コイノニア会の霊操
■コイノニア会の特徴
 コイノニア会は、この上なく簡素で、この上なく小さい交わりです(simple and small koinonia)。これが、コイノニア会の特徴です。そこで信じられているのは、三位一体の御父と、御子ナザレのイエス様と、その御霊のお働きです。御霊のお働きは、霊智(学と調和する)・霊性(個人の霊性)・霊愛(他宗教への寛容)・霊能(異言などの霊能現象)です。三位一体の神を信じるのキリスト教の教会であれば、東方正教でも、カトリックでも、プロテスタントの諸宗派でも、どんな教会にあってもおかしくない交わりの最小単位の形態です。それどころか、キリスト教とは全く関わりのない世の中で、隠れ潜むように点在していてもおかしくない交わりの有り様です。
  コイノニア会でも、「個人の自由」は、長年いろいろな試練や誘惑に遭遇してきました。指導する私自身をも含めて、「個人の自由」は、様々なリスクを伴うからです。そのリスクから護られることができたのもまた、メンバー一人一人の「個人の自由」だけです。このために、コイノニア会のメンバーは、主イエス様の御霊のお働きに心から従い続けることが求められてきます。一人一人が、主の御霊にある導きに心から従うことで、その個人に「霊智の判断力」が与えられます。この霊智による相互の交わりだけが、コイノニア会の自由を安心できるものにするのです。三位一体の神に働く三間一和の御霊の交わり、これに与る私たち一人一人のイエス様への信仰の歩み、これだけが、コイノニア会の交わりを支える護りであり、安らぎです。これを言い換えると、御子イエス・キリストの御霊にある「交わり」(コイノニア)で大事なのは、「力」(デュナミス)と「愛」(アガペー)と「智恵」(ソフィア)の三つだということです。
■和敬清寂の霊性
  自己の霊的な節操を深く追求することを「霊操」(spiritual chastity)と呼ぶなら、イエス様の導きによって、日本人のクリスチャンが到達する境地は、茶道で言う「和敬清寂」の心に近いのではないか? 近頃、わたしは、そんな風に思うことがあります。この言葉は、ほんらい、利休の佗茶(わびちゃ)の茶道を受け継いだ仏教の住職の言葉ですが、クリスチャンが「和敬清寂」と言う場合は、仏教で言う「仏の慈悲」に甘えることなく、人の個性を発揮させる霊性のことです。だから、クリスチャンが言う「和敬清寂」とは、イエス様の御霊のお働きを受けて、心の奥深いところから啓けてくる「安らかに」(和/peaceful)、「うやうやしく」(敬/reverent)、「きよらかに」(清/pure)、「確固とした」(寂/constant)霊境を指します。
■霊操の秘訣
 福音において、霊的な節操を全うすることを「霊操」と呼ぶなら、この福音的霊操を通じて深く分け入る祈りの境地とはどのようなものでしょう。人間とは、善くも悪くも、「宗教する」存在であり、そのために、神を信じると言いながら、己を義とし人を不義とし、宗教的な諸行においてさえ、自我の罪業を免れることのできない者です。そういう自分の罪を認めて、十字架で罪の赦しの御業を成し遂げられたイエス様の御前で、自我の罪を認めて赦しを請う時、イエス様の御霊の不思議なお働きを覚えます。すると、不思議にも罪業が消えていくのです。これが、己を責めず己におごらず、ただ主の御霊にお委ねする「恩寵の霊操」です。罪の赦しの御霊の風の吹くままに、己の身を委ねて、人をとがめず己を責めず、ただ、ひたすら御霊の赴(おもむ)くところに従うなら、霊風無心、「宗教する己(おのれ)」が、水が葡萄酒に変わるように、その罪が消えて、身は軽やかに、心は平安、神を愛し、人とやわらぐ、「和敬清寂」の茶道のまことの心得が全うされるのを知るのです。神が、イエス様を通じてなされる御霊のお働きとは、こういうもので、まことに不思議な御霊のお働きです。これぞ、まことの福音的霊操の道です。人の罪を赦す十字架の「恩寵」と、神の御言葉が人と成ったイエス・キリストの「受肉」の出来事十字架の恩寵とイエス・キリストの受肉、この二つです。これが、神の「まこと」です。 この「まこと」が、ナザレのイエス様から、わたしたち一人一人の有り様に応じて、イエス様の御霊と成って降り、赦しと安らぎもたらす絶大なパワーとなるのです。
■霊操への聖句
 霊操を促(うなが)す御霊のお働きは、次のように語られています(意訳)。
 
「悪魔に立ち向かえ。のさばらせてはならない。」
            (エフェソ4章27節)
「神から来る御霊を(ないがしろして)悲嘆させるな。
あなたがたには、神からの御霊のお働きが啓示されている。
霊操を通じて、あなたがたの罪から解放されなさい。」
                (エフェソ4章30節)
「善い実をもたらさない暗闇に巻き込まれないように注意しなさい。
それよりも、むしろ、その闇の働きを(あなたの内で)露わに自覚しなさい。
露わにされると、その闇の働きが消え去る。」
               (エフェソ5章11〜14節)
「主にあって与えられる力に強められなさい。その威力は偉大です。」
                  (エフェソ6章10節) 
もしも、神と交わっていると言いながら、闇の内を歩むなら、
  私たちは偽っているのであって、まことを行なってはいない。
もしも、神が光にあるように、光の内を歩むなら、
  私たちは互いに交わり(コイノニア)を持ち、
  御子イエスの血が、あらゆる罪から私たちを浄めてくださる。
もしも、自分たちには罪がないと言うなら、
  私たちは自分を騙しているのであって、私たちにまことはない。
もしも、私たちの罪を自白するなら、
  神は、まことで正しいから、あらゆる罪の赦しを私たちに与えて、
  すべての不義から私たちを浄めてくださる。」
               (第一ヨハネ1章6〜9節。)
■御霊の御臨在
 福音的霊操をどこまでも深めるところに啓(ひら)ける霊境、それは、「わたしである(エゴー・エイミ)」の一言に尽きます。この御言葉は、イエス様の御父のみ名ともつながります(出エジプト記3章14節を参照)。
 
その女性はイエスに言う。
「『キリスト』と呼ばれる救い主(メシア)が来られることをわたしは知っています。
そのお方が来られる時、私たちにすべてをお告げくださるでしょう。」
イエスは彼女に言われる、
「それは、わたしである(エゴー・エイミ)。現に今、あなたに語っている」。
                   (ヨハネ4章25〜26節)
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