(2)和敬清寂の「お茶」
■台湾とドイツのお茶会
 以下は、『朝日新聞』(1999年5月13日号)に出ていた記事の紹介です。三月下旬、台北郊外の台湾芸術学院で「無我茶会」というグループの茶会が開かれ、百人が参加しました。野外舞台を会場にした野だては、一人が、四つの小さな器に茶を入れ、一つを自分で味わい、残り三つを左隣の人に勧めていきます。茶の種類に制約はなく、日本の抹茶を持ってきた人もいました。茶をたて始めると会話はなくなります。軽い会釈を交わしながら器が回っていきます。同じことを三回操り返して、茶会は終わりました。会を主宰する祭栄章さん(51歳)は、「忙しさと不安のなかで、だれもが安寧の心を持ちたいと思っている。静かな気持ちで、だれがたてた茶でも受け入れる。そこに自分を無にする時間が生まれる」と説明しました。政情不安と人心不安に揺れる台湾ならではの「お茶会」です。
 参会者の一人に、ドイツへウーロン茶を輸出する黄秋致さん(32歳)がいました。七年前から、ミュンヘンで暮らしています。小さな会合に出るときは必ず、茶をたてて飲み比べをしてもらう。ミュンヘンから汽車に乗るときも、道具は欠かせません。茶が人間関係を和ませる効果があると思うからです。「ドイツの人たちはプライベートな時間を大切にしている。それだけに、人が集まると緊張するみたい。自我意識が強いから茶を飲んで、すぐ無我の境地になれといっても無理。茶を通じて相手を認め合うところから始めている」と笑っていました。
 そのドイツで、五年前から、緑茶が人気になっています。特急列車では、香料入りの日本茶が五マルク(約三百四十円)で売られ、緑茶をテーマにした音楽CDが一万五千枚もつくられています。緑茶を出す喫茶室は順番待ちでした。
 ボンの茶専門店に勤めるスザンネ・パルメンさん(39歳)は、「最初は健康飲料としての関心が強かったが、次第に味と雰囲気にひかれるようになってきた」といいます。半年前に紅茶から玉露に切り替えた会社員のユリック・グラーザーさんは、「カップに残った香りには、晩夏から初秋にかけた土のにおいがする」と気に入っていました。ケルン大学東洋文化研究所日本学科のフランチスカ・エームケ教授は、茶をたてるプロセスの魅力を、言葉にしてくれました。「いまは、ヨーロッパでもアジアでも余裕がなくなっている。人には、めい想する時間と空間が必要。宗教的なものには、しり込みしても、お茶ならば安心できるのでは」。
■三位一体の交わり
 三位一体の神に働く三間一和の御霊の交わり、これに与る私たち一人一人のイエス様への信仰の歩み、これだけが、コイノニア会の交わりへの支えであり、護りであり、安らぎです。イエス様の導きによって日本人のクリスチャンが到達する境地は、これを茶道で言う「和敬清寂の心」と言い表わしてもいいでしょう。この言葉は、ほんらい、利休の佗茶の茶道を受け継いだ仏教の住職の言葉ですが、クリスチャンが「和敬清寂」と言う場合は、仏教よりも、人の個性を発揮させる霊性のことです。人の個性を発揮させる「自由な霊性」のほうが、利休ほんらいの茶道の心得に近いでしょう。
 だから、イエス・キリストにあるクリスチャンは、イエス・キリストのみ名を呼び求め、イエス様に従い続ける心構えと、個人個人の自己修養への追求が求められています。「もしもあなたがたが、私にどこまでも留まり続けるならば、あなたがたは真理を悟る。その真理は、あなたがたにほんとうの自由を与える」(ヨハネ8章32節)とあるとおりです。こういうクリスチャンの歩みは、その至らなさ、その過ちへの十字架の赦しがなければ、とうてい達成できないことです(第一ヨハネ1章7〜8節)。
 三位一体(the Trinity)の神の「三間一和」(the Three Relations in One Agreement)の交わり(the Koinonia)に与ることで与えられるのが、 「和敬清寂」の霊性です。「和敬清寂」とは、平安(Peacefulness)/敬虔(Reverence)/ 清純(Purity)/ 不変不動(Constancy)の心のことで、これこそ、日本人への神からの賜(the Gift)です。コイノニア会で言う御霊の霊性は、霊智(自然科学と補完し合う)・霊性(個性を大事にする)・霊愛(他宗教への寛容)・ 霊能(異言や預言などを信じる)の四つです。
 「和敬清寂」とは、イエス様の御霊のお働きを受けて、心の奥深いところから啓けてくる霊性のことです。それは、心安らぎ(和)敬虔で(敬)清らかな(清)不変不動(寂)の霊境を指します。コイノニア会は、ぎりぎりの人数で、なくてはならないものだけを残して、この上なく簡素で、この上なく小さい(most simple and small)集いです。「和敬清寂」の瞑想と霊操によって到達できる「安らか」で、「うやうやしく」、「きよらか」で、「確固とした」この境地は、人と人とが交わる「コイノニアの霊愛」と呼ぶのにふさわしいです。このために、学び合い。祈り合い。深め合い。広め合ってください。
