【来信】いわゆる霊的な信仰に対する非難として、聖霊を強調する人々は、とかく罪意識が希薄である。愛を一面的に強調し、神の義がぼやかされている。また、神と人との区別がとかくあいまいになっている。クリスチャンは、生涯かかって自分の罪深さを知り抜いていくことこそ健全な信仰なのだ。こう言われる方々がいらっしゃいます。私はある時、聖霊を強調する祈祷会に参加したのですが、そこではたしかに「救われたんだから、もう罪、罪と言うな。だから既成のキリスト教会はダメなんだ」という内容のことを言っているのを聞きました。ところが「聖霊の働きこそ罪を示し、謙りに導くこと」だと、言う方々もいます。
 聖霊を具体的に体験された方々の中でも、「聖霊は罪を明らかに示す」と言う方もあり、「罪や消極的なことや否定的な事を問題とするな。聖霊は前進だ」という方もあるようです。御霊によって歩むことにつきまして、この聖霊と認罪の問題について教えて下さい。
  聖霊の体験は、自分が何者でもないことがハッキリさせられる方向にある。自分の肉の姿が照らし出されたら、すぐにイエス様の十字架のもとへ差し出すように。そこがイエス様とお出合いする場所だから砕かれていくように」という指導もいただきました。また異言でどんどん祈るようにとも仰られました。しかしながら、いただいた異言の賜物と、それを深く体験することと、聖霊の指導とが、いまだバラバラで、自分のなかで統合されていないのです。
 たまたまある集会に参加いたしました。たしかに、祈りについて、聖書の読み方について、多くを教えられ事実はなはだしく恵まれた経験をいただきました。ところが、そこでは罪についてとやかく問題にすることを大変にきらうようでした。私はいままで、認罪こそイエス様とのお出合いの場であり、罪があきらかとなりつつ、生涯砕かれていくことが信仰の歩みと思っていましたので、どうにもいまだこの点消化しきれず、自分の中で分裂しています。ちなみに、どちらかの教派のやり方を選択し、他を非難することが目的ではありません。統合されたいのです。
【返信】
  お尋ねのみ霊の働きについて、できる限りお答えします。この問題は、決してあなた一人の問題ではないと思います。私自身同じような悩みをずいぶん長い間抱えていましたから。こういう奥の深い問題に的確な答えをするのはなかなか難しいのですが、自分に与えられた範囲でやってみましょう。まず、聖霊の働きと罪の自覚の問題について、伝統的な考え方から説明します。
(1)それは「聖化」という問題と深くかかわり合っています。17世紀頃から、聖霊の働きに関して、ある一定のプロセスがあるとピューリタンたちは考えるようになりました。それによると、第1段階は、罪の自覚を覚える。第2段階は悔い改める。第3段階は神によって義とされる。第4段階は神の子として受け入れられる。第5段階は聖霊によって聖化される。第6段階は聖霊によって栄化される。
 例えばこのようなプロセスが、17世紀以降のキリスト教の教会で行われてきました。こういう考え方に従うなら、第5段階の聖化においては、罪の自覚がなくなるはずです。しかし現実には、こういうプロセスがうまく働くとは限らず、さまざまな形のゆがみが生じました。ホーソーンの文学などには、ピューリタン時代のこういうゆがみが映し出されています。このような伝統は今でも根強くて、聖霊の体験を受けたならば、もはや罪の自覚は存在しない。いや、存在してはならないという考え方が残っています。イエス様を信じたとたんに、心の曇りが一切晴れてしまったなどという証をアメリカのクリスチャンたちから聞くときに、私はこのようなキリスト教的な伝統を思わずにおれません。
(2)けれども、私たち日本のようなキリスト教国でない国では、こういう既成の伝統は、必ずしも当てはまりません。内村鑑三が悩んだことの一つにこのことがあります。ですから私は、自分の経験に照らしてみても、こういう考え方を受け入れていません。私が、み霊のバプテスマを受けたときに、バルトのものやルターのものなどを熱心に読んだのも、罪の自覚がみ霊の働きによって消えるとい教義に疑問を覚えたからです。
  私がこのようなみ霊の働きによる罪の自覚の解消に賛成できないのは、聖霊の働きが強調されればされるほど逆にそのような「きよめ」に到達できない人たちが、やましさを感じ、自分が何か不完全な存在であるかのような、誤った罪の意識に陥るからです。おそらく罪の意識にさいなまれるクリスチャンというときには、このような伝統的な考え方を引きずっている状態を指しているのではないでしょうか。こういう過度の罪意識に悩む信仰の在りかたは、聖霊の働きが罪の自覚を完全に解消するという、聖化の信仰と裏表をなしています。このような「聖化・きよめ」神学に基づく限り、一方では罪の自覚からの完全な清めが強調され、他方ではこのような確信を持つことができない人たちによって内面的な罪への不安が生じるという結果に陥るのは避けられません。
(3)ルターが、罪の自覚の深まるところには恵みもまた深まると言ったときに、彼は、カトリック教会に根強く残っていたみ霊による聖化のことを考えていました。彼はむしろみ霊の働きは、人間の罪の自覚を深めこそすれ、その自覚を取り除くものではない。逆にみ霊によって自分の罪がはっきりと示されることを学んだのです。この場合罪というのは自分の心の思いこみや、人の意見や説教を聞いて、自分を他人と比較するところから来る悩みのことではなくて、キリストの前にみ霊に感じた聖霊の働きによって、自分の罪が自覚されることを指しています。すなわち、ルターの言う罪は、己の感情や気持ちから来るのではなく、聖霊によって啓示されるのです。
 ここで啓示されるということが非常に大事な意味を含んでいます。なぜなら、聖霊によって啓示された罪は、必ずその裏に赦しを含んでいるからです。聖霊によって啓示された罪とは、決して自分の思いこみや他人との比較からくるいたらなさ、あるいは劣等感、あるいはやましさのようなものではないからです。この意味での罪の自覚は、人間の内に潜む「原罪」につながります。これは、人が感じたり、この程度だろうと勝手に推測したり、ましてや「消え去った」などと妄想するものではありません。原罪は、それが存在するとみ霊にあって啓示される、すなわち「信じる」ものだからです。
(4)ただし、私が自分の過去を振り返ってみて、こういうことを言ったとしても、それだけではあまり参考にならないと思います。なぜなら、あなたにとって大事なことは、私が得た結論をそのまま鵜呑みにするよりも、どのようにしてそのような自覚に達したのかという、実際に自分で体験して学ぶそのプロセスのほうがはるかに重要だからです。これは実際にやってみることによってしか体得できません。異言を伴うみ霊のバプテスマが大事なのはまさにこの場合です。一人一人が、それぞれに与えられた信仰の歩みの中で、自分の罪の深さと同時にその罪の赦しを啓示してくださるみ霊こそ、本当の意味での謙虚さと確信と愛へと導いてくれるからです。それは神学的な理論ではなく、自分が何か問題に出会って、誰にも理解されないその悩みを、まさにその故に異言で語るみ霊だけが自分の信仰の唯一の頼りとなる、そういう状況の中から学ばせられることだと思うからです。自分の罪の深さを知ると同時に、その罪がイエス・キリストの十字架の愛にあって赦されているという深い自覚こそ、パウロがその生涯を通じて学び伝えたことではないでしょうか。「福音は信仰に始まり信仰に終わる。」「私は罪人の頭である。」「罪の増し加わるところに、恵みもいっそう増し加わった。」「私は弱いときにこそ強い。」「善人や正しい人のためではなく、不信心なもののためにキリストは死んでくださった。ここに愛がある。」これらのパウロの言葉は、私たちクリスチャンが、おそらく一生かかって学んでいくものではないかと思います。

【再来信】
  最も大切な事として、先生が仰られた「私がイエス様からいただく」という生きた歩みの契機としたいと思います。一方的な模範解答ではなく、順を追って問題を整理していただけたことが、ありがたかったです。「御霊によって罪が啓示されるときには、必ずその裏に赦しを含んでいる」というのは、本当にそうだなあと思います。私もこのことは体験したことがあります。人間関係で私の責任について悶々としていた時、祈りの中で、ただ「神の御前に罪を認めさせられた」時、同時に光につつまれるように十字架の赦しを体験し、当面していた人間関係もまったく解決していたという経験がありました。罪の消滅ではなく、罪の赦しの福音をこれからも 追求しつづけていきたいです。
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