【来信】
 初歩的な質問なのですが、パウロをはじめ、 初代教会では異言がよく語られたことが聖書に記されていますが、不思議なことに主イエスに関して異言を語られたことを示唆する記事は皆無のように思われます。だから異言は無意味だと短絡するつもりはありませんが、この主イエスに関する事実を私市さんはどのようにお考えになりますでしょうか。
【返信】
 ご質問のイエスと異言の件は大事な点ですが、結論から先に言いますと、これは一つの謎です。ただ私なりに考えていることもありますので、その点を述べさせていただきます。
1)ペンテコステの聖霊降臨に似た舌による言語現象は、エクスタシーに伴う発言、さらに預言の言語現象とも関連していると思われます。たとえばサムエルの時代にサウルがヤハウェの預言者たちと一緒に霊的恍惚におちいったことが記されています(「サムエル記上」10の6〜7)。この現象を「使徒言行録」2章のペンテコステの聖霊降臨現象と比較する説があります。もちろん、背景となる霊的な内容は全く違いますが。<預言>の場合、この伝統は、はるか古代メソポタミアやギリシアから古代イスラエルを経て新約の時代まで続いています。
2)パウロが「コリントの信徒への手紙一」13章で、異言のことを「天使の言葉」と言っていますが、この言い方はユダヤ教の時代からのもので、洗礼者ヨハネの出身母体であると考えられるエッセネ派のクムラン宗団内でも異言(らしいもの)が語られていたと考えられます。また『ヨブの遺訓』という外典(48章)にも「天使の言葉」が出てきます(ただしこの文書は紀元前30年以降の作であろうとされています)。このことから判断して、異言あるいはこれに類する現象は、イエスの時代以前からすでにユダヤ教において存在していたと私は考えています。ただし、洗礼者ヨハネ→イエス→使徒たち→原初教会へとエクスタシーと異言を含む霊的体験はその意味を変えていると思います。その過程は、ちょうど<水のバプテスマ >がその形式も内容も変化していくのと呼応するのではないでしょうか。
3)イエスについては、異言を語った証拠も語らなかった証拠もどちらもありません。福音書ではマルコ16章17節に「新しい言葉を語る」とあって、これは異言のことですが、マルコのこの部分は、後の加筆でしょう。これは推定にすぎませんが、イエスはしばしばひとりで祈りに引きこもっておりますから、その様なときに異言を伴う祈りがあったのではないかと推測できる程度です。福音書のイエスは、異言を含む神秘的な霊体験の人であるよりも、むしろ<預言者>あるいは<知恵者>として、明確な言葉で人々に語ったと思われます。異言などの霊的な現象との関連で見る場合に、預言者と知恵者とでは、イエスについて少し違った見方ができます。霊的現象に近いのは、預言者よりも知恵者のほうです。ところが、現代では、知恵者としてのイエスは、ギリシア的な哲学者という意味で考えられています。私が知恵者というのは、この意味ではなく、あくまでヘブライの霊的伝統に根ざした知恵(ルカ 7:35)のことです。
4)異言がその意味と役割とをはっきりと与えられるのは、やはり、十字架と復活以後の<聖霊の時代>に入ってからだと思います。特にパウロとその流れをくむルカ文書において、異言を含む霊の賜がそれなりに重要な意義を与えられるようになります。私は、パウロにおいて異言が一つの大事な段階に達したと見ていますが、ルカの語る聖霊降臨とパウロの言う異言をどのように考えるかについては、いずれホームページに載せたいと思っております。
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