(5)エクレシアと会堂制の教会
■大宇宙と小宇宙
ナザレのイエス様の復活によって与えられる御霊の御臨在、この御臨在に包まれ、この御臨在に導かれるところで、「わたし」という存在が古い自分から新しい「わたし」へと創造されていきます。こうして生まれた一人一人の「わたしたち」の御霊にある交わりがコイノニアです。そして、こういう「交わり」が神の「エクレシア」のほんとうの姿です。このエクレシアを囲む人間社会。その人間社会を包む地球という自然環境。この地球が存在する広大な宇宙。これらを包括し支配するのが天地の主である神の御子キリストです(エフェソ人への手紙1章8~10節)。ここには、現代の科学がまだ到達していない自然環境への新しい認識、宇宙への新しい知の在り方があり、そこから「霊的な観点」が見えてくるのです。霊知に基づく自然学、人文学、宇宙学が見えてくるのです。
教会堂を具えたいわゆる「教会」とは関わりなく、人の営み、人類の営みをその根底において肯定し、そこに「何があっても大丈夫」だと言える永遠の霊性を創り出していく神の御業こそ、イエス様の十字架から降る絶対恩寵です。だから、この世の生活の中にありながら、人それぞれの営みを大事に守り育て、そこで御霊の御臨在を表わす人たちの集まりこそ、まことの「コイノニア」の霊性です。このような小さな集いの無数のつながりが拡がるところでは、ハリスト教会もカトリック教会もプロテスタント諸派も、主の御霊にある人の営みの渦の中で溶かされて、イエス様の御霊が、<人類の宗教>として一つになる道が啓けてくるのです。
■七人交と会堂教会
コイノニア会は、幾度かバラバラになりそうになりました。不思議なことに、その結果、逆に結束が強まり、しかも会が広がるきっかけになったのです。これは、まさしく、各自が自由に語り合い討論し合ってきた結果です。話し合いが深く行なわれている交わりは、外部からの敵対勢力に対して、驚くほど強いのです。けれども、今のように、一人一人が発言するためには時間の制限があります。月に一度ですから、このような交わりは決して教会堂での多数の信者たちの礼拝にはなりません。ミクロ(最小)の集い、これがコイノニア会の強みであり弱みです。
個人の自由を大事にする交わりが、聖堂式の教会を形成するためにどうすればよいのか。F牧師やN牧師は、まさにこの困難な課題に挑んでおられます。今、東京のコイノニア会では、I夫妻やAさん、T夫妻などが、これに取り組んでいます。これらの方々は、それぞれのやり方で、これを達成しようとしています。
今までのコイノニア会は、5人~10人の交わりでした。7人が集まり、御言葉の講話を聞き、全員が語り、全員が祈り、全員で賛美の歌を歌うという自由で平等な交わりは、7名で3時間が必要ですから、この人数がせいぜいです。こういう「七人交」(ななにんこう)が、七つあれば、総数49名になりますから、部屋あるいは家屋を借り切って、日曜ごとの礼拝を行なうことができます。月の内の三つの日曜日には、こういう礼拝を行ないながら、月末の土曜の午後には、従来どおりに、別個に七人交を持つというやり方も考えられます。礼拝では、司会と御言葉を語る人とは、それぞれ別個ですから、司会も御言葉のメッセージも、七人交のそれぞれの代表者が回り持ちで行なうことが考えられます。ただし、こういう会堂式の教会が形成されるためには、それぞれのグループが、まだイエス様を知らない人たちに向かって語り、交わりを形成しなければなりません。教会堂が建てられ、そこで持ち回りで賛美と御言葉と祈りと聖餐の聖日礼拝を行い、月に一度の聖日には、各グループごとの集いを持ち、異言と預言の祈りが行われる。そんな、コイノニア会ができたら、これ以上の幸いはありません。
言うまでもなく、従来型の会堂と牧師を具えた教会を形成することもできまです。頭でっかちの私は、自分の不徳と実行面での力の不足から、コイノニアの諸集会が形成する牧師の居る教会堂を建てることができませんでした。コイノニア会のメンバーの中から、どうか実行力を発揮して、コイノニア・センターの建設を成し遂げる人たちが与えられますように祈ります。現在のアメリカのメガ・チャーチは、万単位の礼拝を行ないながら、その下部では、無数の数の無数の種類のミニ集会が持たれています〔ロバート・パットナム/デヴィッド・キャンベル著『アメリカの恩寵』柏書房(2019年)61~75頁〕。カトリック教会を始め、既存の大きな教会でも、これからは、このようなセル集会が重視される時代になります。しかしながら、こういうマクロとミニの両方を具えた教会の有り様が最終的に目指す理想は、イエス様の御霊に導かれる「個人の霊的な成長」ですから、この理想を見失わないことが大事です。このコイノニア会の集会は、そのミニマムから出発していることになります。