コイノニア会司会の言葉
                        コイノニア会司会の言葉
                     インマヌエル
                    小阪 廣治 (2019年3月30日)
                    
  神はわたしたちとともにおられるというとはどういう人の日常のことを言うのでしょう。まず神様が人とともにいることについて聖句で確認してみたいと思います。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)
この聖句はナザレのイエスが死んで葬られて約束通りガリラヤで弟子たちの前に姿を現された時の聖句です。イエスの地上の最後が十字架の死と復活であるようにその始まりは、わたしたちにひとりのみどりごが与えられる。(ルカ2章1‐20節) 出来事によります。
ひとりのみどりごがわたしたちのために産まれる。」(イザヤ書9:6)「その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である(マタイ1-23節)。
 イエスさまのご誕生によって神はわたしたちとともにいつもおられることになります。さて、みどりごとして神が誕生することによってわたしたちは希望を抱くのですが、神の創造のはじめから人の誕生(始まり)に喜びを感じてきました。人々は暮らしの中に子どもが生まれることで新しいことが始まる喜びの経験を、違和感なくイエスの誕生に神の祝福を重ねることができたのです。
 こどもの誕生によって世に喜びができるのは世に新しい始まりが喜びとなる経験が共有されているからです。それはすでに神の創造の始まりにおいて、人間の始まりの誕生を喜ぶ共通の経験がわたしたちにあったことを意味しています。わたしたちが飼い葉桶のみどりごの誕生に喜びがわくのも人々にみどりごが誕生する同じ喜びの湧く事実を経験していることが神われらとともにある人の共通感覚になるのです。
人々の共通感覚、経験を共有できることこそ神が我々とともにいることを証ししていることになる。それゆえ人々の連帯は経験の共通感覚ゆえに生じる。神我々とともにおられることを経験することによって始めて生まれることになる。神われとともにはみどりごの誕生に天の父の御心を地上に顕してゆくことを意味している。  誕生に拠って人は神が我らとともにおられることを知るのは人が御父の御力を経験することゆえに神がわたしたちとともにあることを知るのです。この御力の経験、人にはひとりひとり人が誕生することで新しく始めることができる。地上に新しいものが始まる。御父の聖なる都の建設に参加することができるのです。わたしたち一人ひとりの誕生が主の御力が与えられているというまさに神我らとともにです。
 イエスの誕生と死にわたしたちの目を向ける時、パウロと同様にわたしたちにとっても、ナザレのイエスは日常に生れた出来事の事実であることが解ります。わたしたちは出来事を通して日常に起こる事実により神の御顔を知るのです。この出来事は、旧約聖書に書かれた時代の人々が経験した出来事と変わりがありません。
 「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:15節)
 罪人の日常は神よりも賢く横柄に振る舞っている。その日常に神が誕生される。インマヌエル、神はわたしとともにおられる。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いインマヌエルの日常は罪人の日常にどのように影響してゆくのだろうか。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3章14節)。
 事を成就される神は人々の日常の出来事にその御力を現されます。人と人の争いの中に和解の時に、虐げと暴虐のところに。日々起こる人の事柄の(生起)に。
 それではどうなりますか。神がわたしたちとともにおられるということは日常に生起する事柄すべてに神がともにおられることが理解できその出来事から御心を証しする者になることです。政治・経済・文化あらゆる人間の営みが生起する日常のなかに、わたしたちは、聖書に書かれ知られているイエスの始められた神の国に人々を招くことをしてゆかなくてはなりません。
 おりしも今日内閣府の初めての調査で40〜64歳の中高年の引きこもりの人が全国に約61万人いることが解った。内閣府の担当者は40歳未満も加えると概数で100万人はいるだろうとしている。100万人が日本で隣人と接することが出来なく孤立している。スカルの井戸に水を求めてこっそりと炎天下に汲みに来る孤立した引きこもりの生活をしている人にイエスは声を掛けられた。
 エリコの街道をゆく善きサマリア人のように。そしてわたしたちにあなたも行って同じようにしなさいと言われます。
わたしはありてある者と言われる神は。必ず弱いもの虐げられているもの、身寄りのないもの、やもめ、みなしご、足の弱ったもの、目の不自由なもの、社会的弱者の傍らにお立ちになり、生きよと励まし、慰めを与えられ、弱者の権利を回復されます。
 そうです、私たちは人間の共同体に神の御心が成就する働きのために御心の側に立たなければなりません。
インマヌエル。神われらとともには日常で弱いものの側に立続ける神がいること、人の弱さの中に誇りを見いだす生き方にあります。その傍らに備えられた善き隣人によって弱さの中に神に愛されているという人の本来の誇りを取り戻してゆくのです。神我々とともにとはこうした神の国の共同体へ人々を招き、人々の罪の解放のためにイエスの御霊に依って父のなさる御心に信頼して神の御力を求めるところにあります。
 今日のもう一つの出来事はアフリカの民族紛争の中を生きる人びと。資源があるゆえに海外資本が部族対立をあおり紛争につけこみ利益を得るアフリカの構造的な政治汚職や、宗教対立、子どもたちは戦争がない平和な暮らしを知らない。日常が人殺しに明け暮れている中で記者が目にした明日への希望の光を紹介していた。戦争が破壊し尽くした後に残された場所でマーケットが立ちカラフルなケーキが店先に並ぶ。戦争の中でもどちらの部族にも加担せずに病人を看病しようと努力する国際医療機関のスタッフのいること。かれらのモチベーションが人を助けたいヒューマニズムにあること。日本でもう聞かれなくなった恥ずかしくて口にできない、困っている人を助けたいという一心が援助の動機ということ。
 記者の希望の光をあとひとつ紹介する。その医療機関の人々の手伝いする現地の若者が現れたこと。彼らの心境の複雑さ。本当は名誉のために銃をもって部族を殺した奴らを殺したいのだ。しかし素晴らしい人達に出会った。医療に取り組む国際援助の若者の姿に自分も人の役に立ちたいという気持ちになったそして手伝いを申し出た。この医療の人の役に立つことでわたしの人殺しの誇りが人を助ける誇りに変化したことが嬉しいと言っていた。
 悲惨な日常の中でも神はこのように困っている人に御力を現されているのに気付く。神は我らとともにいる。日本国中に蔓延した政府に忖度する報道において真実が曲げられる日常の中で、インマヌエル、言論においてあなたの自由な御霊が語る時、公共の場を呪いから祝福に変えてゆく神の力があふれ出る。
 インマヌヌエル。人には捨てられた「隅の石」神の国の創建の基礎石となられた、善きサマリア人の姿、弱り果てたものに寄り添う友よ共に参加しよう。主のみ身体に繋がる公共の言論の場において再び。
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