【来信】
    病にかかって以来、本当にようやっと、祈りの生活が回復してきました。信仰が動揺したからではなくて、体調がひどいと主に心を向けても祈れた気がしないのです。しかしそういう状態も含めて祈りなのでしょうね。体に心がようやっと張り付いているだけなのです。特に血圧が高くて脳血管が爆発しそうになっているときは、物理的に無理なことがよくわかりました。今はステロイドの副作用に苦しんでいます。吹き出物が出てくるのです。そして今度は血圧が下がりすぎてしまうのです。副腎の機能不全が一時的におきるらしいですね。ともかく座敷に布団を敷いてごろごろしたり、庭に出て草むしりしたり、本をぼんやり眺めていたり、ソファにすわりなおしてみたり、見舞い客と話したり、午後遅く通院に出かけて、買い物をして夕食をいつもよりかなりきちんと作ってという生活です。十五分くらいの距離なら歩けますし、バスには乗れても今しばらく電車には乗りません。
  入院中から詩篇を読みながら祈ることが増えました。祈れない時には詩篇を読むだけでも祈りになりました。今はイエスさまの御名を唱えて、聖霊様を呼ぶと、不思議なくらいの歓喜が訪れて、異言の祈りが喜びに耐えかねて噴出してきます。こんな時にでも湧きあがってくるこの聖なる喜びは一体何なのでしょうね。本当に喜悦とか、歓喜とか、としか形容するしかないようなものです。本当に主が私のすべてであり、私の全ては主のものである。そう感じます。
   イエスさまを呼ぶのと同じくらいに、あるいは交互に聖霊様を呼ぶことが増えてしまいました。同じことなのでしようが、少し違った喜びが与えられることが感じられるからかもしれません。気がつくと自然と両手を挙げて祈っていることも多くなりました。ああ、聖霊派チックなスタイル、と思いますが、そのスタイルはやはり素直な気持ちになれるから不思議です。
   こういうときには、本当に自分が御霊のバプテスマの経験をさせていただいていることを、心から感謝します。本当に御霊に満たされて祈ることができる、ということは何にも代えがたいです。聖霊様に内住していただくということは、本当に素晴らしいことです。 癒しを願う祈りを続けています。キリスト教団の友人たちは誰もそんなことは信じていません。私の病が摂理のような言い方をします。かなり悲しいです。そういう導かれ方をしていれば納得しますが、今回のことはそうではないように感じています。
 8年前、大学院の後輩の韓国人留学生が、在学中神癒の体験をしました。彼女は切迫流産していて、東京女子医大病院で胎児死亡が言い渡されたのです。セカンドオピニオンもとりましたが、やはり死亡していて、早く手術しないと母体が危ない、といわれたのです。韓国の彼女のお母さんは聖霊体験のある人で、「そんなこと、あるはずはない。絶対に子供は無事です。」といってものすごい祈りをしたそうです。手術の日に、超音波をとったら、なんと胎児の心臓が動いている!彼女は自分の不信仰を一生懸命悔い改めていました。本人から直に聞いた話です。 ただ、信じて委ねたいと思います。

【返信】
   あなた病のために祈りに出向きたいと思います。医療のことは私には判断がつきませんが、できるだけ体力も意識も元気な状態にしておいてください。と言っても、あまり特別なことはしなくてもいいです。祈りは委ねることですから、修行ではありません。霊肉共にはたらく悪しき力の中であなたが御霊にあって支えられていることを知りとても心強いです。あなたに働く御霊は、悪の力に<既に勝利している>とさえ言うことができます。これは決して、強がりや気休めではありません。霊的なことは一進一退を繰り返しつつ進むものですから。私も祈りのうちに祈りを共にできることを喜んでいます。主にあって、主の御栄光のために祈ることができるだけで、十分嬉しいです。結果は完全に主にお委ねします。み業は主がなされることです。どのような結果になっても、祈りが無駄になることはありませんから嬉しいです。
   御霊による癒やしの基本は、「罪の赦し」にあります。己の罪、人の罪、これら二重三重の罪にうち勝つ主イエスの御霊の働きこそ、霊肉共に支える私たちの力です。御霊に導かれて、悔い改めるべき所は改めて、悪の力に勝利する愛こそ私たちの命です。救いと癒やしの力はイエス様の赦しの御霊です。呪いや憎しみやその他の霊的な働きを妨げる有形無形の力に<断固として戦う>姿勢が必要ですが、その<戦う力>は愛による赦しの力にあります。イエス・キリストの贖いの赦しの聖霊こそ、霊と肉体に働く悪の力に勝つ力の源だと言うことを強く示されています。私たちの戦いは<赦しの御霊にある愛の戦い>ですね。集会で語った共観福音書講話(8)の「中風患者の癒やし」でもこの問題に触れましたので、お読み下されば幸いです。

