【来信】
  とりなしとしての仏事の参加について交信箱にありましたので、以下とりなしについて考えてきたことをお分かちします。昔の同僚、この人は保守的な牧師の娘さんだったのですが、恋愛していました。私はこのころ、未信者の今の夫と新婚でしたが、彼女は未信者の男性に結婚の前提として改宗を迫っていたのです。結局男性は改宗を受け入れず、彼女は男性に別れを言い渡しました。
  そのときになんども言ったのは、あなたがその人を愛しているのなら、改宗を強制するより、結婚してその人の傍らで一生祈り続けることのほうが、キリスト教的な生き方ではないか、ということでした。人を愛することは友愛でも、恋愛でも、親子の愛でも神からきたものです。それはそれで、独立した価値があると考えたわけです。
  私はやはり真剣に愛することを考えてきました。自分が如何に愛がないか、しかしキリストのように愛したいか、というところで格闘してきました。愛することは共にいることであり、見捨てないことであり、共にい続けることです。相手が誰であってもそうすることです。もちろん、愛することはキリストの愛をいただかなくてはできません。私にはそれがいささかでも、自分ではできないことが分かります。しかし、愛に向かって押し出されていることも事実です。ここのところは、カトリックから、学んだこともあったのか、と思います。
   その延長線上で他宗教の問題も考えていけば解決できます。他宗教を持つ隣人は愛の対象なのです。おそらく伝道の対象である以前に愛の対象なのです。(信仰と希望と愛のうちもっとも大いなるものは愛なのですから。)仏事についても、個人を尊重し敬愛する限りにおいて、とりなしとして祈りのうちに出席してもかまわないと思うのです。マザーテレサの「死を待つ人の家」では、シスター達は、イスラム教徒に頼まれればコーランを読んであげるのです。キリスト教の尼さんが、愛ゆえに他宗教のお経を読んであげるわけです。その人の魂への愛ということに結晶させられるかどうか、が判断の分かれ目になっているように思います。
  これに関連して、私には自分自身の罪とこれへの断罪の問題があります。このことで示されたのは、自分で自分を裁くことさえ放棄して神の前に汚いまま、出て行くことでした。汚いまま出て行って白くしてもらうことでした。罪自体も罪ある私もそっくり、渡してしまうのです。そういう明け渡しをしたときに受けたものが聖霊のバプテスマなのです。これは霊的な体験であるばかりでなく、すこぶる実存的な体験です。
  自分の体験から判断しますと、神との近しさを持たずに「ごめんなさい」を言い続ける信仰が以前の信仰であり、全面降伏して、神の手の中で弱さも罪も全て抱えられている状況が今の信仰の在り方なのだと思うのです。罪とは、人間が自分の欠けを自覚して神に入ってきていただくための割れ目だと思うのです。罪を犯さなくなるということではなく、おそらく処理の仕方が全然違ってしまうのだと思います。神との関係を聖化や栄化という、プロセスで考えるより、もっと人格的な人格の交わりという見方をしていく方が正しいように思われるのです。もともと罪とは神と人間との関係の崩壊だったわけです。どんなに親しく暮らしてきた夫婦でも、関係性の崩壊はありえますし、変質しておかしくなってしまうこともあります。しかし信頼関係の深まりの中で、きずなは深められていきます。私自身は、十字架でただ背負われているだけの、赤ん坊のような自分自身を感じています。
  聖霊体験について人に語ることはごく少ししかしていませんが、実存的な明け渡しについては割と、誰でも受け入れてくださるので話しています。人がキリストと強烈なぶつかり方をする、実存的な体験である、という側面をしっかり踏まえておかなければ、聖霊体験はある意味で変質してしまう体験のように私には思えます。
【返信】
  あなたの提起されている問題と問いには、すでに立派な解答が含まれている。そう私には思われます。生きていく現実の場で、さまざまな宗教の人と普段に出会い、その人たちと交わりながら、しかもみ霊にある福音を活かしていくということがどういうことか、そこには同時に危険も伴うことも、あなたが指摘しているとおりです。私があなたの問いかけにはすでに答えが与えられていると言うのは、とりわけ宗教的寛容とこれに向けての執り成しが、自分自身をも含む人間の罪と結びつけられているからです。自分の罪と他人の罪、これがキリスト教の罪と他宗教の罪と重なり合うところに、本当の意味での<執り成しの祈り>が始まるように思います。自分の<罪の赦し>の祈りが他者の<執り成し>の祈りと結びつくときに、イエス様の十字架が全うされる。このことにあなたは気が付いておられるようですね。ただしこれは、言葉で言うほど簡単でないことも多分ご存じだと思います。
  実はキリスト教徒と他宗教との問題は、『リバイバル新聞』などで、ほかならぬ聖霊派の牧師さんたちによって現在盛んに論じられています(特に天皇制とキリスト教をめぐって)。しかし、そこでは、問題はどこまでも、キリスト教会という組織としての取り組みであり、他宗教と言うのも、宗教組織としての仏教であり神道のことなのです。組織同士が論じあったり、和解したりすることは、それなりに意味があることかもしれません。しかし、私が今考えるのは、そのような巨視的な視点ではなく、さまざまな個人が、それぞれの与えられた場において否応なく関わり合う、そういう現実の中で、理論や教義ではなく体験と経験によって創造的に創り出される真の意味での寛容であり、和解のことです。人間として生きていく上で、どうしても避けられない共同体の中にある一人として、み霊にある愛をもって「隣人」に接すること、そこにこそほんとうの宗教的・文化的な交流と和解と愛が生まれるのです。こういう無数の「ひとりひとり」を通じて働く聖霊が、日本を含むこれからの人類に最も大切な賜をもたらすとすれば、それはこのような「平和を創り出す」働きではないかと思うのです。
戻る