【再来信】
申しわけありませんが、私にはまだ納得がいきません。確かに世界的に見ればクリスチャンは多数派です。そして聖霊派のなかに身を置いてみれば、小国の日本を大国と大国との精神的同一性に立った尖兵が攻めている構図に見えなくもないでしょう。しかし、経済や金融等アメリカを中心としたグローバルスタンダードに従わなくてはどうにも生き残れない者はともかくとして、精神的には日本は和魂洋才の使い分けの激しい国です。またキリスト教を受容しないからといって、世界から何か制裁されるとは到底思えません。ましてや、聖霊派の影響力などはどのように海外で大きくなったとしても標準的な日本人にとっては、無視できる程度にしかならないでしょう。日本は百年この方、これでやってきましたし、これからも悲観的に見れば変わらないでしょう。キリスト教の文化的思想的精神史的影響は戦後以降、小さくなりこそすれ、大きくはなっていないと思います。歴史のある教会も今は本当に細々と存在しています。どこでもそうですがキリスト教主義の学校はその精神的な影響力を失っていて、伝道には結びつきません。日本基督教団などは、地方でも首都圏でさえも無牧の教会が増えています。信徒は高齢化し、若い人は教会に定着しません。聖霊派は教勢が比較的伸びているのかもしれませんが、キリスト教全般を見たら、ものすごい停滞と衰退を続けていると思います。
   アメリカやその他海外に同一性を求める限り、確かにクリスチャンは多数派でしょう。しかしクリスチャンではあってもアメリカに同一性を求められるとは限りません。むしろ、今細ってしまっているキリスト教の流れなどは、アメリカのミッションとの関係を断ち、土着というか、社会的に適応し順化していく中で、そのように衰退せざるをえなかったのではないでしょうか(もちろんそれだけではありませんが)。遠藤周作の著作は中高時代、殆どすべて読んでいますが、そのなかに彼は「日本は沼地である、そとからどのような苗を持ってきて植えても枯れてしまう」と言っています。
   アメリカ直輸入のものでないキリスト教、アメリカ製であることを拒否したキリスト教の必要を感じている人間にとって、日本社会で暮らすのは時には孤独で非常につらいものです。マイノリティー問題というのはある意味でその当該社会の中での問題であって、グローバルに捉えたものではないのでしょう。先生のおっしゃるとおり、世界の中での多数派、日本の中での少数派という二重の文脈性に日本のクリスチャンはある。しかし、私には世界の中での多数派という意識が持てない。私の知っているような人たちで、そういう信仰を持っている人は殆どいない。アメリカやその他のクリスチャンの集団に同一視できない。これはどういうことなのか? よいことなのか? これ自体が日本という沼地への溶解なのか? それとも純国産のものが生まれているのか?

【再返信】
  この問題は、複雑でかつ根の深い問題なので、先の返信で納得できないのはやむを得ないことで、このような再来信が来るのは当然だと思います。ご質問に対する最終的な答えは現在の段階では見いだせないと思います。ただし、あなたと私との間には、いくつかの「視点の違いが」ありますので、その点だけをあげておきたいと思います。もっともこれで、あなたの疑念が解消するものではないとは思いますが。

(1)「和魂洋才で100年この方やってきたから日本はこれからもそのやり方で続くであろう」ということについて。おそらく大多数の日本人は今あなたと同じようにそう考えていると思います。内と外とのこのような使い分けこそ大和民族の生き残りの戦術だと言えなくもありません。しかし、このような使い分けの巾は今後確実に狭められていくことが予想されます。過去において、日本はA(アメリカ)B(イギリス)C(中国)D(オランダ)に周囲を取り囲まれて追いつめらました。その結果、最後になってやむを得ず「窮鼠猫をも噛む」戦術にでたのが先の大戦で起こったことです。アメリカ人は、日本人のこういう柔軟で素顔を見せない状態にありながら、ある時に突然暴発する性格を「受け身の攻撃性」”passive aggressiveness”と呼んでいます。しっかりした原理原則に基づいて、きちんと説明し、立場を明確に主張することをせず、外に対して不可解な沈黙を保ったままある時突然暴発するからです。どうせこちらの論理はアチラには通用しないのだからという諦めがその背後に潜んでいます。中国は堂々と原則を主張し、韓国は常に抗議の声をあげて自己主張します。外の世界では、日本よりもこの両国のほうがずっと分かりやすく、国際的に理解されやすいのです。この意味で、和魂洋才によって内と外とを使い分ける戦術は、先の大戦で破綻したと思っています。
  なぜなら、今後は和魂と洋才との間の選択の幅が狭まると同時に、和魂と洋才との均衡をとる合間の猶予も確実にスピードを上げていきます。結果、日本は再び孤立して引きこもり戦術に出る可能性さえないとは言えません(こういう状況がくると「キリスト教」は、人々の反発を招く恐れが出てきます)。周囲の諸国が引退と孤立を認めて、穏やかに見守ってくれるだけの余裕と善意があればそれもいいでしょう。しかし私は、「いわゆる」和魂洋才的な生き方は、少なくとも社会の大半の人にとっては(日本の社会は、これからいろいろな面で、二極分解かあるいはもっと多様化する)、通用しなくなる時代が遠からず来ると見ています。政治、経済、教育、家庭、道徳、宗教いずれの分野でもこれは起こりえます。もう一度戦前のような引きこもりを繰り返すなら、いずれどこかの大国に従属して半植民地化されるか、それとも内にこもって再度「暴発」するかしかないでしょう。もしもそうなれば、今度は完膚無きまで叩きのめされます。おそらく日本は分割統治されるでしょう。穏やかに平和に、ちょうどイギリスのように老化して静かにローカルな小国へと引退するには、まだ時期が早すぎる(悪すぎる)からです。アジアも周囲の状況も、これだけ経済的に大きくなった日本を黙って見ているはずはないからです。それに、日本人自身も、まだそんな気はないと思っていますよ。しっかりした価値観に裏打ちされた国際的に通用する思想をどうしても外に向かって明確にしなければならない。こういう危機感こそが、今の日本人に一番大事だと私は見ています。この場合、危機感がないのが最大の危機だという逆説は、今の日本の経済状況とよく似ているように思うのです。
(2)私は、アメリカを初めてとして現在起こっているグローバルな聖霊運動を決して過小評価していません。また今後これが日本に与えるインパクトも軽く見てはいません。ほとんどの日本人が、キリスト教のそういう動きに「たかをくくっている」のは事実です。特にインテリはね。キリスト教は神話だと思っている自称「聖書通」が大勢いますから。ここでもまた逆説的ですが、こういう状況の下では、私はキリスト教がこれからかなりの程度で日本に浸透し、ペンテコステ革命とまではいかなくても、そうとうのインパクトを与えると見ています。理由は二つあります。第一に、すでに韓国と台湾がこのインパクトに曝されています。第二にアメリカには、日本への本格的伝道(思想改造)をすでに策定している。少なくともそういう勢力があると私は見ています。ちょうど、経済的に日本企業を買収するように、いかにしてこの国をアメリカ的な意味で「キリスト教化」するか? すでにその戦術をある程度完成させているのではないか。こう私は考えています。少なくとも、イスラム圏やヒンズー圏のように、宗教的な危機感に敏感な国民よりも、はるかに御しやすいのがわが大和民族です。こういう場合の宗教の真の怖さは、決して「そっとしておいてくれない」というのが、やっかいなところです。もっとも、この点では、キリスト教よりもイスラム教のほうがはるかに過激です。日本人がイスラム教徒に豚を食べることを強制することはないと思います。しかし、イスラム教徒が日本に本格的に入り込んできた場合には、特にイスラム原理主義者なら、日本人にも豚を禁じる可能性があります。幸い今のところそういう兆しはありませんが。宗教的寛容がいかに大切か、私は今この問題をこういうコンテキストで考えています。
(3)私は自分たちの信仰と霊性が、欧米のキリスト教の伝統から切り離されてはならないと考えています。ですから、アメリカ的キリスト教を拒否して日本的なキリスト教に「閉じこもる」ことが、今後の日本にとっても、またキリスト教自体にとっても、正しいとは考えません。宗教は霊的な生命力ですから、二千年のキリスト教の霊統を無視するなら、立ち枯れるのは当然です。だから、今私たちは「否応なく」21世紀のキリスト教の有り様を探り求めなければならない。こういう状態にあると認識しています。私に言わせれば、これこそが「神の導き」です。人間は、ある程度強制されなければ、自己改革などできない存在ですから。ですから、私たちは、決してローカルな日本人専用のキリスト教を求める状況にはないのです。
   ただし、遠藤周作と私とは視点が少し違います。彼の基盤にはカトリシズムがあります。カトリック教会の立場からすれば、日本は(未だに!)「布教地域」に分類されます。つまり、カトリック国でもキリスト教国でもないという意味です。遠藤周作の視点には、この「布教国」にはどのようなキリスト教がふさわしいか? という問題意識が根底にあるように思います。そこには、日本のキリスト教こそが、今後のカトリックのキリスト教を変革させていく。あるいは、これからの世界のキリスト教はカトリックではなく日本から生まれる。またそれを目指す。こういう発想はありません。ところが、これこそが、内村鑑三の発想だったのです! 実はこれこそ、16世紀から17世紀にかけて、イングランド国教会が目指したことです。この姿勢は、ピューリタン革命を経て、アメリカのキリスト教とその建国理念に引き継がれました。私に言わせれば、日本は「泥沼」などではありません。それどころか、ある意味で、これからの日本人に大いに期待しています(その分落胆も大きい!)。ですから、私は日本の将来には楽観的です。神様はこの国とこの民を愛しておられますよ。俳優の渥美清さんはクリスチャンだったようですが、ああいうクリスチャンはいいですね。クリスチャンだからこそ、寅さんのようなああいう日本人を演じることができたんだろうな。そんな風に考えています。小池辰雄先生のように、美空ひばりのファンとまではいきませんが。
   以上私の思うままを書き連ねました。なんらかのご参考に?なれば幸いです。
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