■霊的暴力
今回は、わたし自身に与えられた主様からの恩寵と、これに対する自己のいたらなさの体験から申し上げます。御霊にある自由と喜びを見失うのは、神が主様を通じて自分に与えてくださったあまりにも大きな恵みを謙虚に信じ受け入れることができないために、その恵みを軽んじたり、反対に自己の能力を過信して、その恵みを自己努力で達成できると思い込むからです。そこから生じるのが「霊的暴力」です。この一事を忘れるところに「霊の暗闇」が生じます。ここから、「宗教する自己」を過信する「信念」が発する「罪」が生じることになります。一見正しく見えるこういう霊的な闇をパウロは「律法(宗教)によってもたらされる罪」と呼んでいます(ローマ7章7〜12節)。
イエス様の御霊の御臨在よりも、自我に発する自己判断を優先する場合、その人は、御霊にあるエクレシアのほかのメンバーたちを<自己判断で>裁いたり、批判・非難したりするようになります。また指導者が、主様の御霊の導きにあって話したり行なったりしているとは想わなくなります。その結果、他者もまた自分同様に自分勝手な言動をしていると「自己判断する」のです。こうなると、その人は、十字架のイエス様の御霊にあるまさにそのゆえに、「不自由」を覚え始めます。自我とイエス様の御霊との間に闘いが生じるからです。これが、コイノニアのエクレシアにおいて、離反や分裂が生じた原因です。こうなると、人は「主の御霊にある自由」(第二コリント3章17節)を喜ぶことができなくなります。ヨハネ福音書で起こった分裂や批判がこれです(3章16〜21節/6章35〜40節/6章66〜69節/8章31〜32節を参照)。
■冷和から霊和へ
イエス様の十字架の赦しにあって語り行なう心得を忘れると、キリスト教会の指導者にも、メンバー同士に対しても批判が起こり、分裂が生じました。コイノニアのエクレシアは、「主の御霊にある自由」を心から喜び合える人たちの集いですが、「自我」の自由な集まりからは「冷和」しか出てきません。イエス様の赦しの恩寵の働く自由から初めて、愛の「霊和」による一致が生まれるのです(エフェソ4章1〜6節)。 だから、日本人が大切にしてきた他者への思いやりと謙虚な気持ちが、イエス様の御霊の働きにおいては、特に重要です。そこに真の「霊和」が生まれるからです。実は、これこそが、キリスト教であれ、仏教であれ、儒教であれ、イスラム教であれ、ヒンズー教であれ、あらゆる宗教のあらゆる宗派宗団に求められている理想の「個性」の姿なのです。この意味で言えば、人の十全な個性の発揮を実現する宗教こそ、まことの宗教であり、これをもたらさない宗教は偽りです。
ただイエス様の恩寵だけが、自我と自己主張の固まりであるわたしたちの人間性を、それにもかかわらず、「七度を七十倍するまで」赦しの恩寵をもって救い、人間同士を対立させる自我を解消してくださいます。十字架のこの恩寵によって初めて、わたしたちは、父と御子と聖霊のコイノニア(交わり)に導き入れられ、それぞれが「御霊にある自由」にあって喜ぶことができます。これが、人間の深い罪業をも赦す「絶対無条件の恩寵」の働きです。実は、この赦しの場こそが、イエス様の御霊のものすごい力が働く場となるのです。このことを悟るのが「霊知」であり、これに生きる人のことを「霊人」(ホモ・スピリトゥス)と呼ぶのです。イエス様の御霊にある「個性の自由」、これが発揮されるところに、日本の教会はものすごい力を発揮できます。
主からの恩寵を受け入れることで、「彼は主を信じた。主は、そのことで、彼を義と認めてくださった」(創世記15章6節)という聖句がその人に成就するからです。 コイノニアと個性へ