を意識しすぎると、危険な状態に陥りやすいからでしょう。「わたしたち」こそが、「コイノニア」の有り様ですから。人を愛するのは、理論や教えではなく、出来事です。だから、必ず、愛の働くその時とその場が有ります。どういうわけか、イエス様は、21世紀の現在、わたしたち日本人に向けて、その愛を顕そうとしておられます。
 「わたしがあなたがたを愛したとおりに、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)、「割礼のあるなしよりも、信仰を通じて働く愛」を大切にしなさい(ガラテヤ5章6節)。「あなたがたに与えられた自由を自己中心が働く機会としないで、愛を持って互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5章13~26節)。これが、イエス様の愛の戒めへの最上の注釈です。無私の心、無心の愛こそ、まことの自由から出た人のまことの個性です。いわゆる自分勝手な「個人主義」は分裂を生じます。ただ、イエス様の霊的な「ペルソナ」(人格)だけが、コイノニア(交わり)を育てるのです。
                    コイノニアと個性へ