(3)コイノニア会の姿
■円卓の交わり
 コイノニア会は、比較的少人数の人たちが、輪になって座り御霊にある交わりを保つ会です(実際はロの字型のテーブルが多い)。しかし、このような会のあり方には、それなりの危険が伴います。お互いが親密になり気心が知れてくるにしたがって、閉鎖的な「仲良し会」になり外部から隔離される危険があります。これを「コイノニア症候群」と言います。だから、たとえ少人数でも、できるだけ多様な人たちがいるほうがいいのです。少人数の交わりは、お互いが内向きになって座ると、全員が全員の顔を見ることができます。互いの顔ばかりが見えてきて、会の外の人たちの顔が見えなくなるといけないので、内向きではなく、時々、全員が外向きに輪になってみる必要があります。そうすると、それぞれが、自分の前方に見えていることだけを報告し合うことになります。こうすることよって、外部の様子が360°見えます。それぞれが他のメンバーと異なるところに眼を向けることで、会全体が孤立したり、自分たちが置かれている現状から遊離することがなくなるのです。イエス様への信仰や霊的な事柄は、内を向いて語るほうがいいのですが、聖書の言う「この世」とは何か? 人間とは何か? 民主主義とは、現在の政治とは? こういう問題を語り合うときには、それぞれが外を向いて、見たまま聞いたままを語るほうがいいです。
 だから、コイノニア会の自由な有り様を比喩的な表現で言い表わすとすれば、円形の集まりと言えますます。円形の集まりで、一人15分ずつ語り、全員で祈るとなれば、7名で3時間はかかります。したがって、コイノニア会は、2~3人から、多くても10人くらいまでです。丸くなるのは、その真ん中にイエス様が臨在しておられることを現わします。コイノニア会は、全員が、ナザレのイエス様を天地創造の神の御子であると信じる人たちですから、メンバー全員が、このイエス様に目を向けます。円形とは、全員がイエス様と等間隔で結ばれていて、全員が全員を見渡せるという「和」の姿を形成していることです。
■内向きと外向き
 内に向いてはイエス様を「ただ仰ぎ見る」ことです。輪になって外を向けば、360度の世界が見えてきます。全員がそれぞれ、他のメンバーには見えない方向を見ています。目は二つあるのは、二つの物事を見るためではなく、目の前にある出来事を二つの目で深くとらえるためです。この姿で、イエス様を信じている自分に見えている物事を、そのまま、正直に全員に語ることができます。大事なのは、自分に見えている物事をそのまま語り伝えることであって、人が見ていることを批判したり、人が自分と同じ物を見るべきだと思ったり言ったりしないことです。ほかを見ている人の意見に左右されてはいけません。自分が見ていることだけを人に押しつけてはいけません。全員がそれぞれ<違った>方向を見ているからです。語るのは、自分の思いこみではなく、自分が「現実に見ている」ことだけです。これで、全員が輪になって、360度の世界を見ることができます。全員が全員に向いて言うのですから、みんなの前で言えないことを二人だけで言ってはいけません。だから、コイノニア会だから言えることであり、多人数の「教会」の中では言えないことでも言えます。
 こういう姿が成り立つためには、メンバーが、内を向いては、ナザレのイエス様が神の御子であると信じること悟ることがとても大事です。これは人知が自力でとらえることではありません。神が、イエス様を通してその人に啓示してくださらなければできないことです。だから、このような姿は、コイノニア会のメンバーそれぞれが、自己の無力と罪深さを悟っていることを意味します。ペトロは、イエス様が神を顕わしておられることを悟ったときに、ひれ伏して、「罪人の私を離れてください」と頼みました。するとイエス様は、彼のあるがままの罪を赦して、人を漁(すなど)る者としてくださいました。このことは、全員が、イエス様にそれぞれの罪を赦していただいていることを証しするものです。それぞれに意見が異なっても赦し合う事が求められているのです。
            コイノニア会について