■御霊にある多重性
 和敬清寂の霊操を育てる「お茶」の有り様とそこに臨在する霊性は、そのままで、東方正教でも、ローマ・カトリックでも、プロテスタントの諸宗派でも通用するものです。大宗団、大教派であれば、学び合い、祈り合い、深め合い、広め合う「小さな交わり」が、なおさら大事になりましょう。聖堂や教会堂の中だけでなく、既成の教会とは無縁のごく普通の一般の家庭でも、「目立たず、密かに」この交わりを実践することができます。こういう集会の有り様は、多重な宗教環境におかれた社会や国家において、その本領を発揮するものです。
 現在の美智子上皇は、かつて、皇后陛下であられた時、イタリアご訪問の際に、ヴァイオリンに合わせてグノーのアベ・マリアをピアノで演奏されました。また、カトリックの寺院を訪れて、その際にイエス・キリストにお祈りをされたのではないかと噂されました。もしも、祭儀の宗教的二重性が認められないならば、このような行為は決して許されないでしょう。美智子上皇の母である正田富美子さんは、亡くなる直前に洗礼を受けましたが、葬儀は神式で行われました。当時の美智子皇后に対する母の配慮であったと思われます。これが意図することも、キリスト教でありながら、外部への祭儀においては神道であるという二重性を有しています。
 霊性と祭儀とのこのような二重性は、実は徳川時代を延々と生き延びたキリシタンの伝統にあります。日本人には、このキリシタンの思想が流れているのです。キリシタンの伝統とは、「逆らわない」ことです。たとえどのような上辺を装うとも、あえて権力に逆らうことをせずに、主イエスにある霊性を守り通すことです。殉教する者は殉教しない者たちが生き残るために殉教し、殉教しない者は、殉教した者の信仰を伝えるために生き残ったのです。あらゆる事を「受け容れる」こと。これを通じて、必ず、主の御臨在を仰ぐ時が訪れる希望を抱くことができます。十字架のイエス様の赦しに包まれて、穏やかに静かに霊性を生き延びてください。そのために力を合わせて、エクレシアを生き延びてください。決して、英雄ぶったり、自己の心情に動かされて、自己流の正義ぶりを発揮しようなどと考えないでください。エクレシア全員のために、忍耐して受け容れ、どこまでも生き延びてください。キリシタンは、右の頬を打たれたら左の頬を向け、「一里行け」と言われたら、二里行ったのです。呪う者を祝福し、敵を愛することで生き延びつつ、じっと堪えて開花の時を待ち続けたのです。250年の長きにわたり、こうして信仰を守り通した日本の潜伏キリシタンたちは、仏教や神道と習合しながらも、世界に類を見ない独自のキリスト教の霊性を日本のクリスチャンに遺してくれました。わたしたちは、この貴い犠牲が産み出した霊的な遺産を大事にしなければなりません。
 国を守る力は、国の権力者たちからではなく、その国の民の間から生まれます。国家権力に「保護されて」広まったキリスト教なら、国家権力に支配されて、これに利用されるのを避けることができません。しかし、潜伏キリシタンのように、国家権力の目の届かないところで広まったキリスト教であれば、そのキリスト教は、いつまで経っても、その贖いの力を通じて、かつて自分たちを迫害した国家を「保護し、守る」働きを失うことがありません。
■和室の交わり
 2021年6月23日の明け方に、京都の四条辺りにある、美しく飾られた洋風の集会場で、知り合いの女の人が居る集会に出ている夢を見ました。祈祷会でしょうか。祈りと聖書解釈がきちんとできるのだろうかと想いながら出ていました。その後で、純和風の家の集会で行なわれている聖霊に満たされた和敬清寂のコイノニアのヴィジョンを見ました。夢の後で思い返すと、純和風の家で十字架さえ見えないのは、迫害の時には、外に十字架の飾りのない家で集会をしていた潜伏キリシタンの伝統から来ているのだと分かりました。目立たない、ほかの家々と全く変わらない集会場で、静かに開かれるキリスト教の集会。少人数ながら、そんな家が無数に存在する。これが、わたしの想い描く日本のキリスト教の姿です。こういうコイノニア会が、今後、「京都のお茶会集会」と噂(うわさ)され、ある人たちからは「馬鹿にされる?」、そんな時が来れば幸(さいわ)いです。
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