(1)高山右近と茶道
■利休の茶道の心
現在の茶道の原型を完成させた千利休は茶道の心得を、「四規七則」〔しきしちそく〕と説きました。「四規」とは「和敬清寂」〔わけいせいじゃく〕の精神を言います。「和敬清寂」とは、「和」(お互い仲良くする)、「敬」(お互い敬いあう)、「清」(見た目だけでない心の清らかさ)、「寂」(どんな時にも動じない心)のことだとされています。
「七則」とは、他人に接するときの以下の七つの心構えです。「茶は服のよきように点(た)て、炭は湯の沸くように置き、冬は暖かく夏は涼しく、花は野にあるように入れ、刻限は早めに、降らずとも雨具の用意。相客に心せよ」。つまり、「心をこめる、本質を見極め、季節感を大切にし、いのちを尊び、ゆとりをもち、やわらかい心を持ち、たがいに尊重しあう」のが大切だということです。
■利休と高山右近
戦国時代の高槻の城主であり、「利休七哲」の一人でもある高山右近は、信長と秀吉の重臣として活躍すると共に、キリシタン大名としても有名でした。だが、1587年7月24日に、秀吉による「伴天連追放令」に際しては、キリスト教を棄教せよとの秀吉からの命令を拒み、即座に領地を没収されて、その日のうちに国内追放となりました。当夜、秀吉は、使者を遣わして高山右近に棄教すべしと伝えましたが、右近からの「拒絶」という思いもよらぬ返答に驚き、すぐさま再度の使者として遣わされたのが千利休と津田宗久です。しかし、茶道の師匠である利休に対しても、右近は多くを語らず自分の決意を述べ、また右近の胸中を理解する利休も多くを語らなかったといいます。
当時、利休は、自由都市の堺にあって、茶道を広めていました。秀吉との軋轢(あつれき)も見え始めていた利休は、秀吉からの命令を毅然と拒絶する右近に何か共感するものを感じたのではないでしょうか。その利休も、1591年1月13日の茶会で、黒の樂茶碗を用い、2月には秀吉から蟄居(ちっきょ)命令を受け、2月28日、自害へと追い詰められていきます。その最中の1月22日、利休は、京都の聚楽第の屋敷に、当時、加賀藩の前田家に預かりとなっていた高山右近を招き、たった一人の茶席を設けています。秀吉のもとで働き、最終的には自らの霊操を守り通した二人は、どんな想いで向き合ったのでしょうか?
茶会記に、高山右近の名前が初めて見えるのは『天王寺屋会記』(津田宗久)においてです。この「会記」によれば、天正5年(1577年)12月26日の朝、伊丹有岡城の荒木村重は、利休と宗久を招いて茶事を催しています。その日の夜、村重に続いて、高槻城主の高山右近が、利休と津田宗久を招いて茶事を催していますが、この時、右近は26歳です。この歳で利休をもてなす茶事を催すということは、それまでにそれなりにお茶の稽古を積んできていたと思われます。26歳の右近が、利休と宗久を客に招いて茶会を行なっていますが、昼間の立派な村重の茶事を考慮したのでしょうか。「会記」によれば、利休には「湯」を差し出しているようです。
秀吉は、山崎の合戦で明智光秀を討ち、勝利した記念に天王山に茶室を作らせています。その際、天正10年(1582)10月2日付けで、利休より高山右近宛に書状が送られており、その中では「丸太六本が届きました。そのうち一本はすぐに使います。大変良い木材を送ってくださり、秀吉も喜んでおります」と記されています。右近31歳の頃です。ちなみに、この「待庵」は二畳茶室です。利休はそれまでの四畳半をわずか二畳へと縮めたのです。
高山右近は、1613年12月、徳川家康の「禁教令」により国外追放処分となり、1614年11月8日、長崎からマニラへ追放されて、翌15年2月3日に現地で亡くなっています。小さなジャンク船に乗ってのマニラに向かう航海は、まさに身一つの旅であったでしょう。その時、右近は小さな羽箒(はぼうき)を持っていたといわれています。細川家の「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」には、「利休が結べし候羽箒を高山右近が切支丹国へ渡り申し候まで所持致し」とあります。国外追放の旅に携えていたのは、利休が自害する直前のたった二人の茶席で譲り受けた形見の羽箒だったのかも知れません。
■右近のキリスト教と茶道
右近研究家のチースリク神父は、その著書で、侘び茶の最も大切な精神的な三要素である「市中の山居」、「和敬清寂」、「一座建立」は、キリスト教の修養の道で言う「回心・照明・一致」に相当すると高く評価しています。右近が、「数寄」(茶道)の効用について語った言葉が、イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲス神父が書いた『日本教会史』に記されています。これは、右近自身が自分の信仰を「茶の湯」に託して語った唯一のものです。『日本教会史』は、当時の茶の湯の世界を知るうえで、欠かすことのできない貴重な資料で、今日、茶道に携わる人達のなかで広く知られています。右近が語ったと言われる、その一文を紹介します。
「高山ジュスト・・・・・は、この芸道(数寄)で日本における第一人者であり、そのように篤(あつ)く尊敬されていて、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄(茶の湯)が修徳と潜心(道徳と隠遁:浜口乃ニ雄訳)のために大きな助けとなるとわかったとよく言っていたが、我々もそれを時折彼から聞いたのである。それ故、デウスにすがるために、一つの肖像をかの小家において、そこに閉じこもったが、そこでは彼の身についていた習慣によって、落ち着いて潜心(隠退:浜口訳)することができたと語っていた。」
この文書から、右近が「数寄」の第一人者であったことはもちろん、右近の霊性という観点から言えば、「右近の祈りの形」が想像できます。すなわち、右近にとって、茶室は、主イエスの肖像を掲げ、閉じこもり、主イエスにすがるための潜心を行う所であったのです。つまり、右近にとって、「数寄」は、「潜心」という形の祈りを行うためであったのです。右近の茶道に対する姿勢は、利休の弟子として、利休の侘び茶の世界に留まるものではなく、キリスト者としての霊性を深めるためであったのです。右近は人生の大きな節目で、霊操を行なう深い祈りの人であったのです。
【符記】この章の右近と茶道に関する部分は、ある文書からの引用とその内容に基づくものです。かなり以前に書き遺した「覚え書き」なので、この記事が、どこでどなたによって書かれたものか、その典拠が記録されていません。これを書いた方に、出典名を記さなかったことで、ここでお詫びと共に、記事への御礼を申し上げます。
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