【来信】
  主の御名を賛美いたします。私は福音主義系の教会に通いながら異言体験をしました。同じ福音主義系で異言を体験した姉妹がいると聞いて、是非その教会での様子を知りたかったのです。お顔も名前も教会名もはっきりと思い出せず、帰り際に思い切って一人の方に声をかけてみました。すると「私の教会の姉妹だと思います。私も異言を話します。」と言われました。早速その方のお名前と電話番号を聞き帰って来ましたが、その方のおっしゃるには、私に異言を聞かせてくれた姉妹の影響でその方も異言を与えられ、他にも2〜3人の方がいらっしゃるようです。ただ、電話番号を教えてくださった方に連絡を取ることに、私自身の中で迷いが生じてきました。それは教会同士かなり近い関係にあることもあり、同時に私の教会ではこの賜物を受け入れるのはとても難しいと思うからです。それだけではなく、私に電話番号を教えてくれた姉妹の雰囲気が、御霊にある取り扱いを受けているといった感じがしないのです。「私も異言を話しますよ。」とあまりにも事務的にさばさばとした返答でした。
   最近私自身の教会の姉妹たちとの「祈りの輪」を進めていくときにも、何人かの姉妹のうちに私に対する反発のようなものを感じました。そんな中で私の心にも姉妹たちを裁いたり、自分自身で霊的な傲慢のような感じがしたりで、このことを主にお委ねし取り扱って頂こうとするのですが、同じことを何度も繰り返している自分に気づきます。クールマンさんの「愛さない霊に屈してはいけません」と言う声が心の隅に響くのですが、イエス様に「私にはできません」と訴えています。主様のお取り扱いなしに、私は愛することができないと本当に思います。結局は主様をもっともっと求めよ、と言うことでしょうか。
   先生はこういう状態にあって、あえて異言を語る姉妹に連絡を取ることをどう思われますか。自分のことをどの程度話そうかという迷いもあります。電話番号を教えてくれた姉妹の雰囲気から霊的になにか難しさを感じています。

【返信】
   あなたからのメールを読んで、まず異言が福音主義系の教会にまでこのように広がっているのかと驚いた次第です。日本では60年前に、いわゆるペンテコステ派の聖霊運動からスタートして(私はその頃の異言体験者です)、現在ではカトリック、リベラルと言われる日本キリスト教団系、福音主義系、ルーテル教会や長老派などにまで広がっているようです。と言ってもこれらの諸教団では、異言はまだ少数派でしょうね。
   一般にペンテコステ運動の既成教団への広がりは「カリスマ」運動と呼ばれています。「カリスマ」は新約聖書のギリシア語で「賜物」という意味です。ただし、日本語で「カリスマ」は、教祖的なタイプの人、人を惹きつけるタイプの人という意味で用いられていますから注意してください。例えば「小泉にはカリスマ性がある」などという言い方をします。もちろん私たちが言う「カリスマ」は新約聖書本来の意味です。
    さてそこで、こういう風にカリスマ運動が広がりますと、そこにいろいろな問題が生じてきます。そのひとつが、しかもとても大事な問題のひとつが、現在あなたが直面している問題である。私にはこのように見受けられます。
(1)問題の原因のひとつに、これらの諸教団では、指導に当たる牧師さんたちが、異言を含む聖霊体験を知らない場合が多いことです。自分の教会の信者さんたちが、自分の体験したことのない異言や聖霊体験をするというのは、指導する側としては大変困るわけです。ですから、そのような教会では、以前は、異言を否定したり「異端」として扱ったりしてきました。この傾向は現在でもまだ残っているように思います。ただし、これだけ異言や聖霊体験が広がりますと、そういう一方的な否定では対処しきれなくなっていると思われます。したがって、現在では、「教義的に」異言や聖霊体験を否定することはなくなっているのが、あなたからのメールで分かります。この辺の問題は、交信箱の「聖霊体験を証しする難しさ」をお読みください。
(2)実はこういう諸教団の否定的な態度には、聖霊(異言)派のほうにも問題がありました。それは、初期の頃には、「異言」を絶対視するあまり、異言を語らなければクリスチャンではないかのように言う聖霊派があったからです。異言は聖霊の賜物ですが、聖霊の賜物は異言だけとは限りません。ところが、聖霊運動の教団で、異言を語らない者には、聖霊それ自体が宿っていないと主張する場合さえあったのです。三位一体の聖霊が宿っていないなら、そもそもキリストの教会とは言えませんし、信者はクリスチャンだとは言えなくなります。だから、諸教団がいっせいに反発したのも当然でしょう。不幸なことに異言と聖霊体験をめぐって、このように両方の側に誤解や行き過ぎがあって、それが現在まで尾を引いています。しかし、『キリスト新聞』や『リバイバル新聞』や『ハーザー』などで報道されているように、両者の話し合いや合同集会が行なわれるようになってきて、現在ではずいぶん誤解や対立が解けてきました。私から見ると、福音主義の教会でも異言を語る人がそんなにいるのかと驚いたくらいです。
(3)こういう新しい事態になって、諸教団では、異言や聖霊運動に対して今までとは少し違った対応の仕方をしているのではないかと思います。それは、はっきりと否定はしませんが、異言や聖霊体験を「個人的なこと」として教会全体から見れば、あまり意味がないという見方をすることです。こういう「異言を軽んじる」傾向は、以前からありました。たとえ体験しても、それにあまりこだわって熱心になってはいけないという傾向です。異言を個人的な領域に制限しようとするこのような教えは実はパウロにまでさかのぼります(コリント人への第一の手紙:12の28〜30/14の4〜5)。これにはコリント教会特有の事情があったのですが、今はそれに触れません。
   かつて私が尊敬していた先生も異言体験をした時にそれまで師事してきた無教会派の先生から厳しく批判されました。このためか先生は、あまり異言のことを言わなくなりました。これはとても残念なことです。このように「異言を軽んじる」傾向に対してもパウロは警告しているからです(コリント人への第一の手紙14の18/14の39)。私の推定が誤っていなければ、あなたに異言のことを語った人たちや、もしかすると祈祷会のメンバーにも、そのような見方があるのかもしれません。自分には与えられていない聖霊体験が人に与えられているのを知るのは、はっきり言って人間的なプライドを傷つけられるのも事実です。
(4)そこで最後に、あなたはどうすればよいのかについてです。
 まず第一に、自分に与えられた異言と聖霊体験を大事にしてください。それは、あなた個人の霊的な成長にとって、とても大きな意味を持っているからです。またせっかくの体験をその方向に「活かして」いくこと、これこそがパウロが勧めていることなのです。信仰はその人が霊的に成長するためにあるのですから、教会は信者ひとりひとりの霊的な成長をその最終目標とするべきです。人のために教会があるのであって、教会のために人があるのではありません。日本におけるキリスト教の大事な役目は、「個性を育てる」ことです。これなしには、日本にキリスト教を伝える意味そのものが失われます。ただ安心成仏するだけなら、キリスト教によらなくても仏教やその他の宗教で充分間に合います。聖霊の賜物を知ったあなたにはこれ以上言う必要はないと思います。
 第二に、聖霊の賜物を体験した人は誰でも、この体験をほかの人にも伝えたいと思うものです。だから、あなたのお気持ちは私たちにもよく分かります。どうして人は、このような体験が分からないのだろう? 私たちもずいぶんそのことで悩んできました。私は今でもヨハネ福音書の講話で、この問題を採りあげることにしています。しかし現実には、なかなかうまくいかないものです。そんな時には、あなたの言うことを素直に受け入れない信仰の兄弟姉妹たちの重荷を御霊があなたに負わせているのだと悟ってください。愛する喜びから愛する苦しみへ。これが人の重荷を負う御霊の愛の働きなのでしょうね。だから、祈りつつ、忍耐を持って姉妹たちに接していくことを続けてください。そして、主は必ずあなたと共にいまして、あなたの重荷を一緒に背負ってくださることを知ってほしいのです。だから、自分で悩まないで、全部主にお委ねする。この心が大事です。信仰とは信じ込むことではない。何にもしない。何にも考えない。黙って主の御霊に任せて歩む。これです。と言ってもこれが分かるまでには、いろいろとありますがね。
第三に、異言を語ることはその人に与えられた大事な賜物ですが、それは人に強制すべきものではなく、ひとりひとりの「自由に任せる」べきことです。異言を語る自由が保証されるためには、異言を語らない自由も保証されなければなりません。これは少し難しい問題ですが、今はこれ以上語るのを控えます。
   それともう一つ、異言は信仰的に「強い人」に与えられるという誤解です。体験した人は分かるはずです。異言はけっして強いときに与えられるのではなく、自分が「弱くなって」、自己の力や能力に頼るのを止めたときに与えられるのです。そもそも信仰それ自体がそうです。ですから、異言も聖霊体験も、基本は最初にイエス様を信じたその信仰と本質的に全く変わらない。このことをはっきりと分かってもらうことです。自分が今信じている信仰上に、異言体験があるのであって、しかも自分の強さではなく弱さの中にこそ聖霊体験の秘訣があることを知ってもらうことが大切です。信仰的に強いというプライドを持っているに人にではなく、自分は信仰的にダメだと感じる人に御霊が働くのですから。 いろいろと書き連ねましたが、あなたが自分に課せられた課題を背負って挫けないで歩まれることを祈りつつ終わります。「頑張って」とは言いませんが、主に委ねて歩んでください。

【再来信】
   先生 お返事ありがとうございました。嬉しくて 何度も何度も読み返しました。主様にお委ねして一歩一歩ですね。今夜、お祈りしてから、先方の教会の方に思い切って電話をしてみたところ、いろいろとお話を聞くことができました。驚いたことに彼女の教会では、今20人ぐらいの方が異言を語っているのではと言うのです。表立って語るわけではないのではっきりした人数は分からないそうですが、予想以上に多かったので、びっくりしています。
   牧師さんは、どう対応されているのかお聞きしたところ、牧師さん自身この賜物を持っているそうですが、人前で異言を語ることがなく、その姉妹さえも最近まで牧師さんのことを知らなかったそうです。その姉妹はどうやってこの賜物を授かったのか聞いてみたところ数年前に、アナコンディア大会に行き、按手を受けたそうです。異言は一度も聞いたことがなかったのに、その夜自分が夢の中で異言を語っている夢をみて、翌日求めたら与えられたというのです。いろいろと本なども読んでいたそうです。最初、彼女に対する印象があまりにサバサバとしていたのは、こういうことだったのかと思いました。みんな人前では語らないようですが・・・。このことが受け入れられなくて離れていく人もいるようです。また、別の福音教会には500人ぐらいの信徒がいて、ほとんどの人が受けているのではとも聞きました。すべてが予想外だったので驚いています。
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