(6)コイノニアと他宗教
■寛容な信仰
 春期と秋期の年2回の東京集会には、リベラルな神学性、韓国系の祈祷集会、異言集会、哲学的実存、メシアニック・ジュー、ロシア正教、コイノニア会育ち、純福音のキリスト兄弟団など多種多様な人たちが一部屋に会して、ナザレのイエスの御霊にある一致の交わりを持つという不思議な体験をしました。それぞれが、今あるがままでイエス様の「御霊にある一致」ができるというこの啓示は、わたしに大きな恵みとなりました。わたしたちだけでなく、このことは、日本のキリスト教への新たな啓示となるものです。
  この出来事に観るように、「個人の信仰の自由」が保証されて初めて、一つの宗教から他の宗教へ改宗したり、宗教間の融和を求めたり、統合を目指したりする多種多様な出来事が、「宗教する人」一人一人において自主的に可能になります。イエス様の絶対恩寵が、異なる宗教間で、その真の威力を発揮するのは、このような宗教環境においてです。指導する者には、このような広い心が求められます。
寛容な霊性
 ハーヴェイ・コックスは、未来の諸宗教の姿を多様な水玉模様(motely religeons)だと表現しました(Harvey Cox: Fire from Heaven. pp.313-21.)。言い得て妙です。しかし、大小様々な水玉を活かし浮かべることのできる霊の場がなければ、そのような一即多の世界は生まれてきません。み霊の宗教とは、まさにそのような人間の諸宗教が生きて共生することを可能ならしめる<聖霊の場>を備えることなのです。それは、COXの言うように、<聖霊体験>という鍵語で言い表すことができます。しかし、この言葉は、「聖霊」と「体験」という二つから成り立つ合成です。この二つを結ぶ鍵は、人格的な御霊、すなわちペルソナとしての<イエスのみ霊>です。「体験」とは、ここでは、<人格的な交わり>を表す言い換えにほかならないからです。イエス様の御霊に与る人の霊性は、無の境地に輝く、「霊光・霊知・霊才」の個人として、個性を発揮できる「神の国」において成り立ちます。
                コイノニア会について