【来信】
   私は初めて、聖霊を求めて祈りました。するとどうでしょう。私の中に圧倒的な光りが洪水のように流れ込んできて、あっという間に私を満たしたのです。集会から時間が経った今も、私は全身をベール覆われ守られているような感覚を持っています。祈ることが楽しいということも知りました。私はようやく聖書を読みはじめたばかりです。信仰を持っているとはまだ自分では言い切れません。ですが、主さまに愛で満たされること、聖霊で満たされることを、私は知りました。主さまに感謝です。

【返信】
   あなたのメールを読んで、聖霊体験をしてまだ1年も経たない頃の自分を思い返して、いろいろと戸惑ったり不安に駆られたりしたことを今思い出しています。そこで初めて聖霊を体験した人のために簡単な心構えのようなものが必要ではないかと思い、お便りを「利用」させていただいて、交信箱のために「初めての聖霊体験の後でどうすればいいのか?」という項目を作成しました。ご参考にしてくだされば幸いです。
(1)
「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
(使徒言行録2章42節)

   これはペンテコステに聖霊の降臨を体験した後で、聖霊を受けた人たちがおこなったことです。ここには、「使徒たちの教えを守る」「相互の交わりを守る」「一緒に食事をする」「祈りをする」の四つのことがあげられています。以下に、順序を少し変えて、これらについて簡単に説明したいと思います。
1)祈りについて。聖霊体験をした人は、生まれたばかりの赤ちゃんとよく比較されます。赤ちゃんに必要なものは、ミルクと呼吸と手足の運動、それに世話する人です。「祈り」はその「呼吸」に相当するでしょう。まず、自分の力に頼らないで、肩の力を抜いて、御霊によって「祈らせていただく」という気持ちが大切です。それから、必ず「主イエス・キリストのみ名によって」祈ることを忘れないでください。聖書の神は、霊の神ですから、姿形を具えた「偶像」ではありません。ですからこの神は、特定の場所に行ってお参りする神様ではなくて、ただ「御名」によって「呼び求められる」ことで、その場でその人に御臨在を顕わしてくださる神なのです。聖霊の働きはいろいろな相を顕わしますが、聖霊とは本質的にイエス・キリストの御霊(みたま)、すなわち神的な位格(person)の存在、分かりやすく言えば人格的な「お方」なのです。だから、語りかけ、呼びかけ、交わり、そして礼拝することができます。聖霊を体験した人は、祈ることで、主の御霊にある交わりを絶やさないようにすることがなによりも大切です。
2)使徒たちの教え。これは端的に聖書のことだと考えてください。特に新約聖書を読むことをお勧めします。聖書は新共同訳(カトリック・プロテスタント共通)で、できれば旧約・新約と「続編付き」のものを買うことをお勧めします。キリストのことを知るためには、まずルカによる福音書を読むことから始めるのがいいでしょう。もちろんそれ以外で自分で読みたいところがあればそれから始めても結構です。なお、コイノニアのホームページの「聖書講話」の中からも適当に選んでお読みください。なお「聖書講話」を読む場合に、註がついているところでは、註を省くか「講話」の部分の後で読んでください。聖書のお言葉が御霊の働きと共にあなたの心に働きかけるようになれば、あなたはクリスチャンとして生きる土台を築いたことになります。お言葉は、ミルクですから、始めから固いものを食べないほうがいいです。わかりやすいところ、すなわち流動食から始めてください。
3)信者の交わりについて。これは与えられた集会へ出席することで、赤ちゃんの手足の運動に当たります。献金よりも大事な「時間を主に捧げて」集会に出席してください。集会では、自分に与えられている聖霊の恵みをそのまま、あるがままに証しするように努めてください。言葉に出して人に語ることは、あなたが思っている以上に大事なことなのです。御霊のみ業は、あなた一人だけの所有ではありません。これにはもちろん書いて証しすることも含まれます。
4)食事について。これは現代では、聖餐に与ることです。聖餐は通常、洗礼を受けた人にだけ許されます。しかし、パンと葡萄酒をいただく聖餐の霊的な意味は、福音の真髄を表す大事な内容を含んでいて、洗礼のあるなしにかかわらず是非知ってほしいことです。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロのこと)に現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」
                     (第一コリント15章1−5節)

   ここにキリストの福音の核心が語られています。すなわちそれは、キリストの「十字架」と「復活」そして「聖霊」です。この三つは一体ですから、どれかひとつをはずすとほかも意味を失います。時間的には十字架→復活→聖霊降臨の順になりますが、実際の私たちの体験から見ると、まず聖霊体験があり、これによってイエス・キリストが今もなお生きておられて私たちと共におられることを悟り、そこから、私たちの罪が赦されていること、すなわち十字架の贖いについて知ることができるようになります。キリストの血による罪の赦しこそ、御霊が私たちに降って宿る前提であると悟るのです。
(2)
   このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
(ローマ5章1−9節)

    ここに語られているように、私たちに御霊が働くのは、徹頭徹尾、私「だから」ではなく、私「にもかかわらず」の事態です。「恵み」とか「恩寵」とか呼ばれるものの真の意味がこれです。ですから、自分がこんなに一生懸命なのだから神は恵みを与えてくださるはずだとか、私が誠意を持って神に接しているから恵みを受けるのだと考えてはいけません。自分の努力によって聖霊の働きを得ようとすることほど贖いの御霊から「ずれる」ことはありません。御霊の働きも、ひとつの自然法則のようなものです。自然法則それ自体を、人間の努力や誠実で変えることはできません。それはいわば、罪人である自分に働く「恵みの法則」です。それは人間的(パウロ流に言えば「肉的」)な存在とは「関わりなく」働き給う御霊です。ですから真実や誠実は私たちのほうではなく、神のほうから来る真実です。私たちの思惑や意志や誠実さは、自分自身を含めて、人を裏切りますが、自然法則は決して人間を裏切りません。これを「信仰の法則」とも「御霊の法則」とも呼ぶことができるでしょう。私たちは、自分からはなんにもしない。というより「できない」のです。ただ主のみ名を呼んで御霊に委ねる。これが秘訣です。光が注がれる時には、己の心の闇も姿を現すでしょう。しかし、その光に照らし出される「心の闇」に耐えて、御霊に委ねるときに、闇が次第に解消する、あるいは克服されるから不思議です。こうして私たちは、何一つ変わらない罪人でありながら、御霊にある主に包まれる(これを「キリストを着る」と言います)不思議が生じるのです。
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