【来信】「異言を解く」という聖書の言葉自体、異言に啓示性があることを言っているように思われますが、正直なところよくわかりません。この点に関する先生の御体験、また参考図書等ございましたら御教示お願いいたします。

【返信】異言は「天使の言葉」であるということが初代教会で言われていました。現在ではこのような 言い方はされていないようです。しかし、この言い方には、実はとても大事な洞察が秘められていると私は思います。なぜなら、天使は神ご自身ではなく、また人間でもありません。すなわち、「天使」には「神と人間とをつなぐ者」という意味合いがこめられています。有名なベテルでのヤコブの梯子の夢を思い出してください。あの梯子の上を登り下りしていた天使は、ヤコブへのメッセージを伝えると同時に、実はあの天使は<ヤコブ自身>であったという解釈があるのです→「ヨハネによる福音書」1章51節ではイエス様ご自身のことになります。このことは、異言<で>語ることは、異言<が>語ることをも意味します。すなわ、「舌」が語るのは、人間が神に向かって語ることと神が人間に向かって語ることとの両方が、同時に起こっていることを意味します。「使徒言行録」の聖霊降臨の記事で、御霊が<語らせるままに>とあるのは、この意味に理解することができます。
  異言を解く賜物は、実は預言の賜物へとつながるものではないかというのが、今の私の見方です。しかし、これとは別に、自分の異言を自分で解く場合には、注意しなければならない点があります。異言を解くことも含めて預言や啓示の場合に、最も警戒しなければならないことは、<誰か他人のこと>に関することが与えられた場合です。これは、よほど注意しないと、自分の人間的な感情が入り込むおそれがあるし、現に人を裁いたり、勝手に判断したりする場合が見受けられるからです。霊的な賜物は、「ひとりひとりに」与えられたものです。ですから、少なくとも初めのうちは、自分自身に関する事柄に限るほうがいいようです。なぜなら、

(1)自分に関することは自分がよく知っているから、事の是非を判断できる。たとえ結果として間違っていても、その被害は自分だけに限定される。
(2)もしも未来に関する預言であれば、それが実際成就したかどうかを自分の身で確認できる。→他人に関することはよほど注意しなければならない。
(3)そこで、まず日常のごく些細な事柄に関して、自分に与えられた「解釈」や預言が、真実であったどうかを確かめるところから始めるのがよいと思います。これは決して、主を<試す>ことではありません。日常の小さな事で、み霊の声と自分の声とを聞き分ける訓練を積んでおれば、大事なときに、それがみ霊の声か自分の思いこみかを判断できるようになるからです。その判断の基準としては、
a.自分の利益や自分の好みと異なる事が示された場合は、おおむねそれはみ霊の声である。
b.自分の判断と正反対のことが示されたら、それはみ霊の声である。
c.それまで全く示されず、突然その場で示されたら、それに従え。
d.逆に、自分で前もってあれこれ考えておいたことでも、それと違った道が示されたら、慎重に白紙に戻してもう一度考えよ。
 以上大変おおざっぱですが、現在お伝えできることです。もとよりこれは私の狭い経験からです。み霊の働きは、はるかに多様です。ご参考にしていただければ幸いです。
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