(1)「個人伝道者」とはなにか?
  ここで言う「個人伝道者」とは、一人一人の信仰者が、自主的に福音を証しできるような教会あるいは集会の在り方を求める人たちのことである。「個人伝道者」の対極にあるのは、教団・教派の制度に基づく職制化した組織としての「教会」である。このような既成の伝統的な教会制度は、それなりに重要な意味と機能を有しているのは疑いない。日本においては、このような組織化した教会活動が、伝道の成果を上げるために重要であるばかりか、必要不可欠でさえある。またキリスト教が、社会全体の中で、あるいは国家全体の中で、宗教的、文化的、政治的な力を発揮できるためにも、団体としての組織の力が重要であることは、例えば政治における選挙の場合を考えてみても理解できる。私がこれから提唱する「個人伝道者」とは、そのような既存の教会や教会制度を脅かすものではない。
  しかし、このような組織的な力を発揮する教会制度には、それに伴う弊害もまた生じてくることが避けられない。だから、既成の制度化した教会が、キリストの教会として活性化するためには、常にこれとは対極にあって活動を続ける福音伝道の在り方が要請されてくることになる。そのような相互補完的な機能を有する伝道の在り方として「個人伝道者」が、大事な意味を帯びてくるのである。
  だから、ここで言う「個人伝道者」は、教派・教団に属しつつ伝道する個々の牧師・伝道者のことではない。そうではなく、そのような教派や教団にとらわれることなく、独立して伝道する人たちのことである。ただし現在では、このような独立した牧師・伝道者たちは、単立の教会を設立する方向を目指す場合が多い。ある人が、伝道への召命を感じて、独立伝道を始め、その結果一つあるいは複数の教会堂を有する「教会」を創り育てることが現在でも行われている。こういう単立の教会の設立を目標とする人たちをも広い意味で「個人伝道者」に含めて呼ぶことができるかもしれない。
  しかし、私がここで言う「個人伝道者」というのは、そのような教会堂を有する教会を設立する職業的な牧師・伝道者のことではない。それは、より狭義の意味で、職業に従事しながら、初めから教会堂を有する「教会」の設立を本来の目的としない伝道者たちのことである。
 職業と伝道について言えば、既存の教会や教団の中でも、キリスト教、仏教を問わず、例えば大学教授の職にありながら正規の牧師や僧侶の職に就いている人たちが大勢いる。こういう人たちはここで言う「個人伝道者」には含まれない。
   したがって、「個人伝道者」とは、職業に従事しつつ、家庭や集会所で、比較的少人数のミニ集会を営む福音の指導者あるいは伝道者を指している。こういう伝道の在り方に似ているものに、現在教会形成のひとつの方法として、信者を数人ずつグループ分けして、それぞれに家庭において集会を行わせる「セル集会」がある。これは教会堂を有する多人数の教会が、教会全体の活性化と伝道の成果をあげるために採られている方法のひとつであるが、このセル集会が、本来それが所属する教会から分離独立した場合に、その指導者は、私がここで言う「個人伝道者」の定義に近くなる。実は、この過程こそ、カトリック教会や英国国教会から、様々な教派や教団が派生していった最初期の段階にほかならない。教会の歴史をみると、それらの分離独立派も、やがては一つの教派・教団の形成へと発展していくことになる。するとその中から、再び分離独立するグループが現れるという過程が繰り返されてきている。
  我が国には、明治以来内村鑑三たちによって始められた「無教会主義」に基づく集会の在り方があって、すでにキリスト教界において、その意義を認められている。私の言う「個人伝道者」は、むしろこのような伝道と集会の在り方を志す人たちに近い。ただし、無教会主義を標榜する集会は、通常洗礼と聖餐を行わない。さらに、無教会と言えども、その集会や宗団の中で、一人一人の信者に対して信仰の自由が保証されているとは限らない。逆に、師弟関係によって、より厳しくその所属関係が規制されている場合さえある。

 (2)個人伝道者の意義
  では個人伝道者の意義、すなわちその存在理由はどこにあるのだろうか? それは、21世型の宗教、特にキリスト教の有り様を洞察する時に、これからの教会には、従来よりも一層の「個性化」(individuality)と「多様化」(diversity)と「弾力化」(flexibility)の三つの特性が要請されてくるという認識から出発している。すなわち、集会の信者ひとりひとりが、それぞれ対等な「伝道者」であり、またそうなることが求められている、そのような集会の在り方と言ってもよい。実はこれこそが、キリスト教会の最初期の姿であり、しかも、新約聖書が目指すところの「御霊にあるキリストのからだ」としての「教会」(エクレシア)のあるべき姿なのである。 なぜなら、キリストの御霊にあるクリスチャンとは、その本質において、「キリストを証しする存在」であり、これこそが、キリストの聖霊の働きそのものに他ならないからである。「個人伝道者」とは、福音をより効果的に「伝える」ための方便や手段ではない。それは、御霊にある福音信仰の有り様それ自体なのである。
  だから私たちが、キリストの御霊の根元的な働きにさかのぼるときに、どうしてもこの「個人伝道者」というコンセプトに行き着くことになる。そこには、聖霊は、最初に、全体ではなく、一人一人の個人に働き、それぞれに啓示を与える、という信仰がある。なぜなら、御霊の宿りとは、これを信じる人の人格それ自体を形成することであり、個人としてのその人を成り立たせる根元の力にほかならないからである。御霊にある働きは、組織や外部からの要請や義務によって生じるものではなく、その人の自由な意志と自発性、すなわちその人の「自主性」から発するものであり、またそうでなければならない。この意味で、上に挙げた三つの特性を支えるものこそその人に働く御霊にある「自主性」なのである。
  聖霊の働きは、常に既存の教派や教団の教えや在り方にはまりきらない分野、それまでの信仰の有り様では対処できない領域へと私たちを導く。それは、キリストの御霊が、本質的に、私たちをして、過去ではなく未来を見つめさせ未来に向かって前進させる御霊だからである。だから、御霊にある信仰では、一定の教派・教団の枠にとらわれない発想の自由が常に求められることになる。これが、ここで言う「個人伝道者」の存在意義である。

(3)個人伝道者の在り方
   したがって、個人伝道に基づく集会は、少人数であるのがむしろ望ましい。そこでは、一人一人に働く御霊の働きから来る自主性が尊重されなければならない。そして、各自が、特定の集会に所属しながらも、常に既成の教団をも含むあらゆる集会に対して開かれていなければならない。すなわち、彼には、自分の責任において、どのような集会にも出席できる自由が認められていて、しかもその範囲は、キリスト教だけでなくそのほかのあらゆる宗教活動をも含むものでなければならない。
  このような集会が数多く存在することが、これからの日本のキリスト教にとってきわめて大事である。しかも数だけではなく、多様性をもって広く存在することが望ましい。その上で、それぞれの集会の間で、常に自由な交流が認められていることが必要である。ただし、そのような交流が、ひとつの教団や教派の形成を目指すものであってはならない。宗教的な教派や教団は、必然的に統一を求める。すなわち、より大きな円を描いて、全体を一つにまとめ、統一し教義化し権威化する方向に向かおうとする傾向が強く働く。しかし、御霊にある個人伝道の集会が、多様性と個性を発揮するためには、そのような包括的な円ではく、花弁型を採るのが望ましい。要(かなめ)となるのは十字架・復活に基づくキリストの御霊である。この福音的アイデンティティから、自由に発想された福音の有り様が、花弁のように方々へと広がることで、「多様の中の一致」が維持されるという構成が望ましい。これによって、御霊にあるミニ集会が花開くのである。
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