【再来信】
   主を賛美します。コイノニアのホームページで、共観福音書講話(7)の「皮膚病の癒し」のメッセージも読み返してみました。先生がお若い頃、神癒伝道を志し、挫折していたのは信仰的自叙伝で拝見させて頂いていました。きっと若い頃の経験でもありますし、ずいぶんと信仰的にも揺すぶられたのではないかと推察しておりました。メッセージの中の不思議な陰影もおそらくそのあたりの経験から生まれたものだろうな、と一読した時から感じておりましたが、やはりそうでしたか。
    私自身、先生が按手の祈りに来てくださる時から、またその前後のメールからかなり深いところを汲み取っていたつもりです。つまり、癒しの祈りとて、祈るものは主との深い愛の交わりからとりなしの祈りの一つとして祈らされるのであって、それ以上でも以下でもない。結果は二義的なものである。あくまでも主との交わりの中で与えられた愛からほとばしる祈りの一つの相なのであって、何一つ無駄になることもない喜びの営みである。あくまでも深い主との愛の関係が基本でその信頼関係の中に不思議やしるしもある。あるいはありうる。なくても信頼関係が崩れることはない。
   この考え方は私が聖霊体験をしたのち、教会学校教師として10年奉仕して、祈りの戦いをしていたときに出来上がってきたものと全く同じです。祈りなさい、求めなさいと聖書に書いてあるのでその通りにする。しかし、結果は時に無残である。徹夜しても断食しても無残に祈りが砕かれたとき、泣きながら神をたたえていましたが、後に気づいたことは自分がそういう過程を通して深い主との交わりに入れられたことです。主との交わりから祈りが生まれてくる。そして、祈りは、あるときには祈ったとおりの御業が見られるが、あるときは無残に砕かれてしまう。少なくとも砕かれたように見える。しかし祈りは巡っているのです。御前に生きているので、すぐに結果が見られないことも多いし、祈り手に帰ってくるだけのこともあるのです。あくまでも深く主と結ばれていくことが基本なのでしょう。
   『ハーザー』を読んでおりますと、かなりみなさん勇ましくて、疑わずに祈れば癒される、必ずすぐに癒される、みたいなことが書いてあります。そこには含蓄も陰影もありません。病は悪霊と密接なかかわりがある、みたいなこともかかれています。これらの記事を読んでいると段々自分が不幸になっていきます。私はすべてを主に委ねてきたのに悪霊が触れることを許されたとすれば、惨めになります。確かに私は人の悪意を身に浴び、病気の原因ともなったストレスは呪いを受けたものだったでしょう。しかし、癒されない私がずっとその悪霊と共に暮らしていると考えることには到底耐えられない。冷静沈着ではありますが、こと主との関係に関ることでは、私は癒されにくい疑いの持ち主であるとは、思えない(自分ではかなり霊的に敏感だと思います)。 これらの記事を書いておられる方の聖会にいって癒されて帰ってきたら、私はどうなるかな? とも想像してみます。私は自分と主との関係ではどうにもならなくて、まるで違う宗教のシャーマンのところに行って癒されてきたような気持ちになると思います。あるいは癒されずに帰ってきたらどう感じるか。やはり相当惨めであろうと思います。
   しかし、いかにベニーヒンの集会でも癒されたいと思って聖会に出席した人たちの圧倒多数は癒されないのではありますまいか。つまり『ハーザー』で語られるような事例は成功事例であって、成功事例は確かに存在するものの、不成功事例の方が多く存在するのではありますまいか。華々しい癒しの影には無数の涙があるのではありますまいか。本来は癒しを受けられなかったもの、あるいは癒しを与えられなかったもの、あるいはいずれにも成功したもののすべてを含みこむ霊性が必要なのでしょうが、そのように陰影に富む霊性は現在の聖霊派にはなく、これは、先生に先んじて与えられているもののような気がします。私は『ハーザー』を読んでいて、やはり違和感がぬぐえません。私は聖霊のバプテスマを信じますし、出来れば誰にでも体験して欲しいと思います。そしてその体験を小さいグループの中で共有しつつ、信仰の分かち合いが出来たら、どれだけ素晴らしいかといつも思っています。そしてそのグループの中には自然にさまざまな賜物が見られていく、それが自然な姿のように思います。しかし、預言のハウツー、癒しのハウツーを教えるセミナーがあったりしますと、一体何なのだか理解に苦しみます。賜物を求めるのは正しいことでしょうが、それにウェイトをかけすぎる賜物主義になっていないでしょうか。賜物をぴかぴかに磨いて走っていくのが聖霊を信じることなのでしょうか?
   お祈りしていただき大変感謝します。本当に先生が真剣に祈ってくださった上であの場でも祈ってくださっているのを、私も友人も敏感に感じていました。後で話したのですが、二人とも祈りを先生とあわせているだけで、あわせ始めると同時にある種のトランスに入っていたようです。神を信じないリアリストの夫も初めて真剣に祈ってくれました。もっと祈りたかった。また、もっと月並みでないことを先生には伺いたかった。感情の解放という側面と、異言の祈りは出来なかったです。しかし、正直な祈りという面では本当に正直な祈りが出来たので、とりわけて同席してもらったことを後悔はしていません。良かったと思っています。 もちろん先生をおつかわしなったイエスさまに感謝致します。どれだけ慰められたか、支えられたかはかりしれません。
  その後、病のほうは相変わらずですが、電車に乗って行ける位に雑音には慣れました。しかし、自分の体が本当に不具合であることばかりを実感します。眩暈があるので均衡をとって歩くために本当に不随意になったからだ、ぶらぶらバランスの取れないついているだけの首。「このめまいはいつまで続くのですか?」という問に「治るかどうかもわからない。」と言う木で鼻をくくったような医者の返事。医者というのは、医学の手におえなくなった患者には本当に冷たい。思わずこのときばかりは泪が出ました。
   病んで辛いことはそうではないことを知りつつも、見棄てられ感を経験することです。信仰は確かに強い武器です。普通であればうつ状態になったり、運命を呪ったりするであろう時に、そうすることもない状態でいられるのですから。しかし、信仰をもたない人、あるいは持っていても確信に至らない人に比べれば、5分の1くらいでしょうが、揺れを経験します。正確には同じように揺れて、同じような感情を体験しつつも、それにとらわれ切らないというだけなのでしょうか。
  朝五時過ぎにリビングに降りてきて祈る時、賛美と感謝に溢れています。異言の祈りが溢れて、ついにはどうしたのか、聖なる笑いになってしまいます。喜びの余り笑うのです。これは病気前にはなかったことです。しかし、とりなしの祈りが今は辛いです。癒されない自分のとりなしなど聞かれないのではないか、という思いが一番辛いです。そうではないことは充分理解しています。自分の祈りが聞かれないとは絶対に思わない。病む私の側に主は立ちたもう。病においても主と結ばれることはできます。しかし、とりなしの祈りが出来ない。しているけれども辛い。何故、こんな目にあうことを主はお許しになったのか? という思いも頭をもたげそうになります。しかし、もたげさせません。どうして一生懸命どんなに苛められてもイエスさまに従って祝福しか流さなかったのにこんなに苦しい目にあうのか、と言う思いも横切りますが、殺します。 
   さて、不思議な主の御手のようなものが私の上に働いているのではないか、と入院中のはじめのお手紙に書いておられましたが、今の状況をぐっとひいて眺めると確かにそうではないかと感じます。按手礼を受けたあとの私を襲った聖霊の嵐はそのことを告げていますし、同時に今の暗いときに私の中で保証書になっています。(保証書を出しておかないと私はもたないと主は判断されたのでしょう。)そしてこの大それたビジョンは、7、8年位前から、20世紀の二大マザーである、マザーテレサとマザーバジリア・シュリンクを訪ねた時に与えられ(マザーバジリアはドイツ人でプロテスタントの人。直接お会いしてお話し出来た)、自分の中で「とんでもない」「やめてください」「そんなはずはないでしょう」と何度となく否定されながら消し去れなかったものです。
  共観福音書講話(8)の「中風患者の癒やし」を拝見しました。後から「注」の解説を読んでみて、罪の赦しの方が根源的であり、神以外には出来ない業であり、本当は難しい業である、ということを読んで今更ながら感動していました。私のように癒しを信じない教会で育ったものにとって、罪の許しというものが本質であるということは聞き飽きた位のことでした。しかし、聖霊の働きのなかで様々なしるしがありうる、という立場に自分が移り変わってみたところで、その文脈上どのように罪の赦しが意味付けられるのか、ということは不明のままでした。罪の赦しが本質であって癒しは存在しない無視していい、昔の出来事であるという読み方か、あるいは罪の赦しは癒しや奇跡、聖霊のバプテスマ等の聖霊の働きに比べたら初歩的なものに過ぎない、という無体な二者択一を現状のキリスト教の動きの中では迫られるように感じるからです。異言も含めてすべてのカリスマを、主からのしるし、贈り物として位置付けなおしていくこと、賜物主義でなく、主との信頼関係本位に信仰を見直していくことが聖霊の働きを信じる立場において必要な気がします。聖霊の働きを信じる者はネガティブな経験をしないということではなく、初代のクリスチャンたちも含めて、どのような聖人たちも苦難に会い、時には殉教さえしたのです。しかし、パウロもそうですが、キリストのために苦しむことを恵みと考える信仰を持っていました。私は聖霊体験以後にいろいろな「気づき」を与えられましたが、その中に日常のどのような苦しみであっても、それが病も含めて、自分のものとして苦しむことも、主が共に苦しんで下さると信じることも、更にそれをささげて主のための苦しみとなすことも、出来るということに気づきました。主が私と共にいてくださるという段階から、更に「われみづからキリストと共にあり、キリストの苦しみを担えり」という段階にまで至れるということに気づきました。このような気づきは信仰のラビリンス−−つまり登ったと思えば入り口まで引き戻されてしまうように見える段階的な信仰の進歩−のなかで見失われていましたが、再び戻ってくるように思います。
戻る