コイノニアのメンバーとの対話
【来信】あるメンバーから
私市先生
先生のお話が聞きたかったのに、(夏期集会で話をしないのは)悲しいことです。夏期集会では、(先生から)おのおのが今後の道を宣言せよ、とのことですが、私はここ何年か、心が暗い夜のような感じで、自分から進んで語れることは、それほどないのです。ただ夏期集会へ呼んでくださったのが嬉しく、自分に必要なことがあるのではないかと、期待して待っておりました。集会も大事にすべきですが、先生ともお話やお祈りができる時を願っております。
【返信】あるメンバーへ
 コイノニア会は、霊的に自由で開かれた交わりです。ところが、「自由」というものは実は難しく恐ろしいものなのです。コイノニア(交わり)のエクレシア(集い)は、イエス様の十字架の赦し合いの心がなければ成り立ちません。
私市元宏
【来信】私市先生 へ
 本当にそうです。十字架の許し合いの心がなければ、ただふつうの人になってしまいます。聖書の中で残酷と思う場面は、イエス様がこれからまもなく自分は死ぬという話をした後なのに、弟子たちが自分の栄誉を求めて揉め事を起こすところです。わたしの中からも、天から火を呼び下して他人をを焼き滅ぼす、というような悪い考えが出てきます。
 しかし、悪い思いが、十字架に飲み込まれてしまえば、ひれ伏す思いだけになります。これが、自由ということですね。あれ?ひれ伏すときにこそ、御霊のあるところにのみ、自由があるならば、悪を選ぶ自由とは、いったい何でしょうか。自由には、2種類あるのでしょうか。アダムとエバがいただいた自由と、パウロがいただいた御霊による自由のふたつが。(後者の自由については、以前の東京集会で私市先生が、イチローの熟練したバッティングのたとえによって教えて下さいました)。それならば、難しく恐ろしい自由から、逃れて、イエス様の持っておられる自由のほうに駆け込みたいです。
【返信】あるメンバーへ
<(イエス様の十字架の赦しの前に)ひれ伏すときに赦しの御霊の働きかけから湧く自由があるのならば、悪を選ぶ自由とは、いったい何でしょうか。>
 悪を選ぶ自由とは、十字架のイエス様の赦しの前にひれ伏すことを拒み、自己判断と自己主張を選ぶ自由のほうを採ることです。人間には、罪を犯す自由という恐ろしい自由があるのです。だから、人は、自分から自分に対して、神と御子による「裁き=判断=裁定=断罪」を招き寄せることが<できる>のです。イエス様の御臨在の福音は、人に赦しの救いをもたらしますが、その同じ恩寵の自由は、人が自ら自分に裁きを招く結果ともなることが分かります。
<自由には、2種類あるのでしょうか。アダムとエバがいただいた自由と、パウロがいただいた御霊による自由のふたつが。(後者の自由については、以前の東京集会で私市先生が、イチローの熟練したバッティングのたとえによって教えて下さいました)。それならば、難しく恐ろしい自由から、逃れて、イエス様の持っておられる自由のほうに駆け込みたいです。>
 コイノニア会のメンバーが、あなたが今選ぼうとするイエス様の赦しにある「自由」のほうを選ぶなら、争いや分裂は生じません。コイノニア会にある「自由」には、イエス様の御霊にある愛の交わりよりも自我の信念を通そうとすることをも許す(許可する)ほどの広さの「自由」がありますから(ここで<許す>と<赦す>の違いにご注意ください)、これを利用して自己主張する人が絶えません。どうしてそうなのか? コイノニア会のエクレシア(集い)には、ほかの教会では見られないほどの「自由」があるからです。
【来信】私市先生
 いつも、確認していないといけないですね。今自分の心にあるのは、イエス様の心だろうか、それとも、ただの自我の信念なのかな?と。
「日本人のリヴァイヴアル」という講話のなかに、自分を絶対化しない歩み、「この歩みの中に「永遠の命」すなわち神から来る「絶対性」が宿っている」とありました。自転車のようですね。これでもう完璧と、止まってしまうと、すぐにコケるのです。
【返信】あるメンバーへ
 あなたの洞察は鋭いです。今回の出来事を通じて、御霊にある自由な交わり、すなわち「コイノニアのエクレシア」に潜む問題点を的確にとらえています。
私市元宏
【来信】私市先生
 お返事遅くなりすみません。
メールのやりとりをまとめていただいて、恐れ入ります。あらためて読んで、気づいたのは、最初は、悲しい気持ちばかりだったのが、メールのやりとりをするうちに、いつのまにか、自分の視線が前向きになっていったということです。
感謝です。皆さんにお会いできるのが楽しみです。
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