(6)赦しと愛の一致
                         
京都集会:2020年3月28日
 コイノニア会は、過去に多くの人が集まり、それが分裂し、再び集められ、その集まりが逆に分裂の始まりとなるという悲劇を少なくとも3度繰り返してきました。いったい何が欠けていたのでしょうか? それは「互いに愛し合う」という一事が欠けていたからです。ヨハネ福音書でイエス様が「わたしがあなたたちを愛したようにあなたたちも互いに愛し合いなさい」と言われた愛の戒め(ヨハネ13章34〜35節)を現実に体現できなかったからです。分裂の原因は、指導する者自身にも潜んでいたのです。イエス様の愛を宿すことは、十字架のイエス様を仰ぎ見ることに始まります(ヨハネ3章14〜15節)。イエス様の十字架から発する赦しの霊光こそ、人の心に働いて、主様の愛をその人の内に宿らせます(ヨハネ6章54〜56節)。
 「赦す」とは、先ず自分の罪を認めることから始まります。そこに「赦しの栄光」が顕れます。するとその人は、「宗教する人」が避けられない宗教的な敵対心や憎悪から解き放たれて、人を愛する「宗教する人」へ変容されます。その人の心に、御霊の働きかけが生じるのです。
 無力無心の霊人の集うコイノニア会の様態は、少人数単位で多様性に富み、集合離散に強い特性を具えています。しかし、人は「相対的な」者です。だから、人が人である限り、「相対立する」ことが避けられません。まことの霊人同士の交わりでは、「ならぬ堪忍、するが恩寵」です。だから、互いの欠陥をあげつらって分裂することほど、主イエスの御霊を悲しませることはありません。このことを肝に銘じてください。コイノニア会の人たちが、全教会の一致を強く願うのは、これを切に求めておられるのが、主様の御霊にほかならないことを知っているからです。「神の聖霊を悲しませてはなりません。聖霊の御臨在によって、あなたがたは、贖いを受ける日まで保証されているからです」(エフェソ4章30節)。この一事、忘るべからずです。
 だから、「相対立」するのではなく、「相仕える」のです(第二コリント4章5〜6節)。「愛光無心」のこういう霊場は、「宗教する人」が、己の宗教性のゆえに達成できることではありません。宗教する人そのものを根底から贖い赦す主様の御霊によって、無欲無心にさせられるところに初めて生じる事態だからです(ヨハネ15章16〜17節)。このような「赦しの愛」を拒否する者は、「裁き」を自らに招くことになります。彼は、自分で自分に裁きを招き入れるのです。「信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」とあるのは、このことです。もしわたしたちが、自分の罪を認めるなら、赦されます。認めることができないなら。認めることができるまで、繰り返し「裁き」が続きます(第一ヨハネ1章6〜10節)。
 エクレシアの集まりは、人間の罪性ゆえに、いかにも脆く分裂し崩壊しやすいです。それでもなお、これを支え続けてくださるのが、主イエスの御霊の愛と赦しのお働きなのです。とにかく一緒に居れば、イエス様の十字架が、あなたを支えてくださいます。後はなんとかなります。だから、わたしたちは、失望することなく、絶望することなく、シコシコとイエス様の御霊にある「自由な個人の交わり」を求め続けていくことができます。そこに啓けるのが、自分たちの救いが成就する主の来臨へ向かう終末的な追求です(第一ヨハネ4章7〜10節)。
「招かれたあなたがたは、その招きにふさわしく歩み、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛を持って互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて霊による一致を保つよう熱心に努めなさい」(エフェソ4章2〜3節)。
 コイノニア会も、始めはただのクリスマスの集いから、月に一度の集会へ、さらにはより深い充実した夏期集会へと、一歩一歩前進してきました。
 だからこう祈ります。「主よ、どうか、この宗教するわたしたちの罪を赦し贖ってください。あなたは、主の赦しと愛を祈り求めるわたしたちの罪を逆転させる恩寵を働かせてくださいます。どうか、万人を贖罪し、万象を和解させる宇宙の支配者であるイエス・キリストの御霊の働く場として、わたしたちを用いてください。アーメン」。
                       コイノニアと個性へ