【来信】 
  第Tコリント13章1節の「たとい私が人の異言や御使いの異言で話しても愛がないなら」の箇所にある。「人の異言」と「御使いの異言」についてはどう解釈したらよいのでしょうか。その違いについてお伺いできたらと思います。よろしく御願いします。

【返信】
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 まず最初に、ここでのパウロの言葉の意味から説明しましょう。いったい彼は「人間の異言」と「天使の異言」とを別々のものと考えていたのでしょうか? それとも同じ「異言」が「両方の働きをする」と考えていたのでしょうか? ここでのパウロの原語を文字通りに訳すと「人間と天使の異言(舌・言葉)」となります。天使が語る言葉(異言)であれば、人間は天使ではないからそれを語ることができません。ところがここでは、パウロはその天使の異言さえも語ることができることになります。人間が天使の異言を語ることができるのなら、人間の異言と天使の異言とは区別がなくなります。
  ではパウロは、2種類の異言をその「程度の高さ」によって区別していたのでしょうか? 「コリントの信徒への手紙U」12章3節にある「言い表せない言葉」とあるのはやはり異言を指すと考えられています。しかもここでの体験をした「ある人」というのはおそらくパウロ自身のことを遠回しに言っていると考えられます。ですからパウロは一般に信者が語る異言とそれよりも高度な霊的体験での異言とを区別していたとも考えられます。しかも彼はそのどちらも体験していたのでしょう。彼が「種々の異言」を語る人がいる(Tコリント12章10節)と言うのもそのことを裏付けています。私には、パウロのような高度なエクスタシーに入った経験がありませんから、確かなことは言えません。しかし自分の今までの経験に照らしてみても、同じように異言を語る人でも、それぞれ霊的な体験の深さには、そうとうの開きがあると思っています。朝コーヒーを飲むように異言を語る人もいれば、深い祈りの内にあって神の啓示に与りながら語る人もいます。
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 では次に、聖書の訳文について説明します。上に述べたことからわかるように、別の異言と考えるのか、同じ異言が両方を指すと解釈するのかによって訳し方が異なるからです。ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。ある権威ある英語訳でもthe tongues of mortals and of angels とあって、両方の意味が混在しているような訳し方をしています(区別しているようにもとれますが)。イギリスの聖書では tongues of men "or" of angels とあって、こちらはやや区別して訳しています。新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。あなたの引用した「人の異言や御使いの異言」というのはどの聖書からかわかりませんが、やはりふたつが区別されていますね。この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。
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 では、実際はどうであったのでしょう? パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Tコリント14章2節)。ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。
  ここで異言を「舌」英語ではtongueと呼ぶことが大事な意味を持ちます。異言は「舌」がひとりでに「動く」のです。「使徒言行録」の聖霊降臨の場面で、舌が「語らせるままに」とあるのはこの意味です。誰がそれを動かすのでしょう? 神の天使でしょうか? それともその舌の持ち主でしょうか? それを動かすのは神の霊でしょうか? それともその人の霊でしょうか? 実際は、その両方が、それぞれの程度に応じて混在しています。なぜなら、私たちが異言を語るときには、私たちが神に語ると同時に神の聖霊も私たちに語っているからです。このふたつを切り離すことはできません。それは御霊が私たちに宿っておられることのしるしであり、同時に、自分の知り得ない自分(これが霊の意味)が「言い難い呻きをもって」神に語っているのです。「私たちが語る」のではなく、私たちの「舌が語る」のはこのためだというのが、パウロの意味なのです。
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