(4)コイノニアの指導者
■指導者の心得
  「信仰の自由」と聞けば、どういうわけか、それは「自分だけの信念の自由」のことだと思い違いする人が多いようです。こういう人の「自由」は、自己主張と自己判断の自由のことですから、他者の信仰の自由が目に入りません。このような「自己流の勝手な自由」に対立するのが、ナザレのイエス様の御霊の御臨在にある「自由」です。イエス様の御霊にある「コイノニア」(交わり)は、イエス様の言(こと)から発するイエス様の事(こと)として生まれるものです。だから、わたしたちは、まことの「自由」を四福音書書が証しする「イエス様の出来事」(イエス様の御言葉をも含む)と、これを解釈して伝える新約聖書の教えにその源を求めなければなりません。
  コイノニア会を指導する者には、イエス様に己を信託して、聖書の御言葉を深く学ぶことと、これに基づいて、「我ならぬイエス様」の御霊の導きを祈り求める心がなければなりません。まことの「コイノニア」は、イエス様の十字架の御前で、己の罪業を赦された自覚から来る「謙虚さ」からしか生まれません。彼/彼女は、己が無にされる「無私」の心で、自分に託された主にある人たちを心から思い遣り、彼らに奉仕する心がけが何より大事です。私自身の苦い体験から、あえて隠さず申し上げますと、<自由な個人伝道者>が陥りやすい最大の過(あやま)ちは、霊的に傲慢な語り口です! この傲慢は、もしも、その牧者や信者が、教団や宗団に所属していれば防げたはずの傲慢です。コイノニアの指導者が厳に戒めるべきは、「人の上に立とうとする野心」です(マルコ10章42~45節)。主に仕えるとは、主が与えてくださる人に仕えることだからです。上の者は下になるのです。コイノニアに参加する者も、指導者を敬い、<罪を赦す>御霊の御臨在の啓示に与(あずか)ることで、指導する者の真意を悟り、彼/彼女と一緒になって、自分にもたらされる御霊にある自由をば、他のメンバーとの交わりと一致に向けることが大切です。
■個人伝道者を育てる
(1)個人伝道者を育てるために、それぞれの個性に応じて、的確ではっきりとした助言と忠告を<穏やかな言葉で>与える。
(2)それぞれが、主の弟子であることを自覚させ、自分で道を選び、自分の祈りで歩むことを勧める。
(3)自分自身も「主の弟子」であり、決して彼らの「先生」ではない。人の想いに左右されずに、真っ直ぐ主に従う心を失わない。
(4)どんな場合でも、主が、ご自分の御霊にあるコイノニア会を護ること。その個人伝道者を導いてくださること。この信仰に徹することです。わたしに与えられたお言葉は、「<わたしの臨在を通して>、あなたとあなたの妻とは、集会をまとめることができる」です。
(5)こうすることによって初めて、多様な個人伝道者をひとつの交わりの内に活かし続けていくことができます。
(6)この目的のために、何か問題が生じた時には、フォーラム(公開の語り合い)を開く。そこで問題点を明らかにして、その後に、問題解決のために祈る。
(7)それぞれの伝道者が、その違いのゆえに、交わりから排除されることがあってはなりません。誰がどこまで正しいかを決めるのは、御霊に導かれた初心者から経験者にいたるひとりひとりのコイノニア会のメンバーです。このようにして彼らが学び、経験し、訓練され、鍛えられる、まさにそのために、個々の伝道者がいるのであり、このコイノニア会が存在するからです。目的は、メンバー一人一人の霊的育成のためであって、コイノニア会の個人伝道者たちは、そのための道具に過ぎないのです。
                コイノニア